魔法物語
「天使が悪魔になる日 1」
前を走っている者は、振り返らなければ後ろにいる者を見ることはできない。
けれど後ろにいる者は、いつも等しく前を走っている者を見つめている。
男が彼女と初めて顔をあわせたのは、暦の上で冬の日。偶然からくる幸運だった。
最初に見たのは後姿。フードが下ろされた頭、全身をすっぽりと覆うローブ、そしてフードから零れ落ちた長い一房の青い髪。
魔術師だ!
奥深い森の中、ローブ姿など探索に向いた服装とも思えない。下ばえに足をとられ、突き出た小枝に長い衣類の裾をかぶりと噛まれるのがオチというもの。なのにその姿には少しの乱れもなく、着付けられた服はすとんと下に降りていた。
どういうことかと疑問に思ったのもほんの刹那。
ローブ姿の魔術師は地面を探って何かを引き抜いたかと思うと、ふわりと飛び上がったのだ。左右はどこも密集した木々のあつまり。けれど上には何もない。
男が見守る前で、魔術師は魔術師らしくその場を去った。空を駆けるという方法で。
「ま、待ってくれ!」
哀れな農夫、愚かな人間はその時になってようやく声を上げたものの、すでに空高くにあった魔術師には届いているかも疑わしい。
後に残されたのはぽかんと口をあけ、馬鹿面をして見送る男がひとり。
けれどそれもまたほんの短いわずかな時間。
男は雲が去った方向をよく憶えた。その場で地図を広げ、何度も何度も東西南北を確かめ確かめ、風のごとく駆け去った方向を見定める。そうしておもむろに焚き火をつくって燃えさしから炭のペンをつくり、地図にその方向を印しいれた。
この方向。この方角に、魔術師がいる。空を駆け、青い髪をした魔術師が。
それからの彼は旅暮らし。
まっすぐまっすぐ雲のたなびき去っていった方角をたどり、道々噂を集めて進んでいった。
空をかければ一時の道程。
けれども地を這えばそれは途方もなく長い時間。
男は丸一年をかけ、その道程をとうとう走破なさしめた。
服は汚れ、体は悪臭に満ち、路銀は道々の力仕事で得、靴にはいくつも穴があき、長路の道路で三度靴を変えた。そのたび男の器用な指先は自分で自分の靴を作った。
とはいえ靴三足履きつぶした旅路である、足は当然豆だらけとなり、ところどころに血がにじみ、元々体が頑健であればこそできた長旅だった。
魔術師が棲んでいるという噂のある森の間近には、小さな村があった。そこでこれまでの労働でためた小金で服を買い、それまでの服を脱ぎ捨てた。厚意というべきか、悪臭に辟易したというべきか、井戸の場所を案内してくれた村人のお陰によって旅の垢をさっぱり落とし、いざとばかりに森の中に足を踏み入れた。
森の中にのびるは黄色い煉瓦の舗装道。
そこには腰をかがめてくぐる木の枝も横合いから枝を突き出す木々もなく、舗装道の周りの木々は伐採され、三歩ほど離れて森となる。
男は感心しながら足をはこぶ。
道なき道、まったくの野生の群生をかきわけて行かねばならぬと思っていただけに衝撃であり楽でもあった。
黄色い道を行くこと半時あまり。男は森の只中にひっそり佇む館を見るなり緩めた気分を引き締める。
扉を丁重にノックして、出てきた相手にがばりと地面にひざまずいた。
「魔術師さま!」
相手はもちろん面食らった。
「あの……?」
女の細い声。男は思わず顔を上げる。
そこにいたのは下働きの下女とおぼしき一人の女性。男は顔を真っ赤に紅潮させて、魔術師が一人で棲んでいると思っていた思い込みを強く恥じる。
女性の肌は白く、柔らかそうで、体からはいい匂いがした。髪の毛はこれは珍しい、魔術師の才を持つと伝えられる見事な青色。
「す、すみませんだ。おらの名前はヘプライト。魔術師さまはいらっられ……いらっしゃられますか?」
丁寧な言葉づかいと緊張に舌が余計に一回転した。真っ赤になりながらもそう伝えると、彼女はにこりと笑った。
「どうぞこちらへ」
案内に従い、靴を履き替え、館へ足を踏み入れる。床は石ではなく木のつくり。磨きこまれた滑らかな表面は氷のよう、体温を奪う感触も右におなじ。
「ここでお待ちください」
と入った部屋は暖炉の火が赤々と燃える応接間。椅子のない部屋、暖かな絨毯は灰色熊の全身毛皮、木材の机も何もかも、見た事がないほど艶々と照りびかる。
男はすっかりあがり、萎縮する。どうしたらいいかと場違いな自分を見回して。
やがてやってきたのはローブを着、フードを下ろした立派な風采の一人の魔術師。その鋭い眼光にじろりと捕まった瞬間、度胸が座った。
気がつけば地面に身をなげうつようにして切々と、協力をこいねがっている己がいた。
自分の住んでいる町が消えてしまったこと、滅びてしまったこと、自分と数名の仲間だけが隣町に買出しに行っていて助かったこと、その後はバラバラに皆、別れたこと、自分はどうしても仇を諦めきれずムーアの森で魔術師(あなた様)を見かけてここまで長い旅をしてきたこと……。
「……フム」
聞き終わり魔術師は腕を組む。
「冒険者として、そなたの旅に同道しろと?」
「お願いしますだ!」
つるつるぴかぴかと光っている床に額をこすりつけるようにして懇願する。これが希望、これが生きる目的、自分に残されたただ一つのもの。
長い沈黙のあと、頭上から降ってきた声は諾ではなく、かといって否でもなかった。
「ふむ。……その魔術師の特徴は?」
ヘプライトは一言で告げる。
長い紺青の髪、と。
魔術師はちらりと苦笑する。
「やはりな」
え、と思ったのも束の間に、魔術師は鉄の声音で断言する。
「お話はうかがった。しかし―――お断りさせていただく」
男に用意できる報酬はない。自分がその日食いつなぐ食料ですら欠ける日ばかり。与えられる見返りはなにもない。なにもない。
なのに危険ばかりがある旅路に出ろというのは見合わぬ話。
そう告げる魔術師に、男はきっと唇を結び、頭を下げた。
口から出たのは丁重な謝罪の言葉……、ではなく執念の言葉。
「また、来ます。おらには他に、手はねぇですから頷いていただける日まで、何度でも来ます」
◇
男が帰ったあとの室内で、魔術師は女に話し掛ける。
「……聞いていたな?」
「はい」
笑みを含んだ回答。どこかしか。
「憶えは」
「あります。ムーアの森には行きましたわ、他でもないお師匠様のお言い付けで」
「そうだったな」
と親しみのこもった苦笑をこぼす。
「ただ……」
「ただ?」
「―――人の足では、一年ではきかない旅路のはずです」
「そうだな。男の足から血の匂いがした。襤褸と化した乞食以下の身なりだから盗賊の心配こそなかったろうが、魔物の出る昨今は楽な旅ではなかったろうに」
「それほどまでに魔術師が欲しかったのですか、あのかた……」
魔術師はかぶりをふる。言葉をさがし、やがてそれは無為に帰す。力なき者が力ある者を見る羨望を、どう理解させればいいのか。魔術師という存在の希少さと、その存在が掲げる希望という名の灯火がいかに赤々と力強く明るく闇夜を照らすのか、そのたとえすらも見つからず。
弟子もいずれ知るだろう、人々にとっての魔術師という存在の大きさを。
「話は聞いていただろう。―――どうする?」
「……生まれ故郷の町を魔物に破壊されたのですね。家族も何もかもすべて……」
「魔物がそのような団体行動をとることがあるとは、初めて聞いたがな。……まあ徒歩で一年以上の距離で、一年前の話ならば私の耳に届かなくても無理もない」
「傲慢かもしれませんが―――、哀れだと、思います。彼の憤りは私憤かもしれません。けれど義憤と呼ばれる価値ある正当なもの。力になってあげたいとも、思うのです。けれど……お師匠様。私はこの村とこの森から、出たことはありません。お言い付けで出かけたことはあっても……」
「人と接するのが恐ろしいか。人と交わるのが恐ろしいか。人の間で人と交わって働くことで日々の糧を得、生きていくことが自分に出来るかと不安でたまらぬか」
「………はい」
魔術師は嘆息した。
「無理もない……。私はお前に知識と力のみを与えすぎた。そしてお前は、人の棘は知っていても、人の優しさを知らない。人が見も知らぬ人にどれほど残酷になれるかを知っていても、人が見も知らぬ人にどれほど優しくなれるかを知らぬのだ」
「お師匠様……」
「人を殺めるのは恐ろしかったか?」
弟子は顔をふせる。青い髪がその表情を隠した。
「……とても。とても恐ろしかったです」
「それもまた……仕方のないことだ。お前が茘枝であるかぎり、そして茘枝でいつづけようとするかぎり、何人でもお前から茘枝を奪おうという者はくるだろう。馬鹿げたことよな。希少な魔術師同士が刃をかわし、片方は死に至る……」
やるせないため息を吐き出し、
「あの男、あの様子では諦めるまい。また何度でも通ってくるだろう。自分がどうしたいか、どうすべきか、よく考えなさい」
§ § §
「ここでいいですか? ほんと雨しのげるぐらいにしかならんとこですが……」
「とんでもねぇ! 充分すぎるぐれえです!」
男―――ヘプライトという名の元農夫はあばら家とはいえ雨風しのげる家を提供してくれた村人に心からの感謝をこめて深々と頭をさげる。
「この恩はきちんと働いて返しますだ」
「今はいくらでも人手が必要な時期ですから期待していいもんですか?」
それではと早速とりかかった雨風を素通ししてしまう家の修繕の手際は、村人に期待させてもいいと思わせるに十分なもので、村人は頼もしげに目を細めて立ち去った。
(一度で駄目なら百回行くまでだ)
屋根にのぼり、穴に木の板を打ちつけながらヘプライトは胸の中で決意する。
魔術師の棲む森にもっとも近いこの村が今農繁期だったことは幸いだった。
頷いてもらえるまで、何度でも訪ねる。鬱陶しいと魔法で焼き殺されるかもしれないが、それならそれでいい。ヘプライトから折れることは絶対にない。
決して諦めない。
久々の新連載は、「青の魔術師」のお話になりました。
主役はきっぱりはっきりヘプライトです。
わりとしんどいお話になるでしょう。
茘枝やヘプライト、ケリースクエアその他いろいろもろもろがでてくる魔法物語はとても長い話ですので、一話完結方式でいきます。
そして、これの小タイトルが「天使が悪魔になる日」です。
2003 11/13 up
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