「天使が悪魔になる日 38」
ため息というのは不思議だ。
ただ息を吐く、それだけなのに自分はおろか周囲の人間までも暗く沈んだ気持ちにさせる力がある。
よってできることならため息を吐くのは周囲に人がいない別の場所でするべきだろう、それができるものなら。
大抵ため息をつきたいときというのは無自覚でついてしまってから気がつく。更にいうと「あてつけ」でため息をつく場合も多々ある。どちらも周囲に及ぼす迷惑を軽減できない。
かくて人はため息をつき、周囲の人間も道連れに、いやーな気分に陥れるのである。
しかし不幸なことに茘枝は自分がため息をつきたい気持ちでいることを自覚できてしまったので、席をはずし、誰もいない夜のベランダで思う存分ため息をついた。
「……やだなあ、順調で」
「順調だとなにかまずいんですか?」
その声は茘枝自身の喉から発された。
もちろん、茘枝が首から下げている宝珠のしわざだ。
体を無断借用されることにむっとした顔になったが、この際仕方ないことだと割り切るだけの分別はある。
「あなたに発声器官でもあればいいのに」
「むちゃな事言わないでください。発声器官は肉ですよ? 僕が生まれて何年たつと思ってるんです。僕に肉が備わっていたら、どろどろのでんでろりんに腐ってますよ」
「ううう、正論すぎて反論できないわ……」
一人芝居として聞いた人間は引くだろうが、あいにく、この場にこのやりとりを聞く人間はひとりもいない。
クルーノの眼は話をもとにもどした。
「で、どうして順調だとそうしてため息つくんですか?」
「……私は自分が可愛いの!」
「そうでしょうねぇ」
「私は自分が大好きなの」
「でしょうねぇ、僕の主人になれたぐらいだから」
「私は私を肯定するわ。自分で自分が嫌いで仕方ないなんて人は、可哀相なひと。自己否定は蟻にたかられた砂糖細工のように自分をぼろぼろにしていくわ。だから私は自分が好きなことを恥じたりしない。誰に対しても堂々と言うわよ。私は私が可愛い。私は私が大好きなのよ」
「そのとおり。ぜんぜん悪い事ではありませんよ、マスター。自分を嫌いな人は、不幸です。そして不幸な人間というのは、かなり高い確率で建設的なことは考えませんからね。まあまれに茘枝様みたいな人もいますが」
「……その茘枝様みたいにはなりたくないのよ……」
茘枝は頭を抱えた。
「不老不死というのは簡単ですが、一旦なったら、簡単に解除できませんからねぇ……。それこそ茘枝様のように、呆れるほどの時間と労力をかけてしか解除できない」
「……その、茘枝様の記憶を見たけど、なによあれ。恐怖絵巻そのものじゃないの。自分を殺しにきた暗殺者に、斬られた自分の首を片手で抱えて『やあこんにちは』、って……」
「デュラハンみたいですねぇ、まあ茘枝様ですし」
「槍を頭に刺したまま、おい自分の武器を置いてくな、とか……」
「ゾンビみたいですねぇ、まあ茘枝様ですし」
「あげくの果てには全身焼きつくされて灰になってその灰をそれぞれ五分割してそれぞれ違う川に流されてそれでも翌日には復活してたじゃないの!」
「吸血鬼でもそれだけの再生力はありませんよ、あはは。まあ茘枝様ですから」
朗らかに笑うな、ばかやろう。
茘枝は内心壮絶な悪罵を五十ほど投げつけ、実際それを口に出そうとして……ため息で代用した。
「……事態の収拾には、私が本当に茘枝様になりかわるのが一番いいのはわかってる。でもね、私は不老不死なんて、絶対嫌なのよ!」
そもそも茘枝という称号が生まれたきっかけも、それだった。
「茘枝」の後継者、二番煎じ、かつて世界を影から支配した大魔術師、それと同じ人間を、世界は望んでいる。そしてそれを為すにはどうしても死ぬさだめの人の体では駄目なのだ。
「いつまでも美しくありたいというのが女性の望みかと思いましたが」
「限度ってものがあるでしょうが! ……でもまあ、それは今考えなくてもいいことよね。そもそもドラゴンに会って首尾よく説得が成功して、血をもらわなきゃ不老不死の魔術もできないわけだし」
「出来ますよ」
「……はい?」
「できますよ、今すぐにでもあなたが望むなら」
茘枝は沈黙のうちに、不老不死の魔術の組成式を思い返した。
……どう考えても、無理だ。
人間の体にも大気にもその他ありとあらゆる自然物に含まれていない要素が媒体として必要となる。
「……なんで? ドラゴンの血がなきゃ、できないでしょう」
「必要な機材はすべて惑いの家に保管されてますよ」
茘枝は欄干につっぷした。
「……茘枝様は何から何まできちんと準備してたのね……」
「だから立ち入り不可能にしてあるんです」
竜の尾の王都にあったという、大魔術師の家は、彼の死後誰にも入れない場所と化した。
それがどこにあったのか、誰もが忘れてしまったのだ。
没後400年を経ても、その封印を解いた者は誰もおらず、秘跡となっている。
惑いの家とは、そこから来た名前だ。
「不老不死の魔術は3000年ほど先をいってますが、それでも魔法は魔法。魔法は理からなるもの。正しい知識があれば、発見できる可能性はあります。遠い未来のどこかでは、成立することもあるでしょう。けれど、その魔法を発動させるにはいくつかのものが必要です。そのなかでいちばん難しいのが、まあドラゴンの血なんですけどね。だから、茘枝様は立ち入り禁止にするようドラゴンに頼んだんです。ですがマスター。あなたが嫌なら無理にする必要はないですよ? だって一分の隙もなく完璧に魔法を発動させても、そこから先は運勝負。不老不死になれるかどうかは純然たる博打です。そして失敗したら……どんなことになることやら。死ぬのが最悪の可能性……ですらありませんからね、死ぬ以上に悪いことが、どんな荒唐無稽な現実でも起こります。文字通り、どんなことでも起こりえます。マスターが死んだら僕も機能停止ですが、それは嫌ですからね」
茘枝は欄干に額を当てたまま、答えた。
「……私は第二の茘枝様になれる柄じゃないわ。自分の犠牲の上でなりたつ幸福なんて、反吐が出そうになるもの。自分がよければすべていい、とまでは言わないけど、自分の犠牲で成り立つ他者の幸せなんて、冗談じゃない……私はそんな礎になるのは絶対御免だわ」
「それでいいんだと思いますよ。自分の幸せをひき潰して土台にして誰かの幸せを築けるのは、暇人だけです」
「……ひまじん、ねぇ……」
「茘枝様は完全無欠の暇人でしたよ。不老不死で、その上最強の魔術師でしたから。暇で暇でしょーがない、なんて状況に陥るまいと、人助けしていたんですから」
クルーノの眼にかかると世界平和も人助けか。……まあ、確かに人助けには違いないが。
「だから無理しなくていいんですよ。別に犠牲になることもありません。茘枝様が機材を残したのだって、もしも未来でもしも万が一必要になったときのためにって事だったんでしたから」
「……クルーノの眼、あなた人間できてるわね……」
「―――誤解しないでくださいね、僕はあくまで擬似人格なんですよ」
冷淡のようにすら聞こえる声。クルーノの眼にとって、線引きは極めて明瞭らしい。
擬似人格といわれても、茘枝はぴんとこない。クルーノの眼の人格と、茘枝の人格の間に、一体何の違いがあるのだろう……?
2004 4/29up
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