「天使が悪魔になる日 42」




 もう、日付を考えるのもばかばかしいほど昔の話だ。

「なあドラゴン―――」
 茘枝が(魔術を創始した青い髪の魔術師)やんわりと、なだめるような口調で言葉を発した。
「駄目だよ、茘枝。それだけは駄目」
 それに、ドラゴンはふるふるとかぶりを振る。
「茘枝、あなたが人間を愛しているのはわかるよ。あなたも人間だから、人間を守ろうとするのは当然だししょうがない事だってわかってる。僕はあなたを愛しているから、あなたが人間を守ろうとするのには、協力するし、してきたよ。それもこれもすべて、あなたを愛しているから」
 ドラゴンにとって、目の前の青い魔術師はどんなものより美しく感じる存在だった。
 アバタもえくぼというのは、ドラゴンにもりっぱに通用するのだ。
「だから僕は茘枝を手伝ってきた。人間なんかのためじゃない。あなたのためだ。人間なんて大嫌いだ。それでも人間を守ってきたのは、あなたのだめだ。でも、だからこそあなたが死んだあとのことまで、僕は知らない」
 そう強い口調で言い切ったあと、ドラゴンは声を柔らかくする。
「ねぇ茘枝、僕はいろいろがまんしてきたよ。あなたのために、したいこともせず、嫌なことも無理矢理やってきた。その僕が、こう言ってはいけない? 愛せないものを守りたくないと。僕はあなた以外の人間が嫌いだし、愛せそうにない」
 そこで一呼吸の間をあけ、ドラゴンは言いきる。
「守れない約束は、したくない。だからその約束はできないよ」

 茘枝は、ドラゴンの目の前で、ちょっと困った顔になり、ちょっと頷く。
「わかった。じゃあ、賭けをしないか?」
「賭け―――? 人間のギャンブルは嫌いだよ」
「これからいう状況が実現したら、そのときはその人間のために力を貸してくれないか?」
 最初は不満げにしていたドラゴンも、話を聞き終わると頷いた。
「絶対に実現するはずないからね、そんなの。いいよ、そのときはその人間に免じて力を貸すよ。実現するはず、ないけどね」

 それは遠い遠い、いまやドラゴン以外の誰も知らない一つの約束。


     § § §

 茘枝は(正確にいうと、茘枝の体を操っているクルーノの眼は)しばらくの間、坑道に沿って歩いていたがその途中でいきなりその足を壁の方向に向けた。
 狭くはないが広いとも言いがたい坑道内である。一歩壁の方向へ足を向ければ、次の二歩目で壁に頭突きする。
 しかし後続全員が驚いたことに、茘枝の青い頭はそのまま、壁のなかに吸い込まれる。すぐ次のヘプライトは悠長に驚いている暇もない。手を引かれるまま、壁に飛び込んだ。その後ろの三人も即座に覚悟を決め、手を引く力に逆らわずに足を踏み出した。
 そのときの感触を、どう形容すればいいものか。
 無数の棘が、全身の皮膚をあますところなく舐めていった。
 ざわりとする、不快感をそのまま形にしたような感触。

 壁を抜けたあともすたすたと変わらぬ歩調で歩き続ける茘枝の後ろで、そこまで度胸のない男たちはひそひそ声で話し合った。
「い、今のは……」
 スクエアが答える。
「たぶん、ドラゴンが作り出した壁を、自分たちが通れるぐらいに『薄めて』通したんでしょう、クルーノの眼が。ただの眼くらましなら巨人族が気づくでしょうから、あそこには確かに壁があったんです、ドラゴンがつくった、壁が……」
「それを消さずに薄めるだけにして通した……? 何故?」
「消してしまったら、誰にでも通れてしまうからでしょうね。薄めるだけならほっとけばまた壁にもどります。そういう自動で修復する魔法は人間にもありますよ」

 そんな会話をしたあと、四枚、壁をくぐった。
「……こんな道、あったか……?」
 巨人族のラークスは疑念をもってまわりを見つめる。確かに坑道は網の目のようだが、しかし壁を通り抜けてから今まで、二十分は歩いている。そこまで長い坑道を忘れることなどありえない。
「惑いの家の例を思い出してごらんなさい。ドラゴンは人間の認識ぐらい、いくらでもかく乱できるんですよ。あなたの祖父ぐらいの年代にこの道を人間から隠したか、あるいは、ドラゴンが魔法で掘ったんでしょうね」
 それら背後の声に振り返ることすらせず、茘枝は足を運ぶ。
 歩き始めて小一時間ほどたった頃だろうか。
 茘枝は突然ぴたりと足を止めた。
 はじめて振り返る。
「つきましたよ」
「えっ」
 というのは全員の総意だ。
 茘枝が止まったのは坑道の行き止まりではなく、その途中だった。前にも奥にもまだ道は伸びている。

「じゃ、用意はいいですね、いきましょうか」
 説明ひとつすることなく。
 周囲の無音の悲鳴をよそに、さっさと茘枝は壁に一歩を踏み出した。

     § § §

 最初に感じたのは、目を射るまぶしさだった。
 茘枝が作り出した魔法の光など、本物の陽光と比べたら、雨と子供の水遊びぐらいの違いがある。
 丸一日以上坑道に押し込められ、その光に慣れていた一行はそろって目を手でおおった。
 やがて目が慣れるにしたがって、手を目から下ろし、周囲を見回す余裕が生まれてくる。
「……なんだ、これは?」
 あふれるほどの陽光と、青い空。そして、地面に萌える緑の若草。
 視界は広く、何ものにもさえぎられずに伸びている。
 気持ちのいい風が頬をなで、ふと思いついて後ろを向いても、そこにはあの暗い坑道などどこにもなかった。
「山頂……?」
 ケリーが問う眼差しをラークスに向けると、ラークスははっきり動揺してかぶりを振った。
「そんな……、ありえない! あの山は完全な禿山のはずだ」

 ケリーは腰をかがめて花をなでる。どこにでも咲いている、雑草の先に着いた桜色の花。
 ヘプライトはこのなかで最も実用的だった。
 雑草咲く草原を土足で横切り、草原に終わりがあるのを発見したのだ。
「ケリー!」
 呼ばれて行くと、なるほど縁がある。すぐそこにみえる縁まで歩いて、ケリーは今度こそ混乱した。
 彼らは、とても高い山の頂にいたのだ。草原の縁からは地上が見下ろせた。
 その頂はすっぱりと平らに切れていて、そこに今いる草原がある―――ここまではいい。だが。
「……ここは、竜の尾じゃないぞ……」
 見下ろす下界の向こうに、青い大きな輝きがある。竜の尾は大陸の中央にある。
 海など見えるはずもない。
 草原の縁に立ち、下を見下ろして―――ケリーは思わずへたりこみそうになった。

 彼らがいるのは山の頂などではなかった。人間が高所から低所を眺めるには、山の頂から見下ろすほかない。だからそう錯覚してしまったのだ。
「浮いてる―――!」
 彼らは空に浮かぶ草原の真ん中にちょこんといた。
 いやまて、それぐらい当然だ、人間だって魔術師は空を浮く。ならドラゴンなら土地ひとつ浮かばせてみせるぐらい簡単だろう。
 そう言い聞かせると、突発的な混乱は急速におさまった。
 しかし、まだ平静とはいいがたかったらしい。
「やあ」
 そう声をかけられたとき、ケリーは不思議にも思わず、振り返ったのだから。

 そこにいたのは金髪の青年だった。
 金髪ほど個人で色の違いの大きい髪はない。茶色に近い金髪、色の淡い白い金髪、ほとんどダークブラウンだという金髪。ケリーはそれらをたくさん見てきたが、この青年ほど純粋な金髪は初めて見た。いや、一度だけ、リチャードが子供の頃こんな色だったが、成長するにしたがってあの純粋な色は消えうせてしまった。

 顔立ちは、竜の尾のそれではない。ケリーは竜の尾にすむ民族の顔立ちなら、どの顔も見分けられる自信がある。そのうちのどの民族にも属さない―――異邦に属する人の顔だった。豪奢ともいえる金の髪にそぐわない、ほっそりした、特徴のない顔立ち。
 背はそれなりに高い。ケリーよりすこし背が低いぐらいで、ほぼ同じ身長だ。服は珍しい。
 白い襟立ての、前開きの貫頭衣だ。まるで神官のようにすとんとした衣で、丈は膝よりまだ下にあり、中央に、衣服の分かれる線に沿ってまっすぐ下まで金糸で縫い取りがなされていた。
 ケリーは戸惑った。
「……あの?」
 凡庸な青年は、平易な口調でたずねる。
「願い事はなんですか?」
「―――は?」
 助けを求めて視線をさまよわせ、やっと気がついた。―――いない。
「茘枝……? スクエア、ヘプライトっ! ラークス?」
 怒鳴っても返事はない。
 そこで、やっと。
 ほんとうにやっと、ケリーは青年の正体に思い至った。
 金髪。―――黄金竜。
 自分たちは、誰に会うためここにきた?

「あなたは、まさか―――」
 その続きを言う前に、特徴のない顔立ちの青年は、ふわりと笑う。
「古の盟約に基づき。君の望みを叶えよう。初めて自らの足をもちい、私に会いに来た王家の者よ」
 衝撃が、腹のなかで反響した。





2004 5/22up


オリジナルのページに戻る

  トップへ行く