偽りの終焉 9
―――あなたは、私を裏切ったのですか?
涼やかな目で、キールは彼女を見返した。
「……リルレーン、あなたは友人だよ。でも、精霊は嫌いだ。人を脅迫しておいて、好意を求めないで。俺が緑の座を殺して、精霊が大打撃を負っても、貴方には何の傷もないだろう? ……死ぬ前の最期のお願い。介入は、しないで」
リルレーン。
その名前を彼女に与えたのは、キールという名の少年だった。
名前が記憶を想起させる。これまで過ごしてきた年月に、彼女の動きがとまった。
特に何をするというわけでもなかった。
彼ら二人のように、つかみあいの喧嘩をした記憶も協力して何かをなした記憶もない。
自分たちは、ただ―――……、一緒にいただけだ。
風の凪いだ空間で、ひそやかに息をする。
時々、とつとつと、とりとめのない話を交わすこともあったけれど、ほとんどの時は黙って、話もせずに一緒にいた。
人は、それだけの交流かというかもしれない。けれども彼女は、彼といることで確かに癒された。
彼女はちらりとキールと、美貌の少年を見た。
精霊である彼女から見ても、彼は並外れて美しかった。
今はその白皙の面を蒼白にし、強ばった表情をしていたが。
誇り高く、それでいて大切なもののために己の身を汚すことをためらわず、未来を見据えてどんな困難も自分の手で切り抜けようとする気性。どこからどこまでも、キール好みだ。
―――まあ面食いだったかはさておくとしても。
キールが面食いであったとは聞いたこともないが、彼がこの子供に気を引かれた理由の一つであることは、間違いないだろう。
……死ぬ前の最期のお願い。
リルレーンは、緑の座に視線を向けた。
彼女とキールが戦えば、確実に彼女が勝つ。
キールと緑の座が戦えば、勝負は不意打ちした方に有利でどちらとも言いがたい。緑の座の方が遥かに優勢だが、不意打ちが決まればそこまでだ。
けれども。
彼女は緑の座には決して勝てないだろう。
力の相性が、精霊と緑の座の間では最悪にちかい。だからこそ、緑の座なのだ。
そして、緑の座はキールをうとんじている。
その理由に気づいていないのは、青の座ぐらいのものだ。
殺す理由も力も充分だ。キールは生きて、ここからは出られまい。
そして、彼女といえども死者を復活させることはできない。
死の精霊である彼女からしても、死は、決して覆せぬこの世の理そのものだった。
だから、死ぬ前の最期の願いというのは、けっして、誇張ではないのだ。
彼女の脳裏を一瞬、キールと過ごした時間がよぎった。
リルレーン。その名を与えたのは、彼。
彼女はそっと、顔をふせた。
長い逡巡は外からみれば、ほんの五六秒だ。
傍から見れば、彼女がキールの願いにためらった末、言葉を返したように見えただろう。
『……わかりました。手出しはさせません。あなたと過ごした時間に免じての、ただ一度の寛恕です』
キールの言葉の意味を完全にすくいとって、彼女は言った。
扉が不可視の力によって中から封じられるのと、人々が駆けつけたのとは、ほんのわずかな差しかなかった。
「緑様!? どうかここをお開けください、緑様!!」
扉が叩かれる。
「おい! 誰か道具をもってこい! 中でなにか不測の事態が起こってる!」
「で、ですが……」
皇族の私室に許可なく踏み入れた者は極刑もやむなし。
「ばか! そんなことを言っている場合か! 緑様の尊い御身に何かが起きていたらどうする!?」
緑の座とリルレーン。
二人の不干渉をとりつけると、周囲の雑音をすべて背景にして、キールは青の座の手から剣を奪った。
立ち上がってまっすぐシヴァースを見下ろす。
「…俺は、お前を殺す。そうすれば緑の座は殺意が抑えきれずに俺を殺してくれるだろう。死にたくなければ、俺を殺せ」
「……そんなこと!」
「お前がここで死ねばこれまでお前が殺めた兄や人間たちは無駄死だ。お前は…死ねないはずだ。武器を構えろ!」
戦いに慣れた体は、殺気に反射的に懐剣を取り出したが、まだ事態を承認できない。
「…私がお前に勝てるはずがないだろう!」
キールはしずかに言う。
「俺は手負いだ。……足音と話し声がする。早くしろ」
冷静とか冷淡を突き抜けた、常温の、動揺のない眼だった。シヴァースはその眼をよく知っている。―――キールが人を殺すときの眼だ。
キールの本気を悟って、波が引くように動揺が心から去り、静まりかえった心が残った。―――死んではならない理由が、彼にはあった。
「……私が兄を殺して嘆いたとき、慰めてくれたのはお前だったな…」
キールは、思ったより自分を気に掛けているのだということを、悟った一件だった。
シヴァースはすっと懐剣を構える。兵器術では間合いの長いほうが圧倒的に有利だ。槍に敵う剣はなしとされる由縁である。
しかし、最初の一撃を外し、懐に入れば、その長さが不利に働く。
手持ちの武器は三本。
キールを睨みすえる眼光にはもはや迷いもなく、眩しいほどの意志の毅さが見えた。
対峙する二人のあいだに、銀色の光が走る。それを引き金に、シヴァースは飛び出す。
空間に、疑問の粒子を多分に含むシヴァースの声が響いた。
「―――何故?」
暖かい、塩の香。鉄分を含んだ赤い色。
キールは腹部と肩に傷を負い倒れている。
「なぜ、避けなかった!?」
叩き落とされるのを予期しての一投をキールは避けもしなかった。そして、懐に飛び込んできたシヴァースの一撃をまったく無防備に受けたのだ。
キールは薄目を開ける。
「……おれに、お前を、殺せるはずがないだろ……」
リルレーンがシンの横に立った。
『最初から、勝負は決まっていたのです。キールは、私に、貴方を決して誰にも傷つけさせるな、と誓わせたのですから』
最初の落盤のときも、彼女は彼を護っていた。
そして、今も。
何重もの護りと、絶対的な保護。
―――口には出されなかった、思い。
シヴァースは唇を噛み切れるほどに強く噛んで、キールの側に、膝をついた。血で汚れるのも構わず、抱き起こす。
「ばかだ、お前……。私なんて、取り柄は顔の皮一枚なのに……」
キールは唇を歪めた。
「……慣れない、ところ、が。人はどんな状況にも、慣れるのに……お前は絶対慣れようとはしなかった……。あきらめ、なかった。だから、俺も、慣れるの、やめた」
致命傷だった。腹部の傷は内臓を傷つけている。癒しの術も皇宮では使えない。皇宮外に運びだす間に、息絶えるだろう。
悲しいほどに切ないのは、本人も、シヴァースも、それを分かっているという事だった。
「俺は、生まれたときから、シミナーだった。いろいろなことを諦めて……きた。誰かを好きになること、未来を夢想すること、運命から逃れたいと思うこと……。
だから、まぶしかった……」
「―――私だって逃げたかった! 楽な方へ歩く誘惑にかられた事なんて、数え切れないほどある!」
「……でも、逃げなかった」
シヴァースはきつく、眼を閉じる。
喉元までこみ上げてきた熱い塊が、目から零れ落ちそうだった。
キールの手が伸びて、額にかかるシンの長い前髪を引いた。
「シン、俺は、お前が、好きだったよ。この世でたった一人。自分の弱さを痛いほどにかみ締めて、でも一生懸命に、頑張って、あがいているお前が…。だから、俺も、諦めるのやめた」
―――人は、慣れる生き物だ。
その言葉を、キールは、どんな思いで発していたのだろう。
言うたびに、自分自身に言い聞かせていたのか。諦めることが、正しいのだ、と。
諦めたくないだなんて思うな、と。
奥底からこみ上げる声にそう繰り返し言う事で蓋をして、それでも声は日増しに大きくなって、ついに無視することもできなくなったとき、キールは自らを滅ぼした。
「……お前のせいだなんて、思うなよ。俺は、生まれて、はじめて、自分の意思で、行動を起こして死ねるんだ。……お前にいずれ死なれるより、俺が死んだほうがいい」
一生、言うつもりはなかった言葉を、シヴァースは口にした。
「…私も、お前を愛していた」
キールの唇が、ゆがむ。微笑みを作ろうとしたのだろう。しかしそれは果たせずに、瞼が下りた。
いまだ体温を宿す体をきつく抱きしめ、涙すらでず、シヴァースは慟哭した。
2002 7/29 up