「天使が悪魔になる日 2」



 農繁期、農家の人々は忙しい。
 ヘプライトは元は納屋だったそうなあばら家を借り受けたその日こそ家の修繕につとめることができたが、その翌日からはもくもくと請われるままに働いた。
 元来が農夫だったので、さほどの説明も要らず麦をかり、ひとまとめにして縛り上げ、それを山にし、碾き臼で粉にする。
 麦の殻ごと白い粉にした後は、ふるいを使って粉から殻を取り除くのが、米と麦とのちがいだろうか。米は殻と実の接着が弱い。杵で突くだけで半透明の米の実がむけるが麦はそうもいかないのだ。
 よって碾き臼でいっそのこと一緒くたに粉にしてしまってから、殻だけ取り除くということになる。

 午後になり、日が沈んでくると、夕暮れの真っ赤な夕日が地平線にしずんで―――ゆかない。
 昼間でも薄ぼんやりとした光がたちこめ、夕方になると更にそれが暗くなる。夕焼けの赤い色などどこにも見えず、はて、神様のにっこり笑顔まで見える気がする青空や夕日を最後に見たのはいつのことだろう?
 空は常に曇り空で遮られている。すべての光は強さを失い、すべての寒さも力を失った。
 大地は光を熱望している。
(―――だけれども)
 ヘプライトは胸のうちで呟かざるを得ない。
 光を知る者は焦げるほど強く光を希求している。けれども、今のこの曇り空しか知らない者たちは一体どう思っているだろう?
 初めは気にもしなかった。曇り空があるごとに心配していたらいくつ心臓があっても足りるものではない。けれど、一月ずっと曇り空ともなると、農夫は大地と天候に密接に関係している。ひそひそ声で不安をもらす者が多くなった。そして、二月が経過すると、誰もが不安げに空を見上げた。そして原因を追求する声はたかまり、やがて知れた。
 ―――魔王だ。
 魔王の仕業だ。
 曇り空しか見ないようになって、もう十年以上の月日が過ぎた。余るほどの冒険者が魔王退治に乗り出し―――……そして、志半ばで挫けた者、ついに帰って来なかった者、いろいろだったが目的を果たした者がいない点は共通している。
 曇り空の効果は、切実な緊迫感がないことだろう。光がないわけじゃない。雨が降らないわけじゃない。十年もの間この空は続いているのに、人は生き、農作物は発育が悪いとはいえ収穫でき、隣の人間の顔ぐらいは充分見える薄ぼんやりとした光がある。
 けれど―――心は長期的に蝕まれていく。目に見える危急がないかわりに、心は闊達さを失っていく。自覚していない心の裏側で、底が抜けるほどの晴天を熱望して、けれど本人に自覚はない。……曇り空とは、そういうものだった。
 ヘプライトは労働の対価に食事に招かれ、小銭を与えられた。食事の後は泊まっていくよう言われたが手を振って謝絶した。他にするべきところがあったので。

     § § §

 坂道を転げ落とす勢いで暗くなっていくなか、急ぎ足でヘプライトは魔術師の家へ向かう。
 魔法使い。
 ヘプライトのいた街にも、魔法使いはいた。もちろん彼などまともに口を利くこともできない天上の人間としてだが。彼は領主につかえ、あの街をその存在で外敵から守っていてくれた。
 あの街が夜盗の襲撃にもあわず、盗賊団や戦でくいはぐれた浮浪人どもの被害にもあわぬのは彼のおかげと言葉も交わしたことのない魔法使いを尊敬していた。
 他の仲間もそうで、魔術師とはいるだけで敵に恐怖と、味方に安心感を与えてくれる……そういう人間だった。
 ヘプライトは魔術師の家に向かい、そこで不穏な気配を感じて立ち止まる。

 魔術師の家の周囲には、一目みて境界線とわかる背の低い木製の柵がぐるりと巡らされていた。
 その柵の内側に、二人の人間が極めて剣呑な目つきで対峙していた。そしてその一方は、見覚えのある相手だった。
 青い髪―――。一見して魔術師とわかるローブに右手に杖をもった姿をした、下女とばかり思っていた女性だったのだ。
 それと対峙する相手もローブに杖をもち、魔術師らしい姿をしている。その男が言った。
「よもや本気であったとはな。いったい前代の茘枝はどういうおつもりか。色気にたぶらかされ、まともな判断力を失われたか」
「敵を力量が低いと思いたくなる気持ちはわかるけれど、あまり賢いとはいえないわね」
 軽やかな含み笑いの口調は、完全に相手を馬鹿にしたものだった。
 男なら……馬鹿にしている女からこうまで侮辱されて、黙っていられるはずもない。たちまちのうちに気色ばんだ。
「む! ならばその実力を示してもらおうではないか」
 言葉とともに白い稲妻が男の手元から離れ、即座に彼女に叩き落された。
 愕然とする男に彼女は冷静にいう。
「―――事前にいくつか確認するわ。いい?」
 それからのやりとりは、ヘプライトの知らない言葉で行われた。
「魔法の盟約に基づきこの約束をかわす―――以後話されるのは魔力ひめし闇の言葉」
 聞き取れたのは、その冒頭だけだ。
 いくつかのやりとりがあり、お互いに了承したように頷き、そして、男の魔法が彼女の立っていた付近半径三メートルをことごとく消し炭にした。
 家と、中央部をのぞいて。
 そして無傷の彼女が杖を持つ手をあげる。……魔法の呪文を口にする様子もなく、炎が一瞬で男を包み込んだ。夜の闇をものともせず、逆に従えるように燃える炎だった。
 かなり離れていたヘプライトが掌を見下ろすと、その僅かな皺の一つ一つまではっきり見て取れたほどの光量と熱量だった。
 炎は白く、静かに、男が立っている場所だけを白く焼いていく。悲鳴すら吸い込むほど一瞬の間に命を奪い、それを糧としてますます白く燃え上がる炎。
 人の命を奪ったはずの炎。けれどその闇夜に玄妙に浮かび上がる白炎は……心と言葉をうばい、ただ立ち尽くさせるほど、目に染み入るほど美しかった。
 茫然として見守っていたヘプライトははっとして駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!?」
 その瞬間、足の裏に激痛がはしった。
「あ……! 危ないから近づいちゃ駄目!」
 彼女が慌てた様子でいきなり飛び込んできた男に注意する。
 ヘプライトもすぐに下がって、激痛の理由を理解した。熱だ。大地を煮沸するほどの熱が粗末な靴を簡単に貫いて、火傷を負わせたのだ。
 そして……直撃を受けた男が助からないことはすぐにわかった。魔術師のローブは強固な魔法防御のはずなのに、繊維くず一つ残さず燃え尽きている。中身の人間は、炭の丸太も同然だった。
 ヘプライトは顔を彼女に向けた。
「ああたが魔術師だったんですか……」
 彼女は少し笑ったようだった。
「あなたが、じゃないわ。あなたも、よ。足は大丈夫? ちょっと見せて」
 と彼女がかがみこんで、ヘプライトは慌てて手を振った。魔術師に頭を下げてもらうような上等な人間ではない。
「い、いいですだ! そ、それよりあの方を埋葬せんと……」

 彼女は背筋をまっすぐにし、きっぱりかぶりを振る。
「駄目。私の魔法は鉄をも溶かすわ。あなたの足の裏は酷い火傷になってるはずよ。今は興奮して痛みを感じないだけ……。埋葬するにも温度が下がらないと、何もできないわ。こちらに来て」
 迂回して、家に入ると、彼女は椅子の前にヘプライトを案内して、靴を脱ぐよう言った。
 ヘプライトが言われるまま椅子に腰掛け靴をぬぐと、彼女はまるで跪くようにしてヘプライトの足の裏を覗き込んだ。
「い、いいですだそんな……!」
「いいからちょっと黙って。―――火傷はそう酷くなさそう。足の裏がとても厚くなってるせいね。これならリンデの葉を一晩巻いておけば大丈夫」
 目を白黒させているヘプライトに彼女は笑いかけ、別室へ姿を消すと壷を抱えて戻ってきた。
 中から薬液に浸した葉をとりだすと、足の裏に葉をあて、包帯で固定する。

「はいこれで大丈夫。……ごめんなさいね、巻き添えをくらわせて」
「い、いえ……。おらが勝手にしたことですし」
 居心地がわるい。
 彫刻が施された椅子もふかふかの絨毯も清潔な包帯の感触もなにもかも、これまで彼の人生で出会ってきたものとは異質だった。土にまみれながらの泥臭い労働、藁を布団とし、そんな仲間たちが寄り集まる寝床には垢と汗の匂いが漂う……そういう人生だったのだ。
 魔術師である彼女にこんなに丁重に優しくされることも、居心地を悪くせずにはいられない。
 自然と声もうわずる。
「あ、あのそれじゃあんがとうごさいました。お礼にあん人の埋葬を手伝います」
「……埋葬?」
 目をぱちくりさせて、彼女。
「……あの、ひょっとして野ざらし……ですか」
「うーんそうじゃないんだけど……いいわ、ちょっときて」
 靴をはき、さっきとは逆のルートで家の外に出ると、彼女は手にもった杖を振った。
 ヘプライトはぽかんと口をあける。
 外は夜。けれどもわだかまる黒い塊が見えた。
 真っ黒の死体が光に分解して、華やかに散っていったのだ。大気中に。
「魔法使いの体は外のエナジーを取り込むようになっているの。あなたたちが閉じた岩なら、私たち魔法使いの体は開いたパイプ。外からエナジーを取り込んで、そしてそれを外へと返す。―――魔法という形で。私たちの体は自然の一部。取り込み、返す。ぐるぐると循環しているこの世界の一部なのよ。だから……私たちの死体は刺激を与えるとたやすく還る。自然へ」
 ぽかんとして見守るヘプライトに、そう声がかけられた。
「……すげえ」
 魔法使いというものがこうまでちがうものだとは。死体は肉となり、大地に還るのではなく、光となり分解する。そして、この女性もそのひとり―――。
 茫然と見やるヘプライトに、声がかけられた。
「……あの……ヘプライトさん。ひとつ、誤解をとかなきゃいけないことがあるの」
「はい?」
「一年前、あなたが会ったという魔法使いはこの私です」
「そう……なん、ですか?」
「ええ。ここにいる魔術師はふたり。私とお師匠さまよ。そして、私は青い髪だけれども、あなたが昨日会ったお師匠様は、金髪なの」
 ヘプライトはそれを聞くなりいきなりその場に土下座した。
「おねげえします! おらの旅に、どうか付き合ってくだせえ!」

 玄関の石に頭を擦りつけたまま、相手の返答を待った。土下座することなどぜんぜんちっとも大したことじゃなかった。
「や、やだそんな。土下座なんてしないでください!」
 慌てたように取りすがる手を無視して、叫ぶように一際強くいった。
「おらには確かになんにもありゃしませんだ。危険な旅をしていただく見返りも報酬もなんにもさしあげられません。謝礼なんて何一つさしあげられねえんです。おらが差し上げられるものときたら、せいぜいこの身ひとつ。おらの命を差し上げます。何をしてくださっても構いません! ですから、どうか―――、魔王の殲滅もしくは封印にご助力くだせえ!」
「……ヘプライトさん……」
 思い悩んでいる様子の複雑な呼びかけに、ヘプライトは頭をこすりつけたまま強くいう。
「おねげえします!」

 やってきたのは沈黙。
 震えるように繊細で、一声誰かが何かを言ったらたちまち壊れさってしまう硝子のような沈黙だった。
「……今すぐには……お返事できません。どうか今宵はこの家にてご逗留ください。お返事は明日以降にお返事させていただきます」

    ◇

 用意された小さいながらも清潔な客室は、ヘプライトをただひたすら恐縮させた。
 物心ついた頃から鉄板のような寝台で眠る生活をしていた彼には手をつくと掌が沈むベッドなど経験したこともなかったし、日中の労働で泥まみれになった体でこんな綺麗な布団にもぐりこむことはとんでもない失礼のような気もした。
 それでもおそるおそる靴を脱ぎ、ベッドに入りこむと、体全体を布団が柔らかく抱きしめてくれるようななんとも素晴らしい感触で、あっという間に彼は寝入ってしまった。
 そのすぐ後、夕食をどうするかと訪ねた彼女がベッドで眠る農夫の姿に苦笑して出ていったことなど、もちろん知る由もなかった。



 一方ヘプライトの部屋から出た彼女は、廊下で佇む師の姿に足をとめた。
「……どうする?」
 短い問いかけの意味を、どちらもそれ以上の言葉を必要としないほど理解していた。
「―――わかりません。迷っています」
「そうか……。それでは来るがいい」
 背を向けた師のうしろに、彼女は従って歩く。
 まだ壮年といっていい彼と、年頃の彼女が一緒に同居していることについて、村では当然のように下世話な噂が飛び交っていたが、実際に彼女と師がそういう接触をもったことは一度もない。肉体で交わったことがないというレベルではなく、性的な意味をもつ接触では手を握ったことすらなかった。
 彼の側からすると、手足が棒のような少女の頃から知っている相手にどうして、となるし、彼女の側からみると、敬愛する師はほんの幼い少女の頃から彼女の面倒をみてくれて、父のようだった。
 師は彼女を自分の部屋に招いてゆったりと口火を切った。
「心は揺れているのだろう?」
「はい。そうするべきだとも、わかっています。でも……私は―――たぶん世間知らずなのです。この家で、村の人々が差し入れてくれる食料を糧に、ずっとここにこもって生きてきました。さみしいと感じたことは一度もありません。お師匠様と、親切にしてくれる村人と……。とても和やかで、居心地がよすぎて、他の場所へ飛び出していく勇気が、ないのです」
 彼は苦笑いのような顔で、顔を傾けるようにして笑った。
「…私も遠い昔、旅をした。旅をすることで私は磨かれ、自分という人間の器量が広がり珠となった。旅をする上で得た経験のひとつとして、私を大きく育てないものはなかった。そうして私は前代の茘枝からその名を勝ち取ったものだが……お前は優秀すぎた。旅をせずともお前は私を超えてしまった。だが、間違いだったかもしれない。お前を、無理矢理にでも旅に出させるべきだったのだろう。そのように、怯えと恐怖で心が凝り固まってしまうまえに」
「お師匠さま……」

「茘枝。あの男を見てごらん。粗野で、無知で、教養もない男だが、善意と誠意はあふれるほどに持っていて、自分の労働で自分の糧を稼いで生きている。お前は確かに世間知らずだ。だから、そうして足もすくむのだろう。自分に同じことが出来るかと、この居心地のいい殻から出なくとも、今のままで充分幸せじゃないのかと、そう思わずにいられずに」
「……はい」
「私は無理強いはしたくない。だから……自分の弱い心を見つめてみなさい。そして、あの男をよく見なさい。一緒に旅が出来るほど、信用できるかどうかをそうやって確認しなさい」

    ◇

 ヘプライトはその日、その家の中で誰より先に目覚めた人間だった。
 曇り空でも太陽は雲のカーテンの向こうで確かに動いている。日の出とともに起床すると、村の人々に合流して農作業に精を出し、暗くなってきた頃分かれて魔術師の家の扉を叩いた。
「壊れた柵をなおしますだ」
 今はもう光にかえった魔術師の魔術で、入り口付近は真っ黒に焼け焦げていた。家自体は何か魔力で保護しているのだろう、びくともせずに建っているが、青い草がはえていた地面は黒く変色して踏むと枯れた草が砕ける感触があり、柵は燃え尽きている。
 家の修繕のときに借り受けた大工道具を彼は持参してきていて、黙々と板を鋸で切り、釘を打った。
 それをただ見守っていた彼女がいう。
「ヘプライトさん……」
「ヘプライトで構いませんだ」
「じゃあヘプライト。なんで……あなたはそこまでするの?」
「そこまで?」
「魔王が現れても、人々はちゃんと暮らしていける。生活に何の変化もない。ただ青空を諦めればそれで済むことよ。もうずっと我慢して、十年も経ったんだもの」
「そうかもしれませんだ」
 あっさり肯定し、意外そうに瞳が見開かれるのを見ながら、ヘプライトは答えた。
「だからこれはおらの私憤。単に、おらは、自分の仲間のかたきをとらにゃあいられないんです」
 それきり、ヘプライトは質問されることもなかったので手を動かす。
 元々子どもの膝丈もない柵である。あっという間に元通りになった。
 ためらいの上にためらいを重ねたたどたどしい言葉がやってきたのは、その時だった。
「……ありがとう。ねえヘプライト。私は……あなたのように世間を知らないの。世間知らずなのよ。世間知らずの人間にとって、外の社会はとても恐ろしいの。そこに飛び込んでいく、勇気がないのよ……」
 ヘプライトは立ち上がると彼女の正面にまわり、その瞳をしっかと見据えて断言した。
「大丈夫ですだ! 貴方様は魔術師。魔術師につっかかろうって奴は向こう見ずの恐い者知らずの人間だけと相場は決まってます。それに、おらがお教えしますだ」
「それにね……もっとまずい問題がひとつあるの」
「え?」
「あなたが男で、私が女だっていうことよ。だから―――あなたは男の魔術師を口説くべきなの。私からもお師匠様に口添えするわ、だから」
「そんなことはありませんだ!」
 ヘプライトは絶叫のように断言した。
 そしてズボンに手をかけ、一瞬のためらいののちそれを引き落とす。
「きゃっ」
 悲鳴があがるのを聞きながら、言った。
「おらは……このとおり、玉無しですから」
 ヘプライトの腰部、そこに、あるべき男性のしるしはない。
 ヘプライトは元通り着衣を身に着けながら、顔面を赤く染めて、そっぽを向いている彼女に言った。
「ですから、おらと行ったからといって、貴方様の純潔に万に一つも危険はありませんだ」
 顔を背けながらも見るべきところは見ていたのだろう彼女が顔をあげた。
「……その……ひどい傷は……?」
「おらは農奴だったんです。―――ああ、脱走農奴ではないと思います。もう一年たってますし、おらの所有者は死に、その後継者も一緒になくなりましたから」
「あなたの……故郷では農奴はそんなふうにされるものだったの?」
 こうして話すことで、過去の傷が痛みとなって蘇り胸を刺す。つらいが―――ヘプライトは気をとりなおした。
 女性である彼女が男であるヘプライトと旅をすることに躊躇いを感じずにいられないことはよくわかる。よしんばヘプライトとの間に何もなかったとしても、女性として、「おとめ」ではない、そう世間からみなされてしまうのだから。
 だがこの体では、ヘプライトはどう頑張っても彼女と契ることはできない。そして世間もそう見てくれるだろう。
 ここぞとばかりに熱をいれて説得にかかった。
「いえ。……ちょっとした揉め事で……罰としてこんな風にさせられちまったです。―――でも、これで貴方もおらがどうまかり間違ってもあなたに手を出せねェ玉無しだってことはわかったと思います。外に出るのがこわいっちゅーんでしたらおらが全部そういう部分は引き受けます。んだば……」
 彼女は白い首を傾けて、何か深く自分の心の底をさぐるように沈黙していた。その表情に、言葉も先細りになって消えてしまう。
「―――あのねヘプライト」
「はい」
「自己紹介をまだしていなかったわ。私の名前はレイシ。茘枝と書いてレイシよ」
「はい。ヘプライトですだ」
 ぺこりと頭を下げた態度は、どうも、レイシの予想とはまるで違ったものだったらしい。
 まじまじとヘプライトの顔を見つめたあと、すぐに体を引いて納得したように何度も頷いた。
 どこか寂しげに、けれど得心した様子で呟く。
「井の中の蛙……か」
「へ?」
「ヘプライト、ちょっとどいてくれる?」
 彼女は杖を持って、軽く一振りした。
「あ」
 大気中をただよう光の粒が、黒こげになった大地に集まる。
「さすがに焼け焦げた草は元に戻らないけど……」
 レイシが魔術師を焼き殺した場所と、相手の魔術師が壊した入り口付近。その2箇所の黒こげがあっという間に復調する。暗闇のなかでも、光る粒が集まっているおかげで色の判別はたやすい。柔らかそうな茶色い土になった。明日には芽が出るだろう。
「まさか……こんなことが」
「できちゃうのよ」
 あっさり言って、彼女は「うん、決めた」と呟く。
 なにが、と問い返す間もなく、彼女は言った。
「私、あなたと一緒に旅に出るわ」

     § § §

 茘枝が師の部屋をたずねて、自分の意思を告げると、師からはいくつかの細々とした注意を授けられた。
 それはどれも実用的な注意で、世間知らずを自分で自覚している彼女にとって千金の値ある忠告であったため彼女も大人しく耳を傾けていたが、そののちこう言われた。
「魔術師は強い。だが、それにうぬぼれてはならぬのだ。いかに強い魔術師でも、食事に毒を入れられてはひとたまりもない。茘枝……お前は魔術を憶えるために生まれたのではない。魔術を更に発展させるため生まれたのだろう。魔術については、何も言う事はない。とうにお前は私を超えた。だから茘枝の名も譲ったのだ。外へ出ることで、お前は自分の強さを知るだろう。自分がいかに優れた力をもち、いかに強大な力を行使できるのか、目に見える形ではっきり知る。だが、それに自惚れてはならない。敵は、正面から来る敵ばかりでないのだから。常に自分の未熟を戒める心を忘れないことだ」
「……はい」
 彼は部屋の隅からいくつかの品を取り出して彼女に与えた。
「暁のローブと、……杖はそれで良いか。それと路銀だ」
「こんなに……?」
「食事と寝床。その他携帯食料やロープなど、旅は予定どおりにいかぬものだ。いくらあっても足りるものではない。ただし気をつけることだ。魔術師というやからは正面からの敵には滅法強いが……、すりという敵には何の力も持たないものだからな」
 妙に実感のこもった言葉に、茘枝は目をぱちくりとさせる。
「……ひょっとしてお師匠さまも……?」
 苦り切った顔で頷かれる。
「ああ。気がついた時には有り金すべて盗られていた。あの時オルヴェンがいなければ、私は路頭に迷っていたことだろう」
「はあ……」
 オルヴェンというのは初老の男性で、師が唯一に近いほど親しく付き合っている相手だ。師は魔術師のため年のとり方がゆるやかだが、彼はふつうに年をとり、まるで祖父と孫のような外見になってしまった。
 何十年という付き合いで、この言葉からして一緒に旅をしたこともあったらしい。
 師は茘枝の肩に手をおいた。
「―――頑張りなさい。お前は茘枝。この世で最強の魔術師だということを、忘れないよう」
「……はい」
 茘枝とは称号。魔術師ならば誰もが一度は取得を夢見る最強の魔術師の代名詞。
 だから茘枝は誰もが知っているとばかり思っていたが、ヘプライトは聞いたこともないようだった。茘枝は自分のことばかり考えていたから、自分の属している世界がそのまま一般の人間にとっても世界だと思っていた。誰もが持っている、普遍の知識だと思っていた。けれど、普通の人間は、そんな魔術師の世界のことなど知らないのだ。
 井の中の蛙。
 まさに、そのとおり。自分の知識の狭さを、そのたった一言が嫌というほど思い知らせてくれた。

 その後師はヘプライトと一緒に晩餐をとり、しきりに恐縮する体の彼に頭を下げた。
「この娘は私が手がけた弟子のなかでももっとも優れた者だ。すでに魔術の腕は私を超えている。だが―――なにぶん、世間知というものがない。本当の知恵とは経験と知識によって成り立つが、この子は強く知識に傾いてしまったのだ。なににつけ不勉強な面があるかと思うが、どうか、そなたが導き、助けてやってほしい」
 茘枝もいる前でそう言われたのだから、茘枝の表情は複雑で……でも仕方がないという優しい苦笑があった。
 魔術師である師が、ヘプライトという一介の農夫に頭を下げるその裏に、自分への慈しみを感じずにいられなかったから。……それに実際世間知らずだと自分でも思うし。
「は、はい。がんばりますだ」
 そう恐縮する彼は、自分が苦労して勝ち得た魔術師の価値を知らなかった。
 彼が「魔術師と一緒に旅をする」ことの価値を知るのは―――割合早かった。



「パラライズ(麻痺)」
 杖の一振りで、ばたばたとドミノ倒しのように倒れる総勢二十名をこえる盗賊たち。
 ヘプライトが唖然としているなか、茘枝は無欠の笑顔を向ける。
「さ、ヘプライト。行きましょう?」
 封建の世で、最下級に位置する農奴であったヘプライト。
 彼が魔術師と一緒に旅をする価値を理解したのは―――旅を始めたその日のうちだった。





2003 11/15 up


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