偽りの終焉 2

 


 シンが何千回と訪れたことのある草の民の家を訪問したのは、太陽が大地の奥にかくれ、残照も息絶え、人工の明かりもともされない自然の闇のなかでだった。

 皇宮では真夜中だったが、惑星は丸い。この地域では、太陽がおちてまだ一刻ほどしか経っていないのだ。
 木材で組まれた高床式の草の民の家には明かりが灯っていた。やや心を落ち着かせて、シンは入り口までの短い階段をのぼる。

「ナギ? 失礼します」
 家族同然の付き合いをしているシンは、それで充分。返事を待たずに扉をあける非礼も許される。
 しかし、扉を開けてシンは一瞬の半分ほどの時間、絶句した。

 明かりがあるのは窓辺に面した食堂のみ、その奥は闇に沈んで、判別もできない。
 ―――なぜこんなことを? もちろん外から異常があるのを隠すため。
 一瞬でそれだけの事を読み取った次の瞬間、シンは絶対に見過ごせないものを見つけて室内に足を踏み入れた。
「ナギ!」

 入り口からは食堂だけが見渡せる。
 食堂だけが明かりがともって、明るいからだ。その食堂のすみ、食卓の影に隠れるように、旧知の人間が倒れていた。
 罠だということは分かっていたが、選択の余地などない。シンはナギの元に駆け寄った。
 完全に室内に身をおいた瞬間背後で予想通りの音がしたが、構わず床に膝をつき、俯せのナギの肩に手をかけた。
「ナギ!」

 肩、胴体、腹部、両手、左足……ざっと目をはしらせ、目立つ外傷はないことを確認する。
 呼吸も脈も正常。
「おきてください! 何があったんですか!?」
 そのとき、まるで予想もしなかった声が割り込んだ。
「無駄だよ。ナギは寝てる」
 ……キールの、声だった。
 いや、イールの声でもある声だ。

 シンはナギの肩からそっと手を離し、膝を床についたまま、上半身をひねって振り返った。長い髪が、床板とふれあってささやかな音をたてる。
 どこまでも揺らがず、触れば手にひんやりと冷気の感触を伝える石像。そんな目で、シンは旧知の友人を振り返った。
「……お前の仕業か?」
「そうだよ」
 キールは穏やかにほほえむ。わずかに首を傾けて。

 キールにはもう少年という呼び方は相応ではない。十七歳の、大人とほぼ同等の体格。そしてキールは、性別は男を選んだ。どうでもいいから適当に決めたのだということを、家族とシンは知っている。キールにとって、「どうでもよくない事」は、きわめて稀少だ。
 そして、その、最大のものが、家族のはずだった。
 シンは短く問いかける。
「―――どういうことだ?」
「お前が、今日、ここに来るのはわかっていたから」
「え…?」
 意味がつかめず、シンがいぶかしげに目を細める。

「精霊は、人との協定を更新しない」
 ―――見事なことに、シンは表情ひとつ、顔色一つ変えなかった。代わりに唇のみを動かして、猛毒の針を吐き出した。
「なるほど? お前は言ったことがあったな。ひとは、慣れるほうがよほど楽だと。
―――つまり、お前も慣れたわけだ」
「そうだよ」
 シンと同じように、動揺ひとつ見せずにキールは肯定する。
 しかし、
「精霊の、道具の身分に」
 とシンが続けると、やや表情を動かした。

 キールは目を見張り、笑う。
「まさか。俺は、慣れた。でもその事に慣れたわけじゃない」
 シンは、おそらく自分は、キールを誰よりよく知っている人間だという確信がある。その表の顔も裏の顔も、一切合切ひっくるめて。
 キールほど、敵にまわして厄介な人間は二人といない。冷酷で、無慈悲で、さらに始末に悪いことに極めて有能ときてる。

 人と、精霊の争いになれば。
 キールは調停者。その立場ゆえに、人ではあるが精霊側に立つ。そしてシンは皇族。人間側の筆頭の立場だった。
 ―――つまり、キールは、敵なのだ。
 とっさに、逃走経路を脳裏に思い描いた。……逃げ場はない。相変わらずキールの仕事は遺漏(いろう)がなかった。
 注視のなか、キールは無駄のない動きで、奥へと消える。

 三秒もなく、戻ってきたとき、彼はその手に自分と同じ顔の人間を抱いていた。
「……イール」
 ナギがここにこうして、自分を室内におびき寄せるために倒れているのだ。その事は当然予想していた。
 しかし―――
 キールは他人を利用することに躊躇いも良心の呵責もない。それは知っている。思い知っている。そんなことに咎めを感じてくれるような人間だとは、長い付き合いだ、思っていない。
 しかし判らないのは、いま、道具として扱っているのが、ナギとイールだということだった。

 キールは自分と同じ体格の弟を左腕一本で抱え、右腕で、剣を取り出した。
 そしてその刃を、イールの頬にふれさせる。
「シンお前、この弱点、何とかした方がいいよ。これだけで、もう、お前は動けなくなる」
「……イールをどうするつもりだ?」
 キールはゆっくりと、笑んだ。
 シンは氷の彫像に抱き竦められたようにぞっとする。一瞬で、体温が下がった。

「服、脱いで」
 シンはわざと、顔をしかめる。
 扉は閉ざされた。裏口への道の前にはキールがいるし、イールもその腕のなかだ。
 窮鼠の状態だった。
「あ、別にお前を凌辱しようとかそういう意図ではないから。上着だけでいいよ」

「……いやだといったら?」
「イールの耳をそぐ。お前は、俺が、それをできる人間だってことを、この世の誰よりよく知ってるよな?」
 シンは唇をいっとき結び――笑い飛ばした。
「ばかか? 何年の付き合いだと思っている? お前が、家族に、そんなことができるものか」
「そう?」
 キールは手を動かした。
 イールの頬に、赤い線ができる。シンは息をつまらせた。

「イールもナギも目覚めないよ。意識野の奥深くにまで眠りの指令を食い込ませたから、明日までは目覚めない。なあシン。お前、ほんとうに気づいてなかったのか?
 俺、彼らを愛していると感じたことなんて、一度もないよ」
「……キール!」
「愛する人間なんて、いない。そうお前に言ったのは、神樹の本のときだっけ。いなくなっても悲しまない、そう言ったのも」

 シンの脳裏を、これまでキールと過ごした時間、その会話のひとつひとつが光の速さで駆け抜けた。
 かすかな違和感は、常にあった。
 キールは愛している人間の傍にいれば、どこでだろうとどんな状況だろうと幸せだと言ったことがある。なのに。
 愛する家族の、そばにいるのに。―――キールはいつもどこか孤独の影があった。

「……でも! お前はいつだってナギやイールを最優先に考えていたじゃないか! 自分よりもずっと優先して! だから私はお前の言い間違いか、何かだろうって――!!」
「なぁ、シン」
 キールはそう言って、ほがらかに笑いかけた。
「自分の命を惜しんだことのない人間の、命より大切って言葉に、どれだけの意味があるわけ?」

 シンは衝撃にうたれて、体を震わせた。
「なにも目的がなく生きるのはつらすぎる。だから、俺は目的を設定した。誰かを、何より大切にして、その誰かのためだけに生きようと思った。その誰か、を家族にしたのは、他人に説明するのに理由がいらないからだよ。家族を大事にするのに、理由なんてなくていい。そーゆーもんだろ? 家族を大切にするのは当然で当たり前で、「美徳」。だから、それだけ。俺が彼らを大事にしていたのは、説明がいらないからっていう、それだけ。だから、俺は彼らを大切にしていた」
 ―――大切だけど、大切じゃないよ。
 何度か、聞いた言葉。
 謎々のようだと思った言葉の意味を、いまはっきりと理解して、シンは胸を上下させた。
 ―――大切にはしているけれど、大切だとは思わない。

「わかった? じゃ、服、脱いで。影を呼ぼうとしたら、その瞬間イールは切り刻まれる」
「……精霊が、緑の座に、勝てるとでも思うのか?」
「思うよ。お前の身柄を確保できれば」
「? ……どういう、意味だ?」
「シン、お前、時々ものすっごく鈍いよな。とにかく、服、脱げ」
 もはやそれは命令だった。

 キールが敵に対して容赦をするかと問われれば、シンは断固として否を返すだろう。容赦も慈悲もない。だからキールは強く、だから―――恐ろしいのだ。
 シンはまっすぐにキールを見つめた。
 キールにとってすら、皇族の服の結界を何とかするのは一大事だ。二年前、一度、結界ごと肩を貫かれたことがある。その時は剣に多重の結界をまとわせるいつものやり方だったが、結界を作り上げるのは十日がかりだったと聞いた。そしてなおかつ、一度それを使用した後は、しばらく術者としては使い物にならなくなると。
 今現在、キールから自分を守っているのは、この服だ。
 それをはっきりと意識した。
 その服を脱ぎ捨てるのは、自殺行為に等しい。

 イールの顔にあてられた、刃物。草の民は手でナイフと同等の切れ味を出す術を心得ているのに剣を使っているのは、心理的な威圧感を与えるためだろう。
 ……キールは、イールを切り刻むだろうか?
 そんなことしない、とは、シンには天地がひっくりかえっても言えなかった。キールは、必要とあらば眉一つ動かさず、親の前で子供を念入りに解剖できる冷血漢だ。
 さらに深まる自問。
 ……キールは、自分を、殺すだろうか?

 何となく、肌で、シンはキールが自分に対して好意を向けていることを感じていた。けれど、キールは自分とおなじく、好悪とすべき事を、完全に切り離して考えることのできる人種だ。
 イールの、命か。自分の命か。
 自分たちの十年に、意味は……あったのか。
 キールは、シンを、殺さないだろうか?
 ……イールの命と、自分の命。どちらが、尊ぶべきものだろうか?

 自分で自分をいとおしむ事が困難な彼は、その分まで、イールとナギに傾け、慈しんできた。十七年の人生のなかで、これまで、ずっと。
「人には沢山の心がある」
 キールがそう切り出したのはその時だった。
 はっとしてシンはキールを見つめる。
「一人の人間の中には、沢山の心がある。臆病な心、恐怖に怯える心、哀れな生き物を憐れむ心、自分自身に涙する心、勇気にうち震える心。自分で自分の怠惰や臆病を叱咤したことのない者など存在しない。シン、お前の心理は整理整頓が行き届いていて、わかりやすい。思考方法は論理的で明快だ。―――けれども、だからこそ、読みやすい」

「……」
「お前はイールを見捨てられないよ」
 百年も前にすでに起こった既存の事実をただ口にするだけ、という風に、キールは言った。

「お前にとって、優先順位はとても明瞭ではっきりしている。イールは、お前にとって、二番目に大事なものの象徴だから」
「―――象徴? ……二番目?」
「お前のいちばんは、イールでもナギでもない。責任感だよ。例えばイールひとりとこの星すべてなら、お前は後者をとる。そうだろう?」
 シンは唸るようにつぶやく。
「……私は皇家の青の衣をまとう者だ」
 それが返答だった。

「うん、でも。お前にとって、イールは二番目なんだよな。皇族の義務感……責任感といってもいいけど、それよりは下がるけど、その、すぐ、下。……お前自身より、ずっと上」
 シンの顔からわずかに血の気が引いた。……シミナーとは、こうまで鋭いものなのか。
「誰かを自分自身より大切に思う。それは、とても素晴らしい心だと思うよ。でも、……お前はだからこそ、俺には勝てない」

 空間に、淡々とキールの声が流れていく。
「ナギとイールは、お前の最後の聖域。人間はどんな相手だろうと、そういうものを持っている。相手が人間だとは限らないけどね。心の全ての虚飾を脱ぎ捨てて、心から大切に思えるものを、持っている。自分自身だったり、場所だったり、人間だったり。そしてお前の場合、それはナギとイールだ。……もうひとりは、お前がもうその手で殺した」

 きっ、と射殺す強さで、シンはキールを睨みすえた。
「一度、お前は喪失の痛みを味わっている。その痛みで心が萎縮して、もう二度と味わいたくないと思っている。もう一度同じことが起きれば、ひびの入った蛋白石は、もろい。砕けてしまう」
 兄を殺したとき、シンはもう耐えられないと思った。
 その時の喪失の痛みは、物質的な苦痛すら伴っていた。
 その痛みを、覚えている。

「痛みを知るから、恐怖もつのる。二度と味わいたくないとも思う。お前は―――イールを見捨てられないよ」
 勝利宣言にも似た断言。
 シンはくっと顔を背ける。
 ―――心理戦において、シミナー以上の者はない。

 シンは、屈服した。

「……誓えるか? 決して、イールを、傷つけないと」
「お前が条件をのめば、傷つけない。肉体に傷はつけない。精神的には保証できないけど。そう、約束する」
 シンは上着に手をかけ、脱ぎ捨てる。
 幾重にも自分を包んでいた結界が、その瞬間熱を加えられた飴のように柔らかく脆くなったのが分かった。皇族の服は呪符つきの結界なのだ。
「賢い選択。……じゃ、お前も眠って」
 その言葉が聞こえた瞬間、シンは床にくずおれた。


 大切な人間なんていない→誰が駒鳥殺したの
 キールは愛している人間の傍にいれば、どこでだろうとどんな状況だろうと幸せだと言ったことがある。→
裏話
「大切だけど、大切じゃないよ」→
白霧の朝

 その他、キールが「家族を愛している」と思ったこと(言ったことではなく)……一切なし。

2002 7/13 up

シリーズのページに戻る

まえへ  トップへ  つぎへ