恋 杉浦明日美
これが夢だということはわかっていた。
あいつがこんな顔をすることはないからだ。
歯を見せて、朗らかに笑う全開の笑顔。
そういう顔を、見たことは何度もある。が、向けられたことは一度もなかった。
目が覚めた後も、しばらく脳裏にその顔がちらついていた。
朝食の席で、シンは兄に訊ねてみた。
皇族は一人一人が棟を持ち、大勢の侍女・侍従にかしずかれて育つ。
よって兄弟だからといって食事の席も同じくはしない。シンもその例にもれず、他の兄弟たちと食事を一緒にした事もないが、百歳は歳が離れているこの兄だけは例外だった。
シンは自分の棟を持たない唯一の皇族である。兄の庇護下にあるからだ。兄の棟で眠り、食事をし、生活のすべてをしている。
橙様と呼ばれている兄は優しく、時には厳しく、シンは大好きだった。
「兄上は……お好きな方が、いらっしゃいますか?」
兄は食事の手をとめて、目をかるく見張って答えてくれた。
「いるよ。とても愛しい方がいる。どうしたんだい?」
「いっつも喧嘩ばかりしている相手が、僕に優しくする夢を見たんです。夢は願望を表すと言います。僕は相手に優しくされたいと、そう思っているのでしょうか」
「いんや。仲良くしたいと思っているんだろうな。お前と仲が悪いのは、キール…とかいう少年だっけ。お前と相手を張って一歩も引かないとはなかなかやるなと思っていたが、なるほどねぇ。お前に、仲良くしたいと思わせるか。
優しくしてやったらどうだい?」
「僕は、充分、好意的な態度をとってます!
…でも、キールは、きわめて敵意に満ちあふれた態度をとってくるんです」
橙の座は頭をひねった。彼は自分が育てたこの弟のことをよく知っている。
弟の持つ知性、教養、容姿、性格、どれをとっても魅力的であり、普通の子供がシンを嫌うならば、それは好きな子を虐めるようなものだと思っていたのだ。
さもなくば…。
「兄弟や親を取られたやきもちか?」
シンはかぶりを振る。
キールと会ったことのない兄には判らないのだ。キールが、どんな、存在なのか。
確かに、シンはキールの弟や親と仲がいい。悪いのはキールだけだ。しかし、キールはそんな子供っぽい嫉妬で動くようなガキではない。それは確信を持って言える。
皇族はそれなりに優れた容姿の持ち主が多いが、シンはその中でも別格だった。
白銀の髪を胸のあたりまで伸ばし、肌はきめが細かい透き通るような白である。
瞳も銀。睫毛が長いため目元に濃い影ができ、彫刻的な彫りの深い印象を相手に与える。白と銀で構成された美の象徴は、たとえどれほど若き皇族の少年に悪意を持っている人間であろうとも、その美しさは比類ないと認めるほか無かった。
そして、皇族ならば誰でも、相手の好意をつかみ、利用する方法をしっかりじっくり教師から習う。
そういういわば「規格外」の子供であるシンから見ても、キールという喧嘩友達は異常だった。
―――大人びている、を突き抜けて、老成 しているとすら、言える。
「よく判らないな。じゃ、なぜ、その子はお前を嫌うんだ?」
人の好意をつかむこと、それが社交術の原点である。そしてそれを習っている皇族が、ウブな一般庶民の子供一人手懐けられないとは考えられない。
「…キールは、すごく、大人びているんです。お陰で僕の正体もあっさりバレて…、家族が、皇族のゴタゴタに巻き込まれるのが嫌だと、そう言います」
兄は難しい顔になる。シンもだ。
「…一理あるな」
シンも黙って頷く。
「だから、でしょうか。僕はキールが大っ嫌いですが、本気で憎めません。相手に理があり正しいと思うからです」
「でもそれでも、嫌いなわけだ?」
「当たり前でしょう。あんなひどい事を言われて嫌わずにいられる人間がいたら見てみたいと思いますよっ」
キールは言葉の持つ力を悪い意味で非常によく理解していた。そして、その力を人を傷つけるために使うことに対し、なんら痛痒を覚えない性格でもあった。
子供のように残酷に、大人のように的確に、キールは言葉という名の刃でシンを無残に傷つける。
それでも…それでもキールが非を認め、謝罪してきたら即座に大嫌いを訂正する程度には、シンはキールと仲良くしたいと思っていた。
「…でも、お前は、その子と仲良くしたいんだ?」
答えづらかった。
それは、キールよりもシンの方が気持ち的に弱いという事だからだ。あちらは自分と仲良くしたくないのに、こちらは仲良くしたいのだと認めることは…皇族であるシンには、しづらかった。
けれども、皇族は誰もが自分の感情を真っ向から見据えて認めることを恐れるな、と教育されている。
「……はい」
シンは、短く、認めた。
§ § §
「あ、また来た」
キールたちの家の前で、ばったりキールと出会ったのだが、初声がこれである。
いつもの事だ。怒る気力もでないし、怒ったところで相手は更に傷つく言葉を投げつけるだけだ。
実際シンは傷ついた。迷惑そうに、顔をしかめて、「あ、また来た」。
これだけでも傷つく。そしてキールはそれをわかっていて、やっているのだ。
「…お前、ほんっとに、たち悪いな」
「え? お前が、の間違いだろ。シン。わかってないだろうから言ってやるけど、俺は、お前が、だいっきらい、なんだ」
ずき。
「………」
「いっちょ前に傷ついてるなよ。人の迷惑かえりみず人んちにずかずか踏み込んできてるいけずーずーしい奴が」
シンは小さく息を洩らした。
「…お前なあ。ほんっとに、僕の事嫌いなのな」
「そうだよ。だから、離れたところで暮らしててくれ。そうしたら俺も皇宮にまで行ってお前を傷つけるほど暇じゃないから」
シンはため息をついて、キールの隣をすりぬけ、短い階段をのぼって高床式の家の扉を開く。
食卓についていた二人が振り返った。
一人は今し方見たのと同じ顔で、一人はそれよりかなり年上の、顔である。
キールの双子の弟イールと、父のナギだった。
「あ、こんにちわ、シン」ナギ。
「あ、来たねーっ」にこにこ笑顔のイール。
シンも微笑む。
「こんにちわ。…何やってるんですか?」
食卓には一枚の紙がひろげられていて、二人はそれを覗き込んでいた。
「えーと、地図づくり。僕らの住むこの辺の地図を作れって長老から言われたんだ」
「へぇ…」
覗き込むと、確かに地図だ。しかし。
子供の書くものと大差ない。
目印になるもの(例、大木、大岩)と、森・草原の違いぐらいしか書いておらず、等高線などどこの話だ。
測量技術と道具のない人間に地図作れと言えば確かにこうなるだろうという物で、実際これぐらいで充分なのだろう。
その時シンの後ろから風が通って、キールが入ってきたのがわかった。
キールが言う。
「イール、貸して」
にこりんぱ。
一体どこの誰だという笑顔とともに弟から紙を奪って、キールは書き書き書き、と地図を書いた。
「はい、終わり。これで終わったよ」
それを受けて、ナギが二人の息子に笑いかける。
「ご苦労さま、イールキール」
「やったーっ。終わったーっ。キール今日はご馳走ね、ご馳走」
「はいはい。わかったよ」
声は呆れていたが、顔は笑っていて、弟の我がままが可愛くてならない様子だった。
キールのわからないのはココである。シンへの冷血人間ぶりがまるで真夏の大雪ほどに信憑性のない、イールやナギへの優しい優しい甘い態度。
もっとも、シンはそれを見ているのが嫌いではなかったが。
キールはそこでシンをじろりと睨み、
「お前のぶんはないからな。勝手に自分で作って食べろ」
「キール…」
たしなめるようにナギが言うが、キールは聞かない。
「ナギ」
にこり、と笑って、
「俺は、こいつが、大嫌いなんだ。こいつの為にご馳走つくってやる気には到底なれない」
シンの脳裏に何パターンもの反撃の文句が並び、シンは瞬時にその中から一つ選び出した。
ふう、と息を吐き出し、頭をふりふり、椅子に座る。
「お前のそういう態度見てると、あの噂も本当かもなぁ、ってしみじみ思うよ」
「あの噂って?」とイール。
「ナルシストかはたまたブラコンか」
「ナル…っ」
「…おまえ、よっぽど暇なんだな」
「お前、じゃない。僕が、言ったんじゃない。つまりそれは不特定多数の口にのぼるようになっているんだ。可愛がるのもいいけど、人の目を少しは気にしろよな。鈍感間抜けの馬鹿キール」
「…ああ、あれか…」
ナギはシンがほのめかした事にすぐ思い当ったようで、苦笑した。
「? 何のこと?」
ぽん。
シンは友人の肩に手を置いた。
「…イール。自覚がないみたいだから言っておくけど…普通の兄弟は傷の舐めあいなんてしないの」
「唾液は消毒になる」
キールが口をはさんだが、シンは威勢よく言い返した。
「なら、自分で舐めろ自分で! さもなきゃせめて人のいないところでやれよ。…空気が凍りついたって?」
「凍ったねぇ。確かに」
ナギが頷く。
「…そ、そうなの?」
と、当の本人はまったく、気づいてなかった。ンな可愛げのないキールの方は、当然反撃してきたが。
結局、その日は皮肉の応酬のあと、 夕食をご馳走になって帰った。
皇族の生活は慌ただしい。なぜあわただしいかというと、専任の教師に囲まれた「お勉強」の時間がたっぷりあるからだ。
政治・経済・社交・武術に詩歌音曲の類に至るまで、みっちり絞られる。
皇族ならば教養として、誰でも楽器の一つや二つ、プロ並みに演奏する腕を要求されるが、その中でも兄の竪琴は一線を抜いていた。
「昔は、これで暮らしていこうかと思ったこともある。今は―――駄目だな。練習は続けているが時々はどうしても時間の都合がつかないから、昔のようには指が動かない」
その日の夜、シンにねだられるままにつまびいて、橙様と呼ばれる皇族は言った。
「これでですか?」
兄はやんわりと微笑む。
「シン。もっと沢山本をお読み。いい音楽も沢山聞きなさい。そうして耳が肥えれば、お前はその内この兄の演奏では足りなくなり、もっと素晴らしい曲を聞きたくなるから。私の腕で満足しているようでは、駄目だ」
「…そう、でしょうか……」
シンは曖昧に頷いた。兄の音は暖かい木綿のように、聞く者の心を優しく包む。シンはその兄の竪琴が好きだったので、好きでなくなる日が来るとは考えたくなかった。
しばらく奏して、兄は手を止めた。
「シン?」
呼び掛けに応える声はなく、弟は寝入っていた。
稀にもない美貌の弟はよく、寝室に潜り込んでくる。そういう日は大抵、竪琴をねだり、そして確実に、聞きながら眠ってしまうのだ。
彼の口元に苦笑が浮かんだ。
いつものようにシンの姿勢を直し、(寝台で聞きながら眠ってしまったのだ)寝台を横切る足をなおして、彼はその隣に潜り込んだ。