得体の知れない少女とは思っていたが。
彼女が取得した特許はおよそ十二。しかもそれらはそれぞれ違った分野のもの。
17歳にして各業界に名が知れ渡り、その手の技術者で結崎ひよのの名を知らぬ者はほとんどいない。日本の十倍博士号をとるのが難しいアメリカで博士号を取得した、れっきとした天才少女だとは、思っても見なかった。
翌日の部室、まるでいつもと変わらぬ顔でいつもどおりに来た少女を、カノンはうがった瞳で見つめてしまった。
誘拐なんて大事件のわりに、昨日は軽く話を聞かれただけですぐに帰され、早朝目を通した新聞記事には何も知らせはない。
……ひよのが押さえたのだろう。
ひよのはカノンの目線に気づいてるだろうにしれっとして、
「あなたの私への借りは、これでもうなくなったものと見てくれていいですよ」
「……それはありがとう」
ひよのがあの一件で何を得たのか―――知りたいような、知りたくないような。
少なくとも、莫大な利益が出た事はまちがいない。
カノンが気づいたのと前後して、ひよのも気づいた。
ひよのは顔を上げる。別人のように、喜びに輝く表情。彼女が、演技でなくそんな顔をするのは、鳴海歩に対してだけだろう。
「鳴海さんが来ました」
「はいはい……お邪魔虫は退散するよ」
結崎ひよのは立ち去りかけたカノンの背に、声をかけた。
「7割です」
「…―――?」
身体をねじって振り返ると、ひよのの唇は不敵な微笑みを作っていた。
……人はいくつもの顔を持つ。カノンは、そのひよのと同じ顔を別の誰かの中に見たことがあった。
あれは確か、将校の位をもつ叩き上げの古参兵だった―――。
凄惨な空気と覚悟と自信。その三本柱がただよう顔。
修羅場をくぐってきた古豪の顔で微笑みながら、目はぜんぜん笑っていない。ひたと、カノンに向かっている。
「七割の確率で、騒乱がおきます。あなたの私への借りはもうありません。あなたは、自分の大切なひとを、しっかりと守ってください」
「ど……」
ういうことか。
聞こうとした声は、鳴海歩が扉を引き開けたことで中断された。
歩は室内にカノンとひよのだけなのをみて、要らぬ誤解をしたらしい。
「あ……悪い」
「ぜんぜん悪くないですよ! ささ、入ってください、鳴海さん。カノンさんはとっとと帰ってください」
正直者の少女にしっしと手で追い払われて、カノンは苦笑を禁じえない。
結崎ひよのは鳴海歩を愛している。それは分かりきった事で、いまさら、それを恨む気持ちはない。
……うらむ?
その瞬間胸を貫いた痛みに、カノンは胸元をおさえた。
表情を制御して、すぐさま平静を装い、部屋をでる。
ひよのの目も歩の目もなくなったところで、息を吐き出した。
―――あなたも、恋をすればわかりますよ。
そんなことを言った少女に恋をすることになるとは、皮肉なものだ。
カノンは息苦しい胸郭に空気を吸い込んで、自分に言い聞かせた。
認めよう、自分は彼女が好きだ。
彼女が鳴海歩を愛していても、カノンは、ひよのが好きだ。
カノンが自覚するはるか以前から、カノンは彼女を好きだったのだろう。今まで、気がつかなかっただけで。
目を閉じ、今やっと自覚した感情に身をゆだねると、感じたことのない温かさが胸にあふれて、幸福感に包まれる。
(僕は、彼女が、好きだ)
そう思うだけで湧き上がる幸福感は初めての経験だった。
だれかに愛されることで幸せになるのは判る。
でも、自分が誰かを愛することでも、幸福になれるものらしい……、人間とは。
結崎ひよのが鳴海歩を愛していることに思索をめぐらせると、ほんのすこし、胸が痛んだが大した痛みではない。
「……誰かを好きになれることは、誰も好きになれないよりずっと幸せなんだな……。たとえ見てくれなくても」
いまなら、ひよのの気持ちがわかる。
「誰かに好かれる」ことだけが幸福になれる方法じゃない。「好きになること」自体が、胸を熱いもので満たす。
……そんなことも知らなかった。
ふと気づくと、カノンは自分でも自覚しないほほえみを浮かべていた。
つるりと、そんな自分の顔を撫でて一つ頷く。不快でない、心地よいよどみにたゆたっている感触をおぼえながら歩き始めた。
◇
カノンは、監禁状態から脱して以後ずっと親友の家に転がり込んでいる。
アイズは超がつく高級マンションの一室を貸与ではなく買い上げ、そこをねぐらにしていた。
アイズはコンサートや取材やテレビ出演などで出かけていることも多いが、本日は家にいた。
満腹の肉食獣を思わせる風情で、ソファに横たわっている。
親友の銀色の髪は頭の下でもつれあい、さぞ櫛を通すのが大変そうな惨状と成り果てていた。
「お腹すいたろう? いまご飯作るから」
いつもどおりに振舞ったつもりだが、やはり外に出ていたらしい。
「……上機嫌だが、何かあったのか?」
「あったというか、なんといおうか……」
昨日の件について、カノンはアイズになにも話していない。
カノンは少し迷った後、包み隠さず話すことにした。
ひよのの正体(!)から始まって、その研究を狙う人間に誘拐されたこと、そこから脱出したこと、ひよのが警察関係を抑えたらしいこと、そして、カノンはそんな彼女を好きだということ。
聞き終わってからもアイズはしばらくソファに寝そべっていたが、やがて起き上がった。
「おめでとう」
「……うん。そうだね」
カノンが頷いた瞬間だった。
全ての照明が落ちた。
突然の暗闇に、カノンは即座に走った。アイズも同じ行動をとっている確信があった。
命を狙われ続けてきたブレードチルドレン。その彼らは停電に立ちすくむより、事態を確認するより先に、自己保全を考える。
最寄りの壁にはりつき、全身のアンテナで異常を探る。
もしこれがハンターの襲撃ならば、まずは壁に張り付き気配を消し、武器のあるところまで行くのが先決だ。
壁伝いに移動するさなか、ふと窓が目に入って事態を知る。
カノンは警戒を放棄して叫んだ。
「アイズ、街が!」
暗闇の理由がわかった。
高級マンションの最上階からは、東京の夜景が見わたせる。
不夜城、東京。そうでなくとも民家に明かりがともる。
なのにそこには一つとして明かりがともっていなかった。
墨で塗りつぶされたように、一つとして明かりのない黒々とした塊がわだかまっていた。
ふと思いだしたのは、さきほどのひよのの言葉。
―――七割の確率で騒乱が起きます。
さっと、血が下がる感触がした。
「街全体が停電しているな……」
横をむくと、アイズが立っていた。
「恐らく電力の供給不足だろう」
―――先日からしきりに言われていた問題。
東京電力の不祥事による発電所停止から、夏場の電力不足によるシステムダウンが起こるのではないかと予想され、関係者は必死に節電を説いていた。
しかし現代人は身勝手だ。
「起こるかもしれない停電」のため、流れる汗を止められる魔法のスイッチを放棄したりはしない。「自分ひとりぐらい、やめたところで変わらない」と押し通す。
まして今は九月。節電を説く声ももう遠い。
―――騒乱が起きます。
カノンははっとする。……監視カメラもうごかない、照明もない、現代のほとんどの防犯設備は、電力がなければ無力だ。
この夜があけるまであとどれくらいかかる?
現在時計は七時をさしている。優に八時間はかかるだろう。
その間、街が略奪と暴行が謳歌することになっても、不思議じゃない。
日本人のモラルというものを、カノンはそれほど信用するにたる素晴らしいものだとは考えていなかった。
そしてふと思いついた考えにぞっとする。
―――結崎ひよのはどこにいる?
家に帰っているならいい。月臣学園にいるならまだいい。帰宅途中なら最悪だ。
いくら度胸があって冷静でも彼女は女の子だ。持っている武器はいくつある?
……そして、今街は、どうなってる?
―――あなたは、自分の大切なひとを、しっかりと守ってください。
多分彼女はそれをアイズの意味で言ったのだろうと思うけど。
カノンは―――。
カノンは一瞬、瞑目すると顔を上げた。
「アイズ、すまない」
親友は、それだけですべてを悟ったようだった。
「……結崎ヒヨノのところにいくのか?」
「ああ。……僕のしてる事はとんでもない杞憂で、彼女は今頃自宅で無事で、いらないおせっかいかもしれない、いやその確率のほうが高いだろう。でも、彼女が危険にあっている可能性が1%でもあるのなら、何かしたいんだ」
「……ヒヨノがどこにいるのか知っているのか?」
「わからない。でもとりあえず月臣学園に行ってみる。道々街の様子も見てみたい」
「俺も行こう」
断る理由は何もなかった。
武器庫から、武器を持ち出し身に着ける。拳銃に手榴弾二つ、替えの弾倉。そしてナイフ。
服の下に隠せるかぎりの武器を身に着けると、カノンは息を吸い込んだ。
自分を見ていない少女の、あるかもわからない危機を助けに行くというのに、無為もむなしさも感じない。
胸のうちにあるのは決意と充実感だけだ。
……「理由」とは、結局、他人にあるのではない。自分の内面にあるのだろう。
カノンはひよのが好きで、彼女に危険な目にあってほしくない。ひよのがどう思おうが、なにを考えようが、誰を愛そうが、それは「やめる理由」にはならない。カノンがひよのを好きで、助けたいと思うこと。それがすべてだった。
「……面倒をかけるね、アイズ」
有名人のラザフォードとしては、こんな状況で最善は自宅で夜があけるのを待つことだろうに。
「俺もヒヨノには借りがある」
素っ気無い口調。でも、カノンは知っている。それがアイズの照れ隠しだということを。
カノンは微笑む。誰も見ていないことが悔やまれる、彼の生涯で最もいい顔だった。
「大人しく助けを待つようなお姫様でもないし、かよわくもないけど―――結崎さんのところにいこうか」
危険な状況にあるかも、どこにいるかもわからない少女を助けにいく。
このときカノンがこの選択をしていなければ、事態はおそろしく変わったものになっただろう。
カノンのこの選択が、ドミノを倒す一本の指だったのだ。
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