偽りの終焉 3
シンの体が頭から床に激突する寸前、その体を受け止めた手があった。
キールはゆっくりとシンの体を床に下ろし、小脇に抱えていたイールの頬の赤い線を親指でぬぐった。
傷は、まるで拭けば落ちる汚れのように、イールの頬からその姿を消す。
キールは自分とまるで同じ顔の弟を数秒のあいだ、見下ろして、膝の裏に手をさしこんで抱き上げた。
歩くごとに鳴る廊下を歩いて移動し、子供部屋の三つ並んだ寝台のうちの、イールのものにそっと下ろした。
寝顔の額に唇を押し当てて背を向け、食堂にもどると今度はナギを抱き上げた。
―――……軽くなった。
抱き上げたまま移動し、ナギの部屋の寝台に下ろす。
「十七年間、育ててくれてありがとう。―――ナギ」
二人は何も知らない。
何も知らず、憶えていないまま、彼らは明日の朝目覚めるだろう。
何も知らぬままに。
きっと、それで、いいのだ。
真実など知らず、優しい欺瞞に浸っているほうが、誰にとっても幸せだった。
◇
食堂に戻ると、キールはシンの傍に寄り、膝をついた。床には銀色の渦ができている。
その背に声がかかった。
『とどめは刺さないのですか?』
旧知の相手の声だった。
キールは振り返りすらせずに答える。
「―――リルレーン。それは命令?」
精霊は厳格な階級制が支配する。キールにもその規則は適用され、上位の者からの命令を拒むのは、人間のキールですら、非常に困難だ。
そしてキールに命令する権利を持つ数少ない精霊の一人が、この相手だった。
『……いいえ』
「じゃ、殺さない」
キールは俯せに倒れている相手を宙に浮かせ、仰向けにして、その白い顔の線に手をふれた。
『―――それほど愛しいのであれば、攫ってしまえばいいものを』
「シンの本質は炎だ。矜持をへし折って従順にするのは可能だけれども、触れた手を傷つけもしない火はもう火とは言えない」
『その者のために、いま、事を起こしたのでしょう? 緑の座となったその者を殺さないために。彼が緑の座になるまでもうさほどの時間は必要なく、なった後の混乱を狙えばずっと容易に事をすすめられるというのに』
「……一生に一度ぐらい、自分の生き方に逆らってみるのも、いいと思わないか?」
目尻から顎をたどり、反対側の目尻へ。シンの顔の輪郭を指でなぞると、キールはかがんで、その唇にふれあわせた。
初めての接触でもない。そして、レイオス星の文化では唇の接触に、たいした意味もない。
それでもキールはそれを貴重に感じた。
唇を離して、背後を振り返ると、半透明の女性が立っていた。もっとも、キールの目だからこそそれが見えるのだが。
精霊を見ることは、ほとんどの人間にはできない。
ほとんどの精霊は、不定形をしているようにキールの目にはうつる。しかし、ある条件を満たした精霊は、人の形をとる。
精霊は物質に固定されていないぶん、物質ではないものに強く影響されるのだ。すなわち、言語に。だから人の言葉を使用する精霊は、人の形をとる。
「リルレーン。頼みがあるんだ」
五秒ほど、相手は答えなかった。
『……私の覚えているかぎり、あなたが私に頼みごとをした事はなかったと思いますが』
「うん、俺の記憶でも、無いね。だからこれが最初のお願い」
『なんですか?』
キールは長年の喧嘩相手に視線をあてて、言った。
「……シンを守って。身体的にも精神的にも、傷つけないで。他の誰かがシンに身体的な危害を加えようとしても、させないで」
『………』
相手の沈黙を正確に理解して、キールは苦笑した。
「恋じゃないよ。……でも、シンが死ぬところだけは見たくない」
恋じゃない。……これが、体を繋げば成就するような想いならば良かったのに。
キールは自分の価値観、生きてきた基準の全てをシンにひっくり返された。そして、感化されてしまった精神は、もう元に戻せない。
この想いは恋より遥かに深く、切実だ。
『……』
精霊は返答に窮したようだった。
精霊は嘘がつけない。
そして、抜け道ができるような言い回しをキールは使わず、明確に伝えた。
彼女は死の女王。精霊のなかでも第二位の地位を持つ、最強の存在だった。彼女に身柄の保護を頼めば、それは安全の確保に等しい。
『…いいでしょう。ですが引き替えに一つ答えなさい。あなたが、家族を傷つけてまで今回精霊方についたのは、何のためですか?』
調停者になった理由はわかる。
精霊が、「家族を殺す」と脅したためだ。
キールは自分が定めた決まりを、殉教者が神の言葉に従うにも似て、遵守する。
なのに、いま、彼は自分の家族に刃を向けた。
キールはしばらく、喧嘩仲間の、譬(たと)えることもできないほど美しい面を見ていたが、やがて唇を開いた。
「リルレーンは、ほしいもの、ある?」
『以前はありましたが、今はありません。私は孤独でしたから、友人がほしかった。けれど今はあなたという友人がいます』
「そう。……俺は、『永遠のない生』が欲しかったんだ」
―――永遠なんて、欲しくもないもの。
シンには、たぶん、一生、その言葉をキールがどんな気持ちで言ったのか、わからない。
想像することはできても、わからない。
有限の生を与えられた彼には。
キールはふっと唇に笑みをはいた。
恋なんてしない。誰かを愛したくもない。
失うとわかっているものに、心を分け与えて何になる? 失うことが耐えられないほど誰かに心預けるのは、恐怖以外の何物でもない。
「……わかっていた、はずなのに……」
―――シンが死ぬところだけは見たくない。
それはすでに「愛している」と同意義だ。
「リルレーン。俺は答えたよ。だからあなたも、シンをよろしく」
キールはそう念をおして、姿を消した。
2002 7/16 up