恋 2
「…白様。白様!」
呼ばれて、シンははっとする。
教師の声は、たしなめる響きを多分に持っていた。
「どうかなされましたかな?」
「ラヴクトー。そなた、恋をした事があるだろうか?」
「恋煩いですかな。むろん、ございます。で、その幸運な相手はどなたですか?」
「よくわからない。人の話によると恋というものは嬉しくて心がわき立つ物だという。ところが私はまったくそうはならない。悲しくて、つらい。はっきり言ってこんなのが恋だとは思いたくない」
「…問題の原点が間違っていると思われますが。何故に、あなたはそれが恋だとお思いになられたのです?」
「………夢をみた。相手の好意を得る夢だ。考えてみた。自分は相手をどう思っているのか。
…よく、わからない」
大嫌いというのは本当だ。だがそれだけではない。様々な顔が一人の人間にはあって、キールのシンに対する顔は、嫌いだ。でもその他の顔は…嫌いじゃない。
今更ながらにそれに気づいて、シンはかなりショックを受けたのだ。―――嫌いじゃな い? あんな奴が?
そう、嫌いじゃなかった。イールを見つめる優しい横顔や、狩りの時の真剣な顔、ナギを労わる態度は、嫌いじゃなかった。
正と負の両面が存在する人間というもののなかで、そこは嫌いじゃなかったのだ。
「白様」
兄と、キールたち以外はシンを白様と呼ぶ。白の座と呼ぶこともあるが。
皇族の名は、みだりに呼べないのがならわし。そのため、皇族は階級の名で呼ばれるのだ。
白は最下位。侮りの色だ。
「少なくとも、白様はその者へ好意を持っておいででしょう。そして、恋とは常に暖かく美しいものとは限りませぬ。恋とは楽しく暖かく幸せであると同時に、つらく、苦しく、耐えねばならないものでもございます」
シンは少し首を傾けて、ほんの僅か、笑った。
「すまない。つまらぬ戯言で時間をとったな。続きをしてくれ」
そういう目でキールを見てみると、キールはこの歳の子供にしては(そういうシンだって子供なのだが)かなりのお買い得である事に気づいた。
手足が長く、細い。まだ十一歳。少年期の青臭い肢体はしなやかで、容姿もまあまあ。
何よりキールはシミナーだった。
シミナー。この星に百人といない、精神治療者。多発している精神疾患を治せる貴重な人間国宝である。
そのシミナーは、台所でコトコト料理を作っていた。ナギ家では子供だからといって、シミナーだからといって、料理当番や掃除当番が免除される訳ではないのだ。
シンは食堂の椅子に腰掛けたまま、後ろを振り返って話し掛けた。
「…お前さぁ。シミナーって、みんなお前みたいなのか?」
「? どういう意味だ?」
「人間不信で冷淡で、大人びていて性格壊れているのか?」
「まぁ、大抵似たところはあるな」
その瞬間、シンにシミナー=性格悪いという偏見が根づいたとしても、いったい誰が責められようか。
「…以前僕が会ったシミナーたちは、短時間だからよく判らなかった。つまりお前の根性悪は、シミナーの職業病か?」
「人の精神に年がら年中触れていてみろよ。真面目に人と相対するなんて面倒くさくってやってられない」
「―――なるほど」
シンは重々しく頷いた。
キールが「真面目」に接するのはキールの父と弟だけである。彼らには優しく、それ以外には底の浅い優しさ。表面だけ優しくて口調が穏やかなだけで、実際はまるで優しくないのだ。
キールは精神に接触し、病巣を取りのぞく医者ではあるが――優しくはない。例えば患者がもう助からないとする。キールはそれをはっきり隠さずに家族に告げるのだ。
嘘をつかず、正直でいることはたやすい。誠意を持って相対することに比べれば遥かに。
「? じゃなんでお前僕には刺々しいんだ? 妥協する。お前の薄っぺらい優しさでいいから優しくしてくれ」
「俺? いけずーずーしい奴には冷たいんだ、ごめん」
「それもそうか」
キールの優しさは家族以外には実に薄っぺらい。ずかずかと踏み込んでくる図々しい人間にはぴしゃりと鼻先で扉を閉めるのだ。
―――同じ事を家族がしたなら、絶対そん な事はしないくせに。
シンは心中でつぶやく。 キールの愛情は、家族にすべて注がれていた。
キールとの付き合いはかなり長い。もう五年…六年かになる。が。誠意ある言葉をかけてもらった事など一度もない。傷つく言葉の暴力ならば何千回と言われたが。
イールは毎日受けている言葉を、他人が六年付き合っても一度もないというところが、じつにすばらしいキールの真骨頂だった。
「シン」
キールが包丁を脇におき、前掛けで手を拭いながら名前を読んだ。
「なんだ?」
「お客さんだ。たぶん、お前。この家ごと焼き殺そうとしているからな」
「…なるほど。キールのほうの客だったらお前捕まえるのが目的だから焼き殺しはしないよな」
シンはつらつら考える――自分は、皇族の中でも白。つまり最下位にある。そんな自分を始末したいと思うのは……うーん、心当たりがありすぎる。
格別目障りではないが、将来障害になるかもしれない、いや邪魔になるのは間違いない。
ならば力がない今のうちに、とでも思ったのだろう。
皇族は影と呼ばれる、皇族専用の道具を持っている。ありとあらゆる技術を叩きこんだ人間の精神を抹消し、刻印とよばれる主人を識別する信号を刻み付けて、道具とするのだ。
シンは影をほとんど持たないが、兄がシンを心配して(そのあまりに際立った容姿ゆえに)手持ちの影を半分も割いて守護をさせていた。
―――が。今回は出番はないだろう。
全十六方向から同時に放たれた火球は、キールが張ってある結界にぶつかり、爆発、四散した。
キールは眉をひそめる。
「おかしいな。相手は二回目やらずに消えたぞ?」
シンはその影が誰のものか、心当たりがあった。
「…たぶん、父だろう。引き際を見誤るな。これが一番難しいんだが、父は確かに引き際がいい。一度目算が狂ったらすぐに退く。何より…僕とキール達の交友関係を知るのは兄と父だけだ」
「……お前の父は、兄弟間の闘争には無関係じゃなかったか?」
緑の座は己れの権威を侵害する者あらば、我が子であろうが容赦しないが、それ以外には傍観の姿勢をとる。
それは、代々繰り返されてきた緑の座への過当競争だった。子供達を殺し合わせ、一人生き残った者が次代の緑の座になるのだ。父もまた、そのように緑の座になったのだから。
「……」
シンは黙秘を守った。
父は、シンを殺す気はなかったのだろう。皇族を包む多重の結界を切り裂けるのは、同じ皇族、もしくは影の直接攻撃(結界は中和相殺する)か、結界を突き抜けるほどの巨大な術だけだ。今のはどれにも該当しない。
「……お前に黙秘する権利はない、と言いたいとこだけど、ま。聞かないどいてやるよ」
珍しいキールの配慮が、有り難かった。
皇宮の部屋に戻ると、案の定、机の上に黒い封筒が置かれていた。
シンはそれを平静に眺め、影に申しつけて念入りに湯浴みし、乾かし、最上の香油を腰まである長髪と、白絹のような肌に念入りにすり込んだ。
心の屈託。兄は知らない。黒い封筒が届くたび、シンの心は冷たく固くこわばる。
人は、秘密を持てるのだ。秘密を持ってしまったら、もう明るくふるまえないというのは大間違いだ。兄にだけは知られたくない。絶対に知られたくない。そういう秘密は、シンをより一層用心深く、明るくさせた。
緑の座に逆らえる者はいない。ただ一つの例外を除いて。―――でも、皇族は皆、絶望的なまでに誇り高いのだ。誇りが時として命と対価に取引されるほどに。
屈辱をそのままにしておくことは、絶対にできない。
ただ唯一の例外は、次の緑の座になることだ。だからシンは決めた。どんな手段を使ってでも、自分は、緑の座になるのだ。
シンはそうして、今夜は兄の部屋に行かず、自分の部屋で眠りについた。
◇
それより時間は少しさかのぼる。シンが帰った直後、キールはふと顔をあげた。
家を出ると、そこには一人の女性が立っていた。シミナーであるキールには一目でわか る。
…影。
精神がない肉人形。嫌悪しかわかない、哀れな道具だった。
彼女はキールに、一通の手紙を差し出した。黒い封筒である。
「我が主、緑の座が、貴方にお目にかかりたいと申しております」
キールはちょっと考えた。
興味はある。あのシンの父親だ。顔を思い浮べてみた。(皇族は闇につつまれているが、緑の座だけは例外である)。シンのあの圧倒的な美貌とまるっきり似ていないが、それなりに見栄えと、迫力のある壮年だった。
キールは腕組みをして、影を見やった。
「これから?」
「今夜、真夜中に、お迎えにあがります」
「りょーかい。待ってるよ。行くって言っておいて」
ひどく皮肉な、面白い気分だった。
影達(影は一人ではなかった。姿を消して、十人は取り巻いていた)は姿を消し、キールは黒の封筒を開いて書面を読んだ。
複雑な儀典言葉を駆使した難解な文面だったが内容はひねりのない予想どおりの呼び出しの文面だったので掌の上で書簡を焼いた。
「…さ、て…と。どうしよっかな」
十一歳の少年の面には、とてもそうは思えない皮肉げな表情が浮かんでいた。