「天使が悪魔になる日 35」




 すっかり慣れてしまったが。
 ぐるりと視界を一巡りさせると、かならず一つは目に入る……薄い靄と、竜への賛歌。
 この国では、竜を称えるものが、彫像のかたちであったり、あるいは壁紙であったり、ほんのちょっとした身の回りの品に施された彫刻のかたちで、目に入る。
 食堂にある竜の賛歌は、まず壁に書かれた竜神への祈りの言葉がひとつ。
 そこから十度動かさないうちに、床に同様の祈りが書かれていて、これが二つ。
 四角いテーブルの足に彫刻として四つで、計六つある。

 廊下を歩いていても竜の姿は目に入るし、階段を下りていても柱に彫刻されている。
 とにかくどこを歩いても竜だらけ、というのがこの国の家屋の特徴だった。
 ここまでではないが、ケリーの家にも彫刻はしばしばあった。
 何気ない日用品のなかに、ごく自然な形で竜の彫刻があるのだ。椅子だったりテーブルの足だったり、手鏡の裏面だとかに。
 どうやらこの国では、竜の図案はきわめて人気のあるものらしい。
 手のひらサイズの、子供の小遣い程度で買えそうな稚拙な竜の彫刻などは、そこらの店先に大中小で並んでいる。

 竜に庇護され竜のもとで安穏とした生を満喫してきた最も古き国、ペイログリフ。
 そこらに漂う靄―――この国の人々が精霊と呼ぶそれらの力の恩恵は巨人族の村にまで及ぶ。夜でも明かり―――精霊が照らす街燈で辺りは明るく、また精霊の力をかりて、農作業まで行う。
 この国にとって竜とは恵みの神であり、感謝と崇拝と畏敬の対象だった。

 朝の食事の席で、茘枝はヘプライトたち三人に銀板を一枚ずつ渡した。
「首から下げられるよう、紐をつけておいたから。くれぐれも体から離さないように。そして、絶対に誰にも見せないで。特に―――魔法使いの、魔術師には」
「どうして?」
 ケリーの質問に、茘枝が困ったように目を見開いて、答える。
「ただ一度だけとはいえ、竜の炎でも防げる火炎防御護符なの、それは。ドラゴンの炎が防げるくらいだから、この地上に住むどんな魔術師の炎でも、完璧にふせぐことができるわ」
「……これは質問なんだけど、たとえ、茘枝のでも?」
「ええ。私のでも」
「いや、そうではなく―――」
「ああ、茘枝様のことを言ってるのね? そうね……ええ。たとえ茘枝様の火炎でも防げるでしょう。それは火炎防御としては最強。人間の魔術師の火炎なら、どんな練達の術者の炎でも防げるわ。でも、『そんなことはできない』の。今の魔法技術では不可能なはずなのよ」
 ヘプライトは手渡された銀板をそっとなでた。変形三角形……。角がまるく、びっしりと波紋が彫り込まれている。紐をつなぐ穴のある角には明らかに別種の素材が付け足されて、その別の素材の部分に穴があき、紐が通っていた。精密なマジックアイテムに穴をあけるわけにはいかないので、こんな形にしたのだろう。

「つまり、これを見られると詮索されて、ヤバイんだな?」
「ええ、とっても。作れないはずのものだから、誰が作ったのかということから始まって、どうやって作ったのかって詮索されるわね」
 ヘプライトは手をあげ、紐を首にかけた。
 以前、茘枝から聞いたことがある。
 なぜああも神聖銀が高値で取引されているのか。
 神聖銀の最大の特徴は、その二面性だ。
 神聖銀は、加工の方法によってその性質をがらりと変える。ケリーの武具のように魔法をほとんど無効化するか、あるいは逆に、魔法の力を著しく増強する。
 この護符は言うまでもなく、前者の性質を強化したのだろう。
「……ためしに聞きたいんだけど。もし俺がこの護符をつけず、神聖銀の鎧を装備して茘枝の火炎をうけたらどうなる?」
 茘枝は苦笑した。
「神聖銀の装備で九割までは威力をそがれても、一割は残るもの……。私の火炎は鉄をバターのように溶かすのよ? 一撃で焼き殺すのは無理だけど、二回目でまず死ぬわ。三回受けたら、確実に人間かどうかもわからない炭の丸太になるわね」
「じゃ、これをつけていたら?」
「何百回うけても、無傷よ。火傷の一つもできないわ」

 ヘプライトは思った。
 別の言い方をすれば―――
 それだけの火炎護符ですら、竜の炎を一度しか防げないのだ。
「その護符をつけていても、あくまでドラゴンに対しては気休め程度だと思ってください。決して、でしゃばらないように」
 スクエアがそう言ったとき、ヘプライトはただそちらを向いただけだったが、茘枝は違った。
 目を細め、ずばりと指摘する。
「クルーノの眼ね?」
「ええ。ちょうどいい機会だと思ったので、皆さんに伝えておきます。いまこの体をかりてるスクエアにも、ちゃんと聞こえてますから」
 スクエア……クルーノの眼はぐるりとひとりひとりを見回す。
「いいですか? ドラゴンと人間が戦って勝てる可能性は、ゼロです。蟻と人間……いや、これでも誉めすぎだな。皆さんが地面を踏むたびに何万と殺してる土の中の微生物と人間ぐらいの差です。僕はできるだけあなたがたも護ろうとしますが、ドラゴン相手じゃそれにも限界があります。最後のところで僕が護るのは、マスターひとりだと思ってください。あなたがたの命とマスターの命では、マスターを選びます。あなたがたを助けるために、マスターの命を危険にさらす気はさらさらありませんからその点、考え違いしないように。たとえマスター本人から命令を受けたところで、自律意志のある僕はその命令に従ったりはしません。だから、決して、出過ぎないよう。ドラゴンとの話し合いは、僕たちに任せてください。できることならこの村で待っていてほしいぐらいですが、それはそれでまた心配ですし」
 ヘプライトはひそかに驚いた。
 ―――クルーノの眼の言い分はこれまでの言動から察しがついていたので、驚くにはあたらない。ヘプライトが驚いたのは、この傍若無人な言い分を、茘枝が制止の気配も見せずに傍観していることだった。
 ケリーが手をあげる。
「―――了解。まあお前にとって主人は茘枝だけなんだろうしな」
「話はこれからですよ、ケリー。僕が言いたいのは、あなた方に対しても同様のことを求めたいということです」
 理解力にとぼしいヘプライトがその意味を理解するまで、五秒ほどかかった。
 理解したころ、ケリーは、予想外の反応を見せた。
 ほろ苦く、笑ったのだ。成人男子にこうした形容をするのは不似合いだが、寂しげですらあった。
「……歴史上に名を残す重要人物である茘枝を護るため、必要とあらば死ねというんだな?」
「ええ」
 迷いなく断じる。人ならば少しはためらっただろう。だが、クルーノの眼は、冷たくひややかなアイテムだった。
「あなたがたの命の数百よりはるかに、マスターの命は大切です。あなたがたが死んだところで、修正も補完もきくでしょう。いくらでもかわりはあるでしょう。ですが、マスターのかわりはありません。マスターが死ねば、あなたがたもまた、極めて困った事態に陥ります。己が身を呈しても、マスターの命だけは護ってください」
 ヘプライトは内心舌をまく。
 ここまで端的に、はっきり「死ね」と言われたことは、農奴の時代にすらない。
 お前らは死んでも大したことないが、彼女はちがう、だから死んでも護れ。
 つまりこういうことか。
 ヘプライトはとうに茘枝に全てをささげているので心境にも状況にも変化はないが、さて、ケリーたちは……?
 ヘプライトが反応をうかがうと、ケリーは肩をすくめ、あっさり頷いた。
「わかったよ。危険な目にあったら盾になって、俺たちが殺されてる間に彼女を逃がせっていうんだろ?」
「そうです」
 あいかわらず、迷いがない返事だった。
 こうもはっきり言われると、不快になるのもバカらしくなる。

 クルーノの眼はヘプライトに目をあてる。
「ヘプライトは?」
「え、おらは……最初からそのつもりだったし」
 つい二日前のことだ。魔術師に渡せと言われても応じずに、茘枝を抱きしめたまま、炎からの盾となった。
 つまり、クルーノの眼が求めているのはそういうことなのだろう。だとしたら変わりない。
 しかし―――ふと気がつくと、茘枝もケリーもクルーノの眼も、じっとこちらを見ているのはどういうことだ?
 茘枝が一つ頷いて、
「……そうよね。ヘプライトは、そうだったわ。護ってくれたもの。自分の体を盾にしてでも」
 クルーノの眼も同調する。
「そうですね、彼は……そうでした」
「……」とケリーは沈黙の様子である。

「ところで―――クルーノの眼。ずっと気になっていたんだが」
「なんですか?」
「俺を魔法使いにできるんじゃなかったのか? いつするんだ?」
「……それは、そのー」
 珍しくクルーノの眼がいいよどむと、茘枝がずばっと言った。
「無駄よ。時間の浪費だわ」
「……は?」
「クルーノの眼はあなたを魔法使いにはできるけど、魔法は使えないもの」
「……なぞなぞみたいに聞こえるんだが」

「いいえ、ちっともなぞなぞじゃないわ。魔法使いっていうのは、エナジーを体内にとりこむことが出来る人間のこと。―――でもね。エナジーを体内にとりこむことができたって、それですぐ魔法が使えるほど、魔術は生易しいものじゃないのよ」
 茘枝は苦笑していた。
 ヘプライトはいつだかの茘枝の説明を思い出す。―――魔術師は魔術師用の、僧侶は僧侶用の、エナジーを魔法に変換する機構を、修行によって体内に作り上げるのだと。その機構が両方とも備わっているからこそ、茘枝は魔術師の魔法も僧侶の魔法も、行使できるのだ。
「私もスクエアも生まれたときからエナジーをとりこめた。つまり魔法使いだったけど、お師匠様のところで魔術の勉強をするまで、魔法を使った記憶は一度としてないわよ。そして、魔法を初めて使用できたのは、魔法を勉強してから何年も後のことだったわ。
―――魔術は理から成る物。魔法理論を勉強し、丸暗記でなく系統だって理解し、それから体内でエナジーを魔術に変換する機構を構築しないといけないの。最低それらを達成するのに、十年はかかるわね。だから、魔法使いにできたとしても、それだけでは意味がないの。わかる? クルーノの眼は、それを失念していたの」
 ケリーは額に手をあてた。
「……ごめん、茘枝。俺今ちょっとクルーノの眼を罵倒したい気分なんだけど」
「ぬか喜びさせやがって?」
「そんな感じだな。―――せっかく魔法戦士になる夢を思い描いていたのに」
「ごめんなさいね。どうにもクルーノの眼はときどき、とんでもない困難なことを出来て当然と思ってしまうところがあって」
「まったく、はた迷惑ですね」
 そう言ったのは、クルーノの眼の支配から解き放たれたスクエアで、三人は揃って頷いた。


 ヘプライトは、食事がおわると茘枝に声をかけられた。
「村をひとめぐりしたいの。ついてきてくれる?」
 茘枝はとても偉い魔術師なのだが、ヘプライトに命令形で話したりはしない。
 何かしてほしいことがあるときは、きちんと頼んでくれる。
 むろん命令形で言われてもヘプライトは頷いただろう、そういう約束のもと、ヘプライトは彼女の力を借りているのだから。けれど、頭ごなしに命令されるより、頼まれたほうが快いのは、当然というものだ。
 だからヘプライトは快く頷いた。




2004 4/14 up


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