偽りの終焉 10
突然の凶報を、ナギ家の人間は血の気の引いた顔で受け取った。
「……キールは、何をした? シミナーであるあの子が殺されなければ罪のつぐないができないほどの、何を!」
その悲鳴そのものの声を、感情を押し殺した無表情で受けたのは、シヴァースである。
キールの訃報を家族に伝える役を彼は自らかってでた。
これまで、大切に育んできたいくつもの思い出と、時間から。
キールの死体も、ない。精霊を裏切った贖(あがな)いに、罰を受けさせるために、リルレーンが連れ去った。この状況で、いままで昨日まで一緒の空気を吸っていた親しい人間の死を信じて受け止めろと言うほうが無理だ。
「―――緑の座を、殺害しようとしたので、私が処断しました」
ナギが息をのむ。
そしてその冷静な声はイールを激昂させた。
「処断!? シンなら助けられただろっ! なんで助けてくれなかったんだ!」
「イール。やめなさい。…大逆罪は肉親まで累が及ぶ大罪。シンは、私たちを助けてくれたんだ。そしてそれが精一杯だったんだよ」
「……それでも殺したことには変わりありません。私の顔を見るのは、苦痛なことと思います。…二度と、来ません。
―――さようなら」
一礼して、シヴァースは家を出た。
彼は歩きながら、自分の中で、一つの時代が終わったことを感じていた。
怒りも喜びも憎悪も、……悲しみも。彼の少年期を無数の色で彩ったもの、すべてがこの家の住民とともにあり……、そして、失われた。永遠に。
涼風が頬に吹きつける。
階段を下りて、すぐのところにある木に、手をついた。シヴァースはほとんど、泣いたことがない。それは皇族としてありうべからざる行動だったからだ。
けれども―――。瞳の奥からこみあげてきた熱いものに、シンは顔を手で覆った。
風に、嗚咽の響きがまじる。
人が死ぬことには慣れていた。
胸を突き上げる悲しみとやり場のない憎悪を、なだめる術も知っていた。
けれど、自分にとって大事な人間が死に、心の一部を道連れにちぎられ連れ去られるこの苦痛だけは、慣れることができない。
側にいた人間、いてくれた人間、表も裏も知っていて、揶揄するような口調で話し掛けてくる相手。
繰り返された舌戦。格闘。見下ろしてせせら笑う相手に腸からこねくりかえるほどの猛烈な怒りがこみあげた。それも今は懐かしい。手加減ぬきでやりあえる、同世代の、たった一人の友だち。
キールの死とともに、少年時代と、彼は決別したのだ。その痛みが彼の胸をうずかせた。
誰かを手にかけるたび、肩にかかる重みがふえた。
人一人の人生。家族。喜怒哀楽。
彼が自らの手で断ち切ったものの重みは、彼に自覚をうながす。
生きなければならない、と―――。
断ち切った命の重みのぶん、彼には誰より真摯に人生を生きる義務があった。
背に、からみつく重さを感じて、シヴァースは刃物を取り出すと、その重みを一息で切った。
キールが好きだった髪だ。
切った束を握り締めていた指を一本一本離していくと、風が銀の糸を攫っていった。
もう、振り返らない。
軽くなった頭と、赤く染まった目で、シンははっきりと前をみつめ、歩きだした。
§ § §
……キールが目覚めたとき、辺りには光がなかった。夜なのではない。
すべての光を拒絶した空間。―――死。
といって、辺りが闇につつまれているわけでもない。さまざまな生き物の死が、その空間には先史時代の巨大な生き物の午睡のように、横たわっていた。
色でこの場所を形容するならば、灰色の色彩がもっとも相応しいだろう。
息が痛くなるほどの静けさ。
永遠につづく一瞬がここには凍結されていた。なにもかも変わらない。静寂は静寂のまま永遠の息をたもち、すべてが千年前と同じだった。
普遍であり、不変であること。
すべてが前と等しく同じであるということ。「変化」しないということ。
それは劣化しないということであり、成長がないということでもある。どちらを重視するかは人によるにせよ、それが死というものの本質だった。
なにもかも、変わらない。
「……生きてる」
キールは自分の掌を顔の前に上げて、相変わらずの平坦な口調で呟く。
そこにかかる声があった。
『目がさめましたか?』
「リルレーン……」
キールは上半身を起こし、体のあちこちを見る。……キール・スティンだ。自分の体だ。誰かの体に移されてはいないし、腹の傷も癒えている。
「あなたが―――俺を助けたんだね」
それは疑問ですらない、確認だった。
彼女は静かに肯定する。
『私とあなたは、友人でした。……違いますか?』
「違わないよ」
『あなたは、私に、私が欲しかったものを与えてくれた……。孤独を駆逐する心許せる相手を、です。ですが、私は、あなたに何かをしたことがあったでしょうか? 貴方が今回行動を起こすまで、私は貴方が何を望んでいるのかすら、考えたことがなかった…』
裏切られた―――。
そう思っていた。だが、考えてみれば、彼女はキールの歓心を買おうと何かしたことがあっただろうか? キールのために、何かをしたことが、あっただろうか?
ただ相手に求めるだけ求め、強いるだけ強いた。
しかも脅迫という手段を用い、拒絶する自由すら奪った。
一方的な隷属は、彼女の方からは友情だったが、キールの方からしてみれば笑止だっただろう。
その事実を見ずに、ただ相手の裏切りをなじれるほどには、彼女は自分の感情に忠実に、そして盲目にはなれなかった。
「……俺は、死んだの?」
『生と死の境目は、たとえ私といえども覆すことはできぬこの世の理そのもの。死の事実を訂正することができるのは、神樹の本の内容を知る貴方だけです』
だからこそ、精霊はかつてシヴァースを殺そうとした。キールの中で、無視しえぬほどにその存在が大きくなっていたから。
シヴァースに乞われたとき、秘密の漏洩が起こるかもしれないという可能性に。
「じゃあ、死ぬ前にあなたが、俺を癒したのか……」
『仮死状態にしました。青の座と、緑の座は、貴方が死んだと思ったでしょう。また、精霊の合議により、貴方は調停者の資格を剥奪されました』
「……つまり俺は、もう調停者でもなければ、シミナーでもない……?」
『そうです』
キールは手を額にあて、うめく様に言う。
「……おれは。自由だ……!」
リルレーンははっとしてキールを見る。
……まさか、すべて、計算の上だったと?
彼女がキールを助けるのも、裏切りの代価として精霊が調停者の資格を剥奪するのも、いや――シヴァースを誘拐し、その身柄を彼女に預けたところから、いや、更にそのずっと前、彼女に名を与え、友人になったところからすべて?
キールは顔を斜めに傾けて、彼女を見てくすりと笑う。
「……どれに転んでも、別によかった。あなたが俺を見殺しにする確率は高くはないと思ったけれど、そうなっても別に、どうでもよかった。……俺は、賭けたんだ。手がかりは前々からやっておいたシンが俺のたくらみに気づくか。気づいたとして貴方を説得し、同行して緑の座のところまで来れるか。そして最大の難関、貴方が、俺を、助けてくれるのか」
『……キール……』
人間の専売特許。心理戦と嘘だらけの騙しあい。
キールは賭けてみたのだ。
諦めるな、慣れるな―――、と言葉ではなく行動で繰り返し繰り返し示すシンの姿に、ただ一度だけ、賭けてみたのだ。
耐え忍び、感覚を鈍磨させ、苦痛を日常にするよりも、面と向かって嫌だといい、そこから抜け出すために行動してみようと。
……そしていま、キールはここにいる。
「死なずにすんでも、それでも普通なら幽閉が妥当なところだ。俺は精霊を裏切ったんだから。あなたは、本当に俺を助けてくれたんだな。でも……」
キールは違和感なく自由に動く腕を上げ、顔を覆った。
「……俺は、何をすればいいんだろう……」
先ほどのような歓喜は感じられない、疲労の極にある者の呟きだった。
「……リルレーン。俺はね、自由を背負えるほど、強くない。これから何をしようかって思っても、何も浮かばないんだ。したくない事はいろいろあるけど、したい事なんて何も見つからない。だから俺は、家族っていう目的を作った。
……リルレーン。あなたは俺を助けてくれた。だから、貴方を今度は目的にしようか?」
『……いくらでも優しく大切にできるのは、本当は何とも思っていないから。それを知っていて、貴方に大切にされたいと、私が思うとでも?』
リルレーンはキールに寄り添った。
物質の殻のない彼女の体は触れ合うことができないが、目には見える。
『……自暴自棄に、ならないでください。あなたは、幸せになりたいと思ったことが、あるのですか? 自分にも幸せになる権利があるという事を、わかっているのですか?
貴方は一度死んだのです。もう貴方を縛るしがらみは何もない。貴方にとって、自由は重く、扱いきれない代物かもしれない。ですがこれは私のわがままです。あなたは、とびきり身勝手になって、人を傷つけても振り返らずに、自分の幸せのことだけを考えてください。……幸せになってください』
「……――幸せ?」
その言葉を、キールはまるで聞き慣れない単語のように口にした。
その表情に、リルレーンは胸がいたくなった。
キールは、他人の幸せを考えたことがあっても、自分が受け取る権利のあるものとしての、自分のものとしての幸福を、考えた事がないのだ……、おそらくは。
家族のため、他人のための幸福には、心を砕いても。
キールは家族のためを最優先に、常に行動した。大切にしていた。たとえ、それが、愛情からでなくとも、どうしてそれがすべて偽りになるだろう。
悪人を模倣しているだけであっても、悪人の真似をして人を殺せばそれは悪人だ。
それとおなじで、そこのどこに、偽りと真実の境目があるだろう。
真実と偽りの境界線は、常にあやふやだ。
『ええ。無理に、私や誰かを大切にしなくとも、貴方にはもう大切なひとがいるでしょう? どうか、その人と一緒に、幸せになってください。……お願いですから』
……シヴァース・イシス・サラディー。
キールは顔を背けてうつむいた。
「……気持ちが悪い」
『は?』
「……あいつは俺が死んだと思ってるよな。なのに生きていたってわかったら……確実に半殺しにされる。賭けてもいい」
そう逡巡するキールの表情は、生き返ってから初めての「人間味」漂わせるもので、リルレーンはつい笑ってしまった。
『……私には、最後まで一度も貴方にそんな顔をさせることはできなかった。彼は偉大ですね』
「最後? これからもあるだろう?」
『ええ、そうですね。……さあ、お行きなさい』
キールは最後で振り返った。
「……ありがとう、リルレーン」
『さようなら。キール・スティン』
―――それが、彼らの永訣となった。
◇
キールが立ち去ったあと、リルレーンは彼と過ごした時間の一つ一つを吟味し、撫で、大切に磨いて心の戸棚にしまった。
精霊の合議で処刑と決まったキールを助けるために、彼女はかなりの代償を支払わなければならなかった。
……それでも、助けたかったのだ。
キールがシヴァースについて「死ぬところだけは見たくない」と語った理由が、よくわかる。
この世界のどこかで、愛する者が生きている。それだけでいい。それを想うだけで、心が暖かいもので満たされた。
……キールの自由と引き換えに、彼女はここで死ぬ。
高次の精霊である彼女には、人間の言うところの死は存在しない。死は、彼女の再構成を意味するに過ぎない。
ただし、積み重ねてきた記憶、築き上げてきた人格の全てが消去されるのは、人間の死と、何の違いもなかった。
ここにいる彼女は、もう二度と現れない。同じ能力、同じ姿の彼女は生まれても、それはもう彼女ではない。
キールがリルレーンという名を彼女に付けた。だから彼女はリルレーンだ。死の女王は再び生まれても、リルレーンの意識は、今ここで消える。
キール。
一緒にいることで、あなたが幸せになれる相手は私ではなかった。
それでもあなたは一緒にいることで私を幸せにしてくれた。
あなたがこの地上に生きている。それだけで私は満たされる。
だから、後悔は、しない。
―――それを最後に彼女の意識は脆く、風に崩れさった。
§ § §
キールは雷に打たれたように立ち止まった。……リルレーンが、死んだ。
下をむき、吐き捨てる。
「……バカだよ、貴方。おれが、貴方を利用していた事ぐらい、とっくに気づいていただろうに…」
けれども、そう言うキールの表情に嘲笑はなく、不思議と安らかだった。
一体、誰が、彼女の選択を嗤えるだろう。
彼女はキールに利用されていると、気づいてなかったのではない。
利用されていると気づいていて、それでもなお利用されてやろうと心に決めたのならば、それは既に一つの選択だった。
利用されるのはもちろん嫌だけれども、それでもその事が相手にとって必要ならば、構わない。
リルレーンにとっては、キールがそういう存在だった。
そしてキールにとっては……。
キールは顔を伏せた。
死に満ちた場所で、一目見たとき、キールは彼女の孤独に気がついた。どこをどうすれば、彼女の心の中に入れるかも全てわかった。人の心は、キールたちにとってはあらかじめ組み上げ方を知っているパズルのようなものだ。それだけで終われば、幸いだっただろう。けれども運命はそれだけではない皮肉を用意していた。
キールを脅迫し、利用しようとする精霊たちを見たとき、キールは彼女を利用することに決めたのだ。
心に隙があり篭絡しやすく、強大な力を持つ精霊。……最適だった。そしてキールは自分に協力を無理強いした相手に対し、良心のとがめを持てるような人間ではなかったのだ。
その彼女が、利用されていると知りながら遺した言葉。
―――とびきり身勝手になって、人を傷つけても振り返らずに、自分の幸せのことだけを考えてください。
しあわせになってほしい。
リルレーンの、最期の望み。利用されている事に気づきながら、自分の身を滅ぼしてまで、彼女はキールを救ってくれた。その彼女の最期の願いは、「キールが幸せになること」――……。
キールは目を一瞬、伏せ、やがて顔を上げた時には迷いはすでになかった。
自分を見て、シンは怒るだろう。けれど、キールは自信があった。
それでも、シンはキールの生存を、喜ぶだろう。
死者は何も語らず生者のみがこの世を作る。
終幕です。
長い間―――本当に長いあいだ、お付き合いいただき、ありがとうございました。
リルレーンの特殊能力についての伏線は、「それはとても公平な唯一のかみ。」をご参照ください。死の精霊ですが、彼女には死を覆す力はありません。ただし、瀕死の人間を助ける力はあるのです。
後書き
2002 7/30 up