偽りの終焉 4
彼が目覚めたのは、朝露のひとしずくが頬の上で弾ける感触でだった。
はっと目を開け、体を起こす。
樹木に囲まれていた。
樹木はあまり密集すると育たない。だから自然淘汰によって、ある程度の空間ができる。その空間に、彼は横たえられていた。
シンは途切れる寸前の記憶を思い出し、事情を把握する。
天を振り仰ぎ、太陽の位置をつかもうとして、失敗した。木々の天蓋で上は埋まっていた。樹冠である。
木は、太陽に直接あたる部分に葉を密集させる。だから森の内部は逆に葉が少なく、太陽が当たる天頂の部分に葉をつけるのだ。
人の踏み入らぬ、深い森のただなかに彼はいた。
濃厚な森の芳香が呼吸と共に体をめぐり、身じろぎすると、永年の月日によって降り積もった落ち葉が作る大地が柔らかく足を受け止める。この土を切り取ったなら、その断面の最も上部の地層は、人の身の丈の半分ほどの長さにわたってそうやって降り積もる落ち葉によってできているだろう。
「……だれか! いるんだろう!?」
前後の事情を勘案するに、ここは精霊の領域としか思えない。そして自分に見張りがいないというのは、人間の常識からすると考えにくい。
ただ問題は、精霊を見る力もない彼には、見張りがいても判らない、ということだった。
呼び掛けた声には返事がなく、シンは頭を切り替えて、最寄りの木を眺めた。
「……影!」
返ってくる返事はない。予想はしていた。
なんせ相手がたにキールがいるのだ。
キールは影嫌いで、そして影はシミナーに弱い。最悪の場合は全員殺されているだろう。最善の場合でも、幽閉されているか。
シンは術を編もうとし、再び失敗に突き当たる。
「……ま、転移で逃げられる場所に監禁する馬鹿はいないよな……」
呟いて、木に目をあてる。
「……登れないこともないか」
森のなかで方向もわからずさすらうのは、自殺するには最適だ。シンは草の民との付き合いからそれを学んでいた。
方角を知らなければならない。
そう思い、幹に足をかけ、登ろうとしたとき、変化が訪れた。
『何をしているのですか?』
シンは顔をあげ、右隣に突然誰かが――精霊が現われたのを見る。
人の形。人間語を操ることもできる相手だ。
「―――相当高位の精霊とお見受けします。
よろしければ名前をいただきたい。私の名は、シヴァース・イシス・サラディー」
それが彼の本名だった。
イシスは「第一位の」という意味だ。青の座についてくる名である。そしてもちろん、サラディーは家名。
シヴァースのみが個人名で、その愛称が、シンだ。
『私はあなたの名になど興味はありません。そして私の名をあなたに呼ばれる事には、嫌悪すら抱きます』
だから教えない、ということか。
はっきりものを言うが、シヴァースはそれが嫌いではない。
「ファルフィア」
シヴァースは真顔で彼女にそう呼びかけた。
人外の高貴なるお方、という意味の言葉だ。
「なぜ、今このときに人と精霊の協定を破棄する行動に出られたのですか?」
美しいが人ではない存在は、しばらくの間沈黙していた。
その間に、シヴァースはその容姿をじっくりと観察する。
人間形をこうまでとれる精霊を、シヴァースが見たのはこれで三度目になる。
一度は記憶喪失中に、光の精霊。一度は子供の姿の精霊に。そして三度目が、今回だった。
色は強いて言えば薄茶色の透明色か。髪が長く、顔立ちは整っている。人間の基準からいけば美しいといえるだろう。むろん、精霊の基準でどうなのかは知る由もないが。
特筆すべきは影が無いということだ。衣服はいかにも影ができそうな、布地を体に巻きつける服装だというのに、影が、ない。
小指の爪の形まで見て取れるのに、立体感や現実感が欠如しているのは、彼女に影がないためだ。服のしわ、顔の凹凸、体の形。その全てに影は落ちるはずなのに。
彼女は言った。
『契約というものは、双方に利益があってこそ継続されるものです』
シヴァースは黙って頷いた。
それは今更なにを付け加える気も起こらないほど明瞭な、ひとつの事実だった。
『五年に一度の契約は、契約を更新しないよりも更新した方が益になると双方が思っていたからこそ、更新されてきました』
「そのことに異議を申しあげる気は毛頭ありません」
『では、お分かりでしょう』
リルレーンは、シヴァースの方に顔を向けた。
「……こたびの契約が更新されなかったのは、精霊側にとっての利益がなくなったから……?」
『そのとおりです』
精霊が嘘をつけないというのはこう言う時にありがたい。
キールあたりと話をしていると、気をつけていても話が変な方向―――キールが望む方向へ歪んでいく上に、言葉の真偽にまったく信用がおけない。
「では、これまでの契約で、精霊側の利益というのは何だったのですか?」
『ああなるほど……。協定の正確な内容を知るほど、貴方は位が高くないのですね』
意図してかそれともせずにか、言葉の中に毒が含まれていたが、シヴァースは眉一つ変えずに頷いた。
「そのとおりです」
『人と精霊との間の協定というものは、決して永遠不変のものではありません。何度も破られてきたものです。多くは、緑の座の利益のため、ですが』
「……我が一族が支配権を確立する過渡期において、ですね。精霊との協定を結べるのも、対抗できるのも緑の座のみ。精霊という外圧があったとき、それへの対抗手段を持つ唯一の人物に内部で信望と権力が集まるのは必至……。いえ、恐らく、精霊の襲来自体が、緑の座の依頼だったのでしょう。違いますか?」
『違いません。人と精霊は会話をすることができる生き物です。ならば、お互いの利益のため、時として手を結ぶこともあるでしょう。その当時の調停者をやった精霊などは、その辺の事情もよく知っているでしょうが。そして、我々は緑の座が人間の内部で権力を確立するのと引き替えに、支配圏を拡大していったのです』
―――いったいこの精霊は何年生きているのだろう?
シヴァースは腕組みをし、怜悧な眼差しを向けながらそう思う。
シヴァースは皇家の権力が磐石でなかった時代など知らない。はるか昔から、皇家は神に選ばれ力を授けられた一族とされてきた。だからずっと昔から、人間のなかでの「第一人者」であるとばかり思っていた。
緑の座が支配者ではなく、皇帝でなく、統べる者ではない世界―――。
それは、未知の世界だった。
シヴァースだけでなく、この星の人間のほとんどはそう思っているだろう。
けれど考えてみれば、人間は神から選ばれたから、なんていう訳のわからない理由で自分の欲を諦めるほど素直じゃない。緑の座の伝説は、王権神授説の典型だ。
あったのだ、長い時間が。
皇家は無条件で偉く、不可侵であると人々の意識に生まれたときから刷り込まれるほどの時間が。
そしてそれ以前には、その「権威」を確立するための闘争が、あったに違いない。
そしてそのとき、その時代の緑の座は巧みに、精霊を利用していった。
「―――その代わりに、精霊の領土を広げて」
つぶやきは風に解けて消える。
けれど、それは、最低でも三百年は前だ。
シヴァースはそんな事実を知らない。歴史書にもそのような記述はない。
ともすれば歴史の改竄(かいざん)もしくは隠蔽が行われたのだろう。
嘘をかかず、ただし、事実ならば全て書くわけではない。そのような方法で取捨選択していったのだと想像することは容易い。
ただし、それは、最低でも一代は経ている。
なぜならば、シヴァースの周囲の人々は皇家の絶対をちらとも疑おうとはしていなかったからだ。
いや、疑う、という行動自体が欠如している。
皇家が力なかった時代を知っている者は、決してそんな行動はとれない。
人が一人死ぬまで、天与の寿命で300年だ。
力なかった時代の皇家を知る者が誰一人いなくなってから相当な時間を経なければ、現在のように水が大地にしみこむように自然に、皇家の優越を認める空気は生まれまい。
―――この精霊は、一体、どれほどの時間をその目で見、通り過ぎてきたのだろう?
『初期の協定の破棄の主な理由はそんなところです。そしてそれからも、たびたび契約は更新拒否されてきました』
「……そもそも、契約の利益とは何なのです? 人間側の利益はわかります。精霊側の干渉をなくすこと。では、精霊側の利益は?」
精霊は、人間風にいうのなら、笑ったようだった。ただし、嘲りの。
精霊は言う。
『平衡です』
シヴァースは聞き返す。
「……平衡?」
『精霊は、人間のように、領土に基づく所有欲はありません。ですが、あなたがた人間に対して、必要以上の土地は与えたくありません。火遊びが大好きな子供に、みすみす火を与えるような真似は、したくないのです。精霊が協定によって人間に求めるものは、現状の維持。すなわち、平衡です』
「―――なるほど。人間は住む場所と食べるものがなければ生きていけません。そして双方ともに土地が必要です。その基本となる土地が限られていれば、人間は育児制限をせずにはいられませんね。つまり、人口の増加の抑制」
彼女はやや眉をあげた。まるで、余分な言葉を必要とせず、一を言うだけで十を悟るシヴァースの反応のよさに感心した様に。
『精霊は、人を滅ぼそうとはしていません。土地にも執着はありません。ただ、平衡を保ちたいだけです』
もし緑の座が調停者を傷つけたなら。
―――人間側の領土は十分の一ぐらいにまで減って、人口は百分の一ぐらいにまで激減していただろうな。
キールの言葉が脳裏に蘇った。
確かに、滅ぼす、とは言っていなかった。
『最初に言ったとおりに、協定はお互いに益があると思ってこそつづくもの。人間という同じ間違いを延々と繰り返す愚かな存在には、繰り返し教えなければなりません。精霊の力がいかほどのものか。そして、協定を続けたほうが、やめるより利益となるということを、何度も何度も、繰り返し』
話が見えてきた。
つまり―――五年ごとの協定は、決して強固なものではないのだ。
人と精霊との間には明確な紐帯のあるわけでもないし、協定とて永続的なものではない。
それぞれの時代のそれぞれの利益に合わせて、様々な理由でたびたび破られてきたものなのだ。
そしてその時は恐怖に怯え、すがっても、時間が経てば人は忘れる。
百を三回繰り返すだけの月日を上に重ね、人が死に新たに子がうまれ、それを繰り返しても忘れない思いなどない。
人は、忘れたいものから忘れていく。
人は容易く精霊の恐怖を忘れ、精霊の存在すら過去のもの、架空のものとしてしまうかもしれない。―――それは、おそらく緑の座も例外ではない。
「協定をつづけた方が得だとねんごろにさとすため」に、精霊は、時々協定をやぶり、人に襲い掛かるのだ。示威行為だった。
……けれど、まだ。
まだ足りない。
それだけだと絵と額がちぐはぐだ。
合わないのだ。
父には協定を破る心積もりはなかった。示威行為が理由ならば、不穏な行動をはじめてからこういった乱暴な手段に出るのが妥当なところだろう。
そして。
―――何故、自分は今、ここにいるのか。
シヴァースは彼女を見据えたまま、問い掛けた。
「今回、協定の更新を拒否した理由は? 何なのですか?」
精霊は淡々と言った。
『先に言った行為と、―――緑の座の根絶』
2002 7/21 up