「天使が悪魔になる日 25」



 茘枝は不思議な感覚で自分のなかを通り過ぎる知識を感じていた。
 その気になれば一つ一つを吟味できる。相手の表情をわずか指一節分の距離から見ることもできれば、通り過ぎた知識を呼び起こして再生することもできる。そして、通り過ぎた知識もまたきちんと茘枝のなかに蓄積されている。
 ……けれども逆にいえばそれだけで、わかっているのは、これはとんでもなく高度な技術だ、ということぐらいしかない。
「記憶をみせる魔法はラーデの解法よね……、ああでも駄目、あの演繹からはここまでは導きだせないから、新たな理を発見して組み立てる必要があるわ」
 魔法は純粋な「理」によって運営される。それらは八界に分割され、四界を魔術師が、四界を僧侶がおさめる、美しい論理の世界だ。
「映像はヨギルの界だけど……あ、駄目。記憶を映像として見せることはできても、高速にはならないし蓄積もされない……」
 現在の自分の状態をきちんと覚えておき、現実世界にもどったら魔法を組み立ててみようと決心する彼女はまさに典型的な「魔法使い」だった。
 しかしそうする間も情報は刻々と流れていく。意識体である自分の体は、見下ろすこともできない。ちょうど夢を見ているように、「見える」ものときたら流れていく知識だけ、どうやら茘枝個人の意思や判断力は保たれているらしいし、分析もできるのだが、与えられるものときたら一方向からだけだ。

 知識のなかには、「青の魔術師」のたどってきた個人的記憶もかなり含まれていた。……こんなものを他人に見せてもいいのだろうかと茘枝は思ったが、まあ、クルーノの眼を作ったのは青の魔術師だ。そのクルーノの眼が見せているのだから、自業自得だと思ってもらおう。第一目をそむけることもできやしない。
 それに……、好奇心が勝った。
 たとえ目をそむける自由が与えられていても、その誘惑に抵抗するのは困難だったろう。伝説のなかの人物の素顔というのは、極上の魔法の理に匹敵する求引力のあるものだ。
 そうして初めて見た茘枝は、資料とよく似ていた。彼の姿絵は結構な数が残っているが、かなり忠実に対象を写したものだったらしい。端正な白い面立ちに、たなびく青い髪。ぱっとめ、外見的イメージはかなり自分に似ている。男女の性差が気にならないほど、つまりそれほど茘枝は線の細い人物だったのだ。繊弱ではないが、優美ではあるし、中性的でもある。

 「茘枝」を家に招きいれた少女は、亜麻色の髪をふんわりたらし、その上に金色の耳を二つちょこんと覗かせている、可愛らしい獣人(スノーブリア)系の女の子だった。後ろを振り向けば長い尻尾がにょろんと伸びて、歩いている最中などふりふり揺らめいていて、非常に可愛らしい。
 「茘枝」は少女の家に入ると、無人らしい家の様子に少女にたずねた。
「留守……?」
「ええ、そう。お父さんは明日には帰ってくるけど、弟も一緒に帰ってくるけど、今は私ひとりなの」
 青い髪の青年は穏やかにたしなめた。
「……私が悪人だったらどうするんだい? 男手のないときに安易に家に招き入れたり、そういったことを話しちゃいけないよ。隣の家に少し出かけているとか言わないと」
「やーだ、そんな心配しなくてもだいじょうぶよ!」
 少女はぱしんと茘枝の背中を派手な音をたててぶったたく。
「私、人を見る目はあるんだから! そんな人は最初から呼、び、ま、せ、ん。草原のど真ん中で空腹で行き倒れているような変な人だけど、悪い人じゃないわよ、あなた」
「……ほめられているのかけなされているのか、よくわからないな」
「ほめてるのよ、もちろん」
 少女は澄まして答え、表情を笑顔に変えた。
「いま、ご飯もってくるから席に座って待ってて!」
 少女がもってきた食事はそれぞれ一食分になりそうな惣菜が五品もついた、たいそう贅沢なものだったが青年はそれらすべてを次から次へと片付けていく。
 少女は最初は目をまるくしていたが、満足げに微笑んだ。
「ご飯をおいしそうに食べるひとって好きよ。見てて気持ちいいから。……ね、あなたはやっぱり巨人族なの?」
「いや?」
「あら? 耳もしっぽも鱗もないからてっきり……じゃあ小人族?」
「いや、それもちがう」
「部族名を教えてくれる?」
「部族名は……ヒューマン。聞いたことは?」
「はじめて。とっても珍しい部族なのね。……あなたの着ているその変わった格好も、あなたの部族の風習?」
「ああ。ローブと言うんだ」
「そんなずるずるのずらずら、動きにくいわよ。しかも物によくひっかかりそうだし。もう少し機能的な服にすればいいのに」
 青年は失笑した。
「ああ。実際、よくひっかかってる」

 その光景を覗いている茘枝は疑惑の種がまかれるのを感じた。
 少女の問いには、当然あるべき質問が、ないのだ。
 明敏な思考はとんでもない速さで推論を組み立てていく。
 ……ひょっとして、これは、そういうこと……なのか?

 その間も記憶は展開していく。青年は皿にかかる重みをかぎりなくゼロに近づけると、彼女に礼を言った。
「ご馳走になった、ありがとう。―――何か今困ってることは、あるかな?」
「あらやだ、昔話をきどってるの?」
「昔話? ……ああ、ひょっとして、よくあるアレか? 『貧しい旅人をあわれんで、ひとりの心優しい少女が―――、すると旅人は実は神様で―――』」
「そうそうそれ!」
 二十歳前後の青年と、十歳かそこらの少女はふたりして吹き出した。
 けれど笑いをおさめると、少女はぽつりと言った。
「でも、私……ほんというと、信じてるの。そういうの」
「心優しいひとが救われるのを?」
 少女は力強く頷いた。
「そう! 心優しく善良で人を助ける人間は、いつかどこかでいい目にあうのよ必ずね」
 幼い……けれどまっすぐな少女だった。

 それに興味をひかれ、再び訪問した青年は、玄関先で少女の父に平伏される。
 その隣では萎縮しきったあの少女が同じように床に額をつけていた。
「も、もうしわけありません……! うちの娘がとんだご無礼を……!」
「すみません、あなたがあの、茘枝様だとは知らなくて……」
「なんだ、そんなことか」
 造作も無く頷くと、青年は自分に食べ物を恵んでくれた少女の前に膝を折り、真っ赤な顔で体を縮めている少女を片手で抱き上げる。
「やあ、マリベル。君は世界中に自慢できることをしたんだったってこと、気づいたかい? 君はかの大魔術師に食べ物を恵んであげた世界でたったひとりの女の子なんだから、胸をはりなよ」
「―――あなた、結構意地悪いのね」
「マリベル!」
 噴火のような声は、少女の父。
 けれども青年は、心底愉快げに笑う。
「お誕生日、おめでとうマリベル。一飯の恩はきちんと返すよ。一体何をしてほしい?」
「……あなた大魔術師なのよね」
「そうだよ、行き倒れて君に助けられたけど」
 くっくっと喉の奥で笑いながらの返答。
「じゃ、私、あなたの側で働きたいわ」
「おやまあ……」
「だって大魔術師なんて、とびきり面白そうじゃない! あなたの側にいれば、毎日とっても不思議で面白い事が起こりそう!」
「ま……いいけどね。じゃ、明日迎えにくるから、用意しておいで。ああそれと、御父君。これが彼女の支度金です」
 差し出された金貨の袋を受け取り中身をみて、りっぱな耳と尻尾をもつ少女の父は卒倒しかけた。
「こ、こ、こ、こんな大金を……!」

 少女は茘枝の館にうつると、細々しく働いた。
 月日はうつり、かつて少女だった老婆は嘆息する。
「茘枝様って―――ほんとにお姿かわりませんねぇ。私はこんなになっちゃったのに」
 視線の先には、まったく姿の変わらない青年がいる。
「マリベルも、様がつくようになっただけでちっとも変わらない。まるで敬意の念とかそういうものが感じられないな」
「あら、だって茘枝様は私のそういうところを気に入ってお側においてくださってるんでしょう。だから私はその部分に磨きをかけているんですよ」
「茘枝を敬わず、粗雑に扱うようにと?」
「ええ! ぐーたらな茘枝様をふとんから叩き落してふとんの虫干しをして、来客なんかに出たくないっていう茘枝様を強引に引っ張り出して、熱中するとご飯もとらなくなる茘枝様を叱り付けて食事をとらせるようにつとめるのが、私の仕事ですからね」
「……いくら食事を抜いても死なないんだから別にいいじゃないか……」
「駄目です! そんなんだから五十年たってもそんなに細いんですよ!」
「いや、私は成長しないんだから五十年はあんまり関係ないような……」
「大丈夫ですよ、いずれきっと茘枝様はぷくぷくになります、きちんと私の食事をとっていただければそんなトリガラみたいな手足じゃなくなります」
「だから別にトリガラみたいな手足でも私は構わな……ぐふっ!」
 マリベルの一撃がみぞおちに入った。さすが亜人種だけのことはあるというべきか、とても髪の白い老婆の一撃とは思えない鋭さだった。
「茘枝様……いい加減にしてくださいね? 激務だってことはわかりますけど、それならそれできちんと言ってくだされば、長持ちするお弁当をつくって持たせてさしあげますから。下手すれば一月ぐらい何も食べないんですから……いくら何も食べなくとも死なないといっても、ご自分を粗末にしすぎです!」
「……この私をここまで遠慮なく殴れるのはマリベルぐらいだぞ……」
「遠慮してたらあなた様のお世話はつとまりません」
 仲の非常に良い、主従の会話である。当事者が聞いたらどう言うかは脇へおくとして。
 それを見ていると、茘枝は顔がほころぶのがわかった。かの大魔術師もこうして口うるさい世話役に辟易しながらも感謝し好いているところが、とても人間くさい好ましさとして目に映ったのだ。

 けれど次に見えた記憶に、茘枝は固まる。
 青年の留守中も、マリベルは住み込みで屋敷を整えていた。そして主の不在を狙った盗賊団が彼女を捕らえ、彼女が何をされてもがんとして話さないのを知ると、そのまま―――放置したのだ。
 青年がもどってきたとき見たのは、むごたらしい拷問のはての死体だった。
 衣服は裸同然で、遺体のむごたらしいまでの損傷ぶりは、一目であきらかだった。
 あの獣の愛らしさと敏捷さをかねそなえた、気丈な老婆の面影はどこにもなく、ふやけきった青黒い肥満体が、そこにあった。
 そのとき、青年は黙っていた。恐らく彼は一瞬で、何が起きたのか悟ったのだろう。顔から表情を消し、ひっそりと、沈黙に没した。
 長い、とても長い沈黙だった。
 どれぐらいの間黙っていたのか。彼は膝をつくと、長年仕えた女中に手をかざした。
 頭皮からすこしずつむしられ散らばった髪が元通りになった。同じようにむしられた狐の耳も、治った。二筋の血の流れをのこす、つぶれた目玉も元通りの美しい水晶体になった。指の爪が剥がれ腱を切られていたの腕も、治った。最後に―――三倍ほどにふくらんだ腹部に手をかざすと、口からごぼりと水が吐き出た。腹部の、のびきった皮膚も、もとどおりになる。
 水を飲まされ続ける拷問の果て、殺されたのだ。死は、絶大な苦痛をともなったろう。
 生前と同じ姿にもどった彼女。けれども命までは、戻らない。
「すまない……マリベル」
 青年は抱きしめ、短く詫びた。
 声が震えていないのが不思議だった。たださらりと乾いた響きが耳に残るだけの、平静といっていい声。
 恐らく彼にとって、こんなことは初めてでも珍しいことでもないのだ。死別に慣れた心は痛みを痛みとして感知せず、苦しみも悲しみも、既知のものとして処理してしまっているのだ。
 ……二千年の、累計。



「やあ」と声をかけられたとき、彼女はそれを、自分が見ている記憶のなかの声だと思った。
 そうでない事に気づいたのは、声が続けたからだ。
「僕ですよ、僕。クルーノの眼」
 流れ込んでくる知識から意識を引き剥がして、レイシはそちらに意識を集中させた。
「『見え』ますか? 僕のこと」
「……ええ」
 ほんとうだった。
 人間の脳は実に容量がおおきく、かつうまくできている。同時に複数のことを思考するのが、普通の人間が普通にするあたりまえのことだ。
 流れ込む知識はそのままに、頭の一部でクルーノの眼の存在を認識するのは、難しいことではなかった。
「よかった。簡単に状況を説明しますね。あなたの知覚はいま、常態の数千から数万倍に加速されています。まあ僕の仕業なんですけど」
 てへっと笑う。
 超高度な魔法技術のオンパレードに、もはや原理を考えるのも面倒で頭痛がしてきた。
「だからこうして僕はあなたに情報を流れ込んでからすぐさま飛んできたわけですが──」
「すぐさま?」
 茘枝は聞き返す。
「でしょ? 加速されてるあなたの感覚でいくと、そうなるんですよ。いくらなんでも、状況説明ぐらいはしますよ。それで……」
「ちょっと待って。あなたが飛び込んでくるまで……外では一体どれぐらいの時間が流れてるの?」
「どんなに多めに見積もっても―――せいぜい三秒ですね。実際は一秒ぐらいだと思いますが。どこまで進みました?」
「マリベルの死まで」
「じゃ、最初の最初ですね」
「最初!?」
「の最初です。僕はあなたの知覚を加速させましたが、それでも一月という時間を見込んだんですよ?」
「……一秒で、これなのに、一月!?」
「そうです。あなたが今見たのは、僕が受け継いだ茘枝様の記憶のなかから重要な部分をサンプリングして編集して抜き出したものの、ごく、ごく、ごく! わずかです」
「……それを見ていくつか疑問が浮かんだんだけど。まさか、大魔術師茘枝が亜人種を庇護していたのは―――」
「たぶんそれは合ってますよ。ですが、僕に問いかけるのは時間の無駄ですからやめてくださいね。どうせ全て終わればわかりますから」
 あくまで事務的かつ冷淡なクルーノの眼に、 茘枝は思考する沈黙で答えた。
 そしてぽつり、と。
「……私は、このことをリチャードやケリーに話すべきなの?」
 クルーノの眼は慨嘆する。
「あれだけの記憶でそこまで推論を組み立てたあなたの洞察力は、お世辞抜きで人としては大したものです」
「リチャードもケリーも、王族だわ。とくにリチャードは、いずれこの国の王になる人間よ。私が知ったことを話せば、彼らも亜人種の庇護にのりだしてくれるかも……」
「それは別にかまいません。とはいえ、知識の転送が終わるまであなたは目覚めることができませんから、転送が終わったあと、そうしようという気が起きればご自由に」
「……そういう気がなくなる、と言いたいの?」
「いえ……」
 珍しくクルーノの眼は言いよどんだ。
 不確実なものを言葉という媒体で特定しようとするかのように、言葉にまよい、逡巡しながらつむぐ。
「正直言って、転送が終わったあとあなたがどういう反応をとるかは、不確定です。165パターンほど想定していますが、そのうちの70パーセントで、あなたは言う気がなくなります。ですが、30パーセントは残ります。これは、決して、低い数字ではありません。じゅうぶん現実的に実現することのある数字です。その30パーセントに該当する場合、僕は何の妨害行為もしません。それは、この転送であなたが受け継ぐすべての知識に対して同じことが言えます。あなたが、それを公表しようとしても、僕は何の対策もとりません」
「質問。それは私に与える情報が、さして害のないものだから……じゃ、ないわね」
 いいかけ、途中で撤回した。
 「最初の最初」のくせに、自分が得た情報はとても「害が無い」どころではない。
「はい、使いようによっては、非常に害があります。第一、あなたの洞察力も思考速度も侮れません。そういった観察力のかたまりのような人物に対して、『ここまでは大丈夫な情報だろう』と選別して公開するのは、非常にめんどくさく厄介でかつ―――意味がありません。どう考えても悪用できない、絶対大丈夫だろうという程度の当たり障りの無い情報を与えても何の意味も無いでしょう?」
「……確かに。私に情報を与えるのは、事態の深刻さを理解させて、あなたを動きやすくするためなんだしね。なのに「悪用されるかもしれないから」って大事な情報を与えなかったら本末転倒もいいところだわ。―――でも、それならそれで……」
 妨害工作はできるだろう、と言いかけたが、その上からかぶせるように、
「だから、あなたは頭がいいでしょうが。あなたにたいして僕ができる妨害工作といったら、たかが知れてますよ? 唯一絶対に確実かつ簡単に、情報の漏洩を阻止する方法はあなたを永眠させることですが、僕にはそれはできませんからね。そして、あなたに僕を捨てられてもこまる。それを、あなたは知っています。とすれば、どんな脅しも意味がない。脅しとわかってる脅しに、価値はありません」
「―――なるほどね。わかったわ」
「これからの予定を話しますね。しばらく、茘枝様の記憶をご覧いただきます。それが終わるころには、茘枝様の事情もドラゴンの事情もおおむね了解しているはずですので、次は純粋な知識の転送にはいります。一月ほどの時間を想定していますが、ひょとしたらこれから長くなったり短くなったりするかもしれません」
 茘枝はそこで、やっと思い至った。
「……その一月の間、私の体はずっと眠っているの?」
「あ、僕が操縦しましょうか?」
 茘枝は黙った。
 ……自分の体を扱われることの嫌悪感。入浴。排泄。漠然とした不安感。
 一月の間眠っていることの不利益。食事不足による栄養失調は命にかかわる。筋力のおとろえ、床ずれ、排泄は垂れ流し。世話をするのは……………………たぶんヘプライトだろう。
 二つを比較し―――……考えるまでもなかった。
 茘枝はあきらめて、依頼する。
「よろしくお願いするわ。大切に扱ってね。それと、一日が終わったら、私にどんな事があったのかも教えてくれる?」
「構いませんよ」
「最後に。私がこの知識を悪用しようとしたら?」
「ですからご随意に。……正直に言いますとね、そんなことは起こらないだろうと、僕は予測しているんですよ。僕について、茘枝様は故意にこういううわさを流しました。……なんでも望みのかなう魔法の呪具、と」
「ええ、それは、本当よね」
 クルーノの眼は、にやりっと笑う。
「それが、最後の、そして最大の罠なんですよ。茘枝、試練に合格したと思っているあなたがあそこで、自分の望みを叶えていたら―――僕はあなたの所有物にはならず、あなたを永久に封じていたでしょう。何の予備知識もなく、また、非常に根性悪い試練の代価として望みをかなえるといえば、人間は疑うことができなくなる。人は無償で与えられるものには疑惑をもっても、代価のあとに与えられるものには疑惑が持てないものですから。その問いかけで、『自分ではない、他の誰かのため』に、たった一度のチャンスを棒にふれるかどうか―――。それが、僕の主となるための最後の罠だったんです」
 茘枝は―――絶句、した。
「強いだけでなく、優しさをも持っている。ただ一度のチャンスを、自分のためでなく、他の誰かのために。そうできる人間だけが、僕の主になれるんです」
「……私は、リチャードに、感謝しなきゃいけないわね……」
 ただ一つの望みに、茘枝は、リチャードを助けてくれと答えた。
 もしもそうしなければ、彼女はあそこで殺されていたのだ。
「それができた人間は、ほとんどいません。僕はざっと一万人を超える人間を『封じて』きましたが、あなたが初めてです。そしてそれができる人間に対して、僕は全幅の信頼をもってこたえます。あなたは僕が飲み込んできた数多の人間のうち、ただひとり主人となった人であり―――強さと優しさを兼ね備えたあなたを、僕は信頼しています」
 にこりと笑って―――その笑顔と言葉こそが、虎に鈴をつけるものだと、クルーノの眼はもちろんわかっていただろう。
 茘枝のような性格の人間には、疑惑よりも信頼の方がより直接的に重くのしかかる。
 人の心の機微にも長けたこの擬似知性は、それぐらいの芸当は笑ってこなした。
「じゃあ僕はそろそろ行きますね。あなたの体を使って、適当に運動していますから。何があったかは、寝台につく夜にお知らせします」

 クルーノの眼が去ると、茘枝は再び記憶に集中した。
 無数の、と言って遜色ない数の人の死が、通り抜けていく。どれも青の魔術師が直接看取った死。友の、妻の、恋人の死。
 ただその場面だけを繰り返し見せられたなら彼女は耐えられなかっただろう。けれどもそれには常に、彼らと過ごした美しい日々の記憶も一緒になっていた。だから耐えられる。
 どの相手とも、彼は美しい時間をすごした。友であったこともあれば、恋人であったこともある。マリベルのように、使用人と主人という関係であったことも。
 太陽の光をあびて輝く水晶の粒のような時間。けれど、そのどの時も、終わりは同じだった。
 寿命のときもあれば、殺されるときもある。裏切られ、彼自身の手で粛清したことも、ある。どれにしろ、答えは一緒だ。
 そして、大量の親しい人の死を延々と見せられていると、かの大魔術師の孤独に気づかされる。

 死と対面するさい―――
 死者となった大切な人に対面し、彼は額にくちづける。その胸中には空虚な怒りが満ちていた。
 そう、空虚さ。
 死者となってしまった人々との、楽しい時間を憶えている。だから泣こうと「理性で」思うのだけれども、涙が出ない。出そうと思えばいくらでも出せる、演技の涙、空涙なら。でもそんな涙にどんな意味があるだろう。だから彼は表情を暗く翳らせるだけ、号泣も悲嘆もしない。人は彼のそんな姿に陰口をたたくけれども、そんな言葉で傷つくような繊細さのもちあわせはとうにない。だから彼はただ、そこにいる。
 あまりにも多すぎて慣れてしまった人の死というものに、彼は何の感情もいだいていない。ただ、心の中で手向けのように彼らと過ごした楽しかった日々を思い起こし、悼むだけだ。……そして、それがおそらく最上の死者の送別なのだろう。
 不老不死の大賢者ということは、いずれ、必ず死を見送ることになるということだ。
 それが分かっていたはずなのに、大魔術師は人と関わることをやめない。
 人々の中にまじり、よく笑い、よく食べよく喋る。こんなにも賑やかに楽しそうに時間をすごしていくのは、どれほどの強さだろう。

 大魔術師の記憶を直視しながら、茘枝は思った。
 これほどの強さは、自分には……ない。
 自分はきっと、泣いてしまう。逃げてしまう。こんな痛みを味わうぐらいなら、最初から一人でいた方がずっとましだと、人里離れた荒野にこもってしまうだろう。
 いちど触れ合う時間を得た後奪われるより、触れ合うことを最初から放棄したほうが、痛みは少ない。……青の魔術師は、そんな彼女とはまるでちがう。
 奪われる痛みより得る喜びを。別離の悲しみより、出会いの歓喜を。失う痛みにおびえる心より、喪失の前の幸せな時間をこそに価値を見出している。
 「強さ」。
 陳腐でありきたりで平凡な言葉だが、マイナスよりプラスを常に見続けていられるのは、他にどういえばいい? 少なくとも茘枝は、「強さ」と言う以外の形容を知らない。
 最低二千年もの時間、世界を見守りつづけた人物の強さは、そこにあった。

 一体何百人ぶんの死と関わりを見たのか。ある人物の死を最後に記憶が切り替わる。
 そこに出てきたのは、見渡すかぎり一面の荒野だった。
 そして、いるのは、たったひとりの人間と、寄り添うように立つ黄金色のドラゴン。


 ……その大地は、荒野と呼ぶより他、形容のないものだった。
 茘枝はこんな大地を見たことがない。草が生えていないのではない、地面が焼け焦げている。土を超高熱で煮沸したような、どす黒い土。表面は奇妙に滑らかなのは……一旦溶けたあと、固まったからだろう。どんな閑地でも雑草ぐらいはまばらにあるものだ。なのに、雑草は「幾分緑色のしみ」でしかなかった。そんな死んだ土地が、見渡すかぎり続いていた。

 青の魔術師は泣いていた。快活な笑顔、冷徹に役目を遂行する無表情ばかり見てきた茘枝は、小さくないショックをうけた。たとえ、どんなに親しい人間が死んでも、泣けない人だったのに、今の彼の嘆きようは、希望という希望がすべて打ち砕かれたかのようだった。
 焼けた土の上に両膝をつき、彼は透明な涙を流して拳を大地に叩きつける。
「どうして……っ! どうしていつもこうなる!? どうしていつも……どうして報われないんだ!!」
「茘枝……」
 傍らのドラゴンは、まだ、そんなに大きなサイズではなかった。四本の足を地面につけて座り込んだら、人間の身長とほとんど同じ高さになる。その長い優美な首をのばして、慰めるように、茘枝の肩に寄り添った。もちろんそっと。

「茘枝―――泣かないで。苦しまないで。あなたが悲しんでいると、僕まで悲しい。あなたが苦しんでいると、僕も苦しくなる」
「……」
 流れ落ちる茘枝の涙は、大地にぼとりと茶色いしみを作る。
 ドラゴンは茘枝の顎の下に頭を入れて彼を上向かせると、ぺろりと舌を出して涙をなめた。
「もう、いいじゃないか。もう、充分じゃないか。どうしてそんなにあなたが―――あなたひとりが苦しまなきゃいけない? それを恩とも思わないろくでなしどものせいで、僕は、これ以上茘枝が傷つくのは嫌だよ」
「……終わりのない長い時を、生き続けられるほど、私はつよく、ない」
「僕がいるよ」
 ドラゴンは長い首をのばして、胸と首の間に鳥が卵を抱くように、茘枝を抱いた。
「僕は、裏切らない。茘枝のことだけは、絶対に裏切らない。それに僕は長生きだ。茘枝よりも長く生きてあげられる。茘枝より先には死なない。茘枝を、ひとりにしない」
 胸をうつ、真摯な告白だった。
 それを聞けば、ドラゴンの茘枝に対する感情は、あまりにも明らかだ。

「だから―――もう、いいじゃないか。どうしてあなたはあんな愚かな人間を、愛するの?」
「……クリス。それは、私にも……わからない。やめてしまえと思う。いっそのことこのままにしてしまおうかとも思う。でも、それでも私は―――」
 茘枝はドラゴンに手をかけ立ち上がると、地面に投げ出してあった杖を拾い上げ、その先で大地を突いた。
 二人を中心に、ぱっと光がひろがった。煮沸され、死んだ大地に、命がもどる。
 それをどこか悲しげにドラゴンは見つめていた。
「また……繰り返すつもりなの?」
「今度こそだ。今度こそ、間違わない。間違えないように……私が導く」
「何度繰り返しても同じ答えに行き着くのに……何度でも、あなたは繰り返すんだね」
 ドラゴンに表情があるとしたら、そのときの彼は、底が見えない悲痛さにあふれた顔をしていた。
「汚染された大気と大地。再生させる。……手伝ってくれるか?」
 ドラゴンは、長い間、金色に燦然と輝く翼をゆらめかせていた。
 やがて、一言だけ、口にする。
「あなたは、ずるいよ」
「……わかっている。すまない」
「僕が、あなたの頼みを断れないことを知っていて、そう言うんだから」
「ああ」
「何度うちのめされれば気が済むの?」
 ドラゴンの、厳しい言葉に―――茘枝の表情がしずむ。
「今度こそ、か……。私は、一体何回同じ言葉を繰り返すんだろうな。お前には、苦労ばかりかけてすまないと思う……本当に、希望は、最高にタチの悪い害毒だ」







2004 2/28 up


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