「天使が悪魔になる日 23」
彼女はその夜、夢を見た。
花の間にたたずんで、誰かが水を撒いている。
背景は夜と見まちがうほど濃く、花弁はその闇よりなお色濃い黒。水を与えられるたび、花はさわさわと音を立てる。悦ぶように。
──悪意の花を咲かせている。
そんなフレーズが脳裏にすべりこんだ。
いつもの彼女なら、冷徹ですらある鋼の論理で、なぜそう思ったかをつきつめて考えてみるだろう。けれど今は、判断力も思考も、すべて麻痺していた。
ただぼんやりと、思う。
水をやるのは、誰?
「やあ」
一瞬どころか五秒ほどのあいだ、彼女はその少年を見つめた。
「──また人の心に侵入してきたわね」
「貴方が気になってると思ってね。僕に聞きたいことは、いくらでもあるんじゃないかな」
「……たしかにね」
思わせぶりな台詞ばかりを言われたら、いい加減腹も立ってくる。
人がほろぶ?
しかもその理由は言えないときた。ふざけるなと怒鳴りつけてやりたかったくらいだ。
茘枝が内心のむかつきをこめて睨むと、その心境を知ってか知らずか彼は悠然と、
「僕が同じことを言われたら、きっと、耐えられない。茘枝様が死ぬ、けれど理由は秘密……なんてね。首根っこつかんで吐くまでたっぷり可愛がってあげるでしょうから、こうして話をしにきたんですよ」
数瞬のあいだ、彼女は少年を……クルーノの眼を凝視した。
「……なんですか?」
「―――あなたが今したことは、極めて高度な知的活動よ。他者が置かれた状況と同等の状況を想像のなかに構築し、さらに自らがその内にあると仮定し、その際の感情を仮定にもとづいて算出する、なんて。あなたは自分を擬似知性だという。けれど、……人でさえ、それを出来ない人は、多いのよ」
茘枝が貴族とか王族とかいう輩が大嫌いなのはだからである。
彼らは、自分が平民の立場に生まれ、同じことをされたらどう思うかという想像力が完璧なまでに──欠如していた。
「僕は茘枝様のクリーチャですから」
どこか、嬉しげに―――誇らしげに、少年は答える。
……誰かを誇りに思い、敬い、敬愛する。またその相手が賞賛されることに、喜びすら感じている。それほど高次の感情があり、想像もでき、言葉のやりとりにも遅滞はまるでない。
人間には、決してこんな知性体は作れまい。なぜなら、ここまで擬似知性が知性としての形をととのえるまで、茘枝の見立てでは最低でも300年。
……これは決して短くない。
自分の死後、遥かな時間を経たあと、ようやく完成するものなど、誰が作ろうとするだろう。
「一つ聞きたいんだけど、なぜ、茘枝は無からあなたを作ったの? 人間を材料としなかったのは、……わかるわ。でも、何もゼロからすることはないじゃないの」
人間は成熟するのに、そこまでの時間はかからない。それは、誰しも基本的な喜怒哀楽を持っているからだ。赤子ですら叩かれれば泣き喚く。不快になれば泣き、快ければ笑う。
「基本的な喜怒哀楽をあらかじめ備えているのは簡単ですが、それは単なるプログラムの集積ですよ」
「……ぷろ……?」
「失礼。1+2=3という数式のあつまりですよ。人は確かに、叩かれれば痛みを感じ、不快になります。でも、不快になる人ばかりではないでしょう?」
たしかに、世の中には奇特な人もいる。
「ある状況でこう考えるように、こう感じるように、そう条件づけすることは簡単ですが、それは本物の感情ではありません。ただその条件に合致する状況が生まれたから、あらかじめ定められていた反応を返す、それだけです。1+2という状況が与えられたら3を返すようにね。それを知性とみる人もまあいるでしょうが、あいにく僕の主人はそういう人ではありませんでした。それに、そうした数式の集合体は、あらかじめ定められていない状況にはなにもできません。僕は臨機応変に、どんな事態におちいっても自分で決断を下せるようになることを、求められたんです」
茘枝は端正な顔のなかの、青い眉を寄せた。
……前々から感じていたが……。
「―――あなたが、茘枝の死後のために用意されたというのなら、茘枝は自分の死を、わかっていたのね?」
「論理的には否の打ち所がありませんが、すみませんが違います。茘枝様は、自分がいつ死んでもいいようにと準備をなされていたんですよ。現に、僕が作られてから茘枝様が亡くなられるまで、優に数百年は間があいてますよ?」
茘枝は頭をおさえた。―――タイム・スケールがちがいすぎる。
「……平気そうに二千年だの数百年だのとかいう話を語られると、時間間隔が麻痺してくるわ……。人はせいぜい生きて50年。魔術師ですら、200年とは生きられないっていうのに」
そして、目の前のこの少年は―――その「数百年」を経てきた老練きわまりない相手なのだ。
茘枝は素早く頭を切り替える。
「―――人が滅びるっていったわね。そしてその理由を教えてくれると」
「あなたにだけは、話さないといけないんです。あなたも、聞きたいんでしょう? なんで人はもうすぐ滅びるなんてことを言われなければならないのか……」
「──教えてくれるというの?」
「教えますとも。そのために、僕はここにご招待したんですから」
「あの場で教えなかったのは何故?」
「あなたにしか、お教えできないからです」
「……だからそれは、何故?」
「理解できないだろうからですよ。他の人は、今の段階では、決して理解しえない。時間がすすみ、破滅が目前になって初めて彼らは理解できるでしょう。ですが、それは、破滅をただすには遅すぎる。……それに、可哀相でしょう」
―――可哀相?
「……『でも』、私には理解できるだろうと?」
「ええ。……僕は、あなたが今言ったように、擬似知性としては、かなり出来のいいものです。僕は想像するということができる、仮定するということができる、思考をすることができる。僕に対して、茘枝様はいくつかの禁止事項で縛りましたが、逆にいえばそれ以外は自由です。ですから、これからあなたに”見せる”のは、あくまで―――僕の、勝手な決断です」
少年は床に膝をつき、手を一周させ、床に弧を描く。
切り取られた円形が、歪んだ。水面のように波打つ。
「……僕は茘枝様の命令には逆らえない。あの方は、あくまで、僕に人間を守れと命じられました。こちらに来てください」
茘枝はじっと、少年を見つめていた。
ゆっくりと、唇をひらく。
「私も、あれから少し考えてみたんだけど、あなたは──ハイドロプスを構成物に使っているでしょう?」
「へぇ?」
茘枝は二本、指を立てる。
「今日あなたは、私の前で二つのことをしてみせた。人を操り意思をねじまげ、人の体を借用した。けれどそのどちらの場合にも、あなたはひとつの条件があることを口にしている。相手が魔法使いであること。……思い出してみると、あなたは最初から、そうだったわね? 魔力のない者にはまったく無害。けれど、魔力のある者が手にすれば、それは破滅と同意義……。魔力が強ければ強いほど、あなたはその性質をかえ、有害になる。亜人種より人間。普通の人間より、魔法使い。対象物の魔力に応じて性質を変える鉱物、ハイドロプスを……使用されているんじゃない?」
「おしい。ハズレです。ハイドロプスと同じように魔力に反応する性質をもつように、茘枝様が調整して、僕を作ったんですよ」
「……元々の素材にそういう特徴が一切ないのに、あなたは対象者の魔力に応じて性質を変えることができるの……?」
「だからこそ、茘枝様なんですよ」
「製法を私に教える気は?」
「別に教えてもいいんですけどね。禁止事項に入ってませんし、材料は手に入らないものばかりですから」
「ぜひ、知りたいわね。材料は?」
少年はこくんとうなずき、胸に手をあてた。
「僕を構成する大部分は、竜の涙でできています」
茘枝は、その瞬間、これが自分のまったくの夢ではないかと疑った。
心的領域で話をしているのではなく、話をしているという夢を見ているのでは……。
が、判断力は健在だったので、なんとかその逃避から自分を引き戻した。
そして自明の理ともいえる事柄に思い至る。
「……クルーノの、瞳! じゃあ、まさか、クルーノというのは……」
「そう、ドラゴンのことですよ」
竜の涙で構成されたマジックアイテム。──だからこそクルーノの瞳。だからこそ、瞳。
「……あなたは茘枝が作ったの……? ドラゴンではなく」
「茘枝様が僕をおつくりになられました。……ドラゴンに僕を作らせるなんて、いくらなんでもそんな残酷すぎることを茘枝様がされるはずないじゃないですか」
「残酷……?」
少年はかぶりをふり、その話をそこで切り上げる。
「人は、いま、滅びに瀕しています。それに気づくことができるのも、とめることができるのも、両方とも、あなただけです。だって、僕の主人は他の誰でもないあなたなのですから。そして、僕は、この悪夢を……できれば誰にも見せたくないと思っているのですから」
「…悪夢?」
「この世で、とびっきりの悪夢です。茘枝様は僕をつくるさい、さまざまなものを僕に詰め込みました。自分の死後、どんな事態が生じるかは、まさに茘枝様すらも予測がつきません。だからできるかぎりの情報を、茘枝様は僕に与えてくださいました。だからこそ、その知識に振り回されることなく使いこなせるよう僕は学習におわれたのですけど。そのひとつを今、僕はあなたに見せます。……断っておきますがこれは、強制です」
ひるみもたじろぎも迷いすらもなく、彼は淡々とそう言った。
「……」
「あなたが嫌だといっても、僕は見せます。―――すみません。ですが、あなたは見なければならない。なぜなら僕のマスターであられるから。情報を知らなければ、動くことができないからです。目の前に落とし穴があっても、あるという情報を知らなければ、回避することができない。たとえ翼をもっていたとしても、対処できない。そして僕は―――あなたという存在なくして、力を振るえません。だから、見ていただきます。
―――ですが、お約束します。あなたは、この泉にふれることで、膨大な知識を得ることができるでしょう。そう、誰もが望み欲してやまなかった、不老長寿の魔術すら、手に入るでしょう」
「…………あなたは、それを、私に渡してもいいと思っているの……?」
「この泉にふれた後でそれを使用する気が残るのならばご自由に」
茘枝は背筋をのばし、少年の瞳をまっすぐ見下ろした。
「―――私があなたに触れたとき、私は迷わなかったわ」
「憶えています。他の人は一日は悩み迷ったのに、あなたは寸分の迷いもなく、僕をとりあげた」
「……あの時、怖くなかったっていえば嘘になるわ。でも、私はこれまでずっと、困難に立ち向かい、つき進むことで前に進んできたの。できるかどうかじゃない。する、のよ。どんな不可能事でも、私は成功したときのことだけを考える。―――これからも、それは同じだわ。いいわ、やる。どんな悪夢だろうと、茘枝の長寿をなした魔術の対価としては、決して高くないわ」
茘枝はちらっと少年に意味ありげな笑みをみせる。
「あなたが、私が死ぬかもしれないところへ導くなんてことあるわけないし、ね」
茘枝が死んで、最も困るのは、恐らくこの少年だ。
クルーノの眼を支配する少年は、苦笑のひとつで応えた。
茘枝は少年の前を通り過ぎ、泉の前で立ち止まる。隣の少年を振り返った。
「……触るだけでいいの?」
「ええ。ここは心的領域。これは単なるイメージですから。接触したとあなたが感じた瞬間、精神が連結され情報が流し込まれます。……ほんとうに、すみません。この悪夢を共有させたことを、あなたは恨むでしょう。……あなたにはその権利があります」
茘枝の眦がつりあがる。
「私を―――自分がした決断の責任を他者に背負わせるような無様な人間と思わないで。それは侮辱だわ。決めたのは私。選んだのも、選択したのも私であってそれ以外の誰でもない!」
少年はうなだれ、素直にわびた。
「……すみません」
その様子に表情をやわらげ、
「最後にひとつだけ。―――どうして出会ってすぐ教えなかったの?」
「自己の組み換えに忙しかったんです。僕はマスターが見つかるまでの間、機能のほとんどを停止されています。これは茘枝様が組み込んだ初期設定であり、こちらからの改ざんは不可能です。マスターが見つかると、眠っていた機能は目覚める準備にはいります。同時にそれまで目覚めていた維持管理部分の半分が入れ替わりに眠りにはいり、学習成果に基づく知性を司る残りの半分が、機能中枢として接続され、こうして話をしています」
茘枝は額の中央を指でもんだ。
「……大体のところはわかったけど、もうすこしわかりやすい話し方にならない?」
「そうですね。―――すみませんこんなものを……見せてしまって」
だからその、謝るのもやめてくれないかなあ。
茘枝はうんざりした。
まったくもう……
そのただ中に突っ込もうとしている身としては、怖くなるじゃないの。
2004 2/20 up
|