「その歌の名前」
如月須磨子
「なぁあにぃ!?"ガンダム"知らないのぉーー!!?」
「‥‥‥うん」
「じゃ"イデオン"は!?"ダンバイン"は!?‥まさか"エヴァンゲリオン"も
知らないとか言わないよね、進藤!!」
「‥‥‥‥‥‥‥」
人込み渦巻く初春日曜日の、成層圏まで突き抜けるような青空の下、渋谷109前。
万に一の確立だとてこの場所で知り合いとすれ違うパーセンテージなど希少だろうに、
よりにもよって、まさか、この人物にばったり出くわすとは。
まさに、「悪いコトは出来ない」の格言通りである、と進藤ヒカルは心中苦い笑いを殺した。
「倉田さん、オレ、ハンズ行くんだけど、付き合う?」
「んー、じゃ進藤も付き合ってよねー」
MDスタンドを購入してから、「大島椿油シャンプー」をレジへ持って行く途中、
「ああ、塔矢にかぁ」と指摘されて、一瞬つ、と。僅かにヒカルは思案したが、
「別にこの人になら‥良いや」とお得意の速攻切り替えで無敵のアイデンテイティはものともしない。
‥‥‥‥‥はぁあ、これがコスプレかー。
未来的なシルエットの、しかしミニスカートは時代を超越しているらしいコスチュームの
お姉さんが歩いている「まんだらけ渋谷店」の店内で、天井迄届く本棚に四方を囲まれ、
ヒカルは感心して立っていた。
「おまたせー」と地下の店内から戻って来た倉田は、かなり重そうな紙袋を片手に息を荒げて
相変わらずいつも汗を流していた。
まだ春前とはいえ、巨体に人込みの暑さは堪えるだろう。
か細い、という印象がピッタリな手を差し出して「オレそっち、持ちます」との
ヒカルの申し出に「じゃ頼むね」とえんりょの欠片もなくドサッと革製鞄を押し付ける。
神が「正反対」をテーマに創造したような組み合わせの2人は、しかし食に関しての好みは共有しており、
一杯280円のラーメンスタンドに入った。
15歳の頃、既にヒカルより4つ年上だった倉田厚は、その頃から「絶対割り勘主義者」として
業界で名を馳せていた。
ヒカルも中学3年生のおり、偶然今のごとくラーメン屋で同席して、義務教育期間中でしかも
同じ東京棋院の先輩後輩で有るにも関わらずそれを体感させられ、そしてその時からずっと、
この人物に一度たりと「奢り」をしてもらった経験はない。
別にヒカルは何とも感じていなかった。
同じ森下師匠門下の和谷義高、冴木光司に言わせると「あの超ドケチ」と称されるこの巨漢も
他の身近な先輩達同様、無闇にえばり散らすコトも偉そうに嫌味も嫉妬も説教も垂れるコトがなかったし、
進藤ヒカルにとっては初めて「一色碁」を指導してくれた恩を忘れていない。
それに、なかなかの正義感ぷりのある青年との初対面の事件は印象的だったので。
地球には何十億の人口が有るっていう。
まぁ色々な性格の生き物がいて当然だろ?
そして更に、まだ幼かった頃、「わずか2年でプロにねぇ、倉田厚並みだな」と
必ず例えられていたので、不思議と親近感を覚えていた。
そして、ラーメン屋での会話が、冒頭である。
「ガンダム知らないかー、そっかそっかー、仕方ないなー。まだまだ若いし」
「いつもスカパーでやってるヤツ?オレ家で息抜き程度にしかテレビ見ないから」
「本因坊の生まれ変わりも、しょせんは低能番組チルドレン、かぁ」
随分なコトを言われている様だが、ヒカルの頭の中は
「福しんのラーメンってなんでいっつもこんな真っ黄色なんだろう」
という疑問でいっぱいいっぱいだ。
食事を終え、「オレ出しますよ、タイトル取ったし」とヒカルがレシートを持つと
「あ、サンキュウ」と倉田は先に外へ出る。
やっぱりこの人、面倒臭くなくてイイやとヒカルは感じた。
「‥‥タイトル取ったし、ねー‥‥」
「倉田さん?もう良いの?」
「ああ、用事は終わったー」
渋谷スクランブル交差点、それを見下ろす巨大モニターに自分が写る。
やっぱり、まだ慣れない。
「今度はもっと、スレンダー」
へぇ、オレの声ってこんなんなんだ。
アップル社開発の最新モバイル機器のコマーシャルフィルム。
「続編に出演して欲しい」と言われたのは去年春。
夏に向けたプロジェクトのイメージ作りとして、ヒカルにはアイスブルーの目にも眩しい
鮮やかなシャツとスリムなソフトデニムの白いロングパンツが着せられた。
細い腕と長い脚が目立つデザインの服に、一番身近なライバルは何か一瞬言いかけて、止めた。
優しいキスで始まる夜の前に喧嘩はしたくなかったのだろう。
「進藤、なんで棋士になんかなったのさ」
「はい?」
「俳優とかアイドルとかジャニーズとかモデルとか歌手とか。なんでも出来そーじゃない」
「んなコト言われてもなぁ」
「ギャラからしても、芸能界で売れれば、タイトル2つ3つと同じでしょ」
信号待ちの間、なんとはなしに2人で並んでその画面を視界に受け入れていた。
渋谷を歩く時、ヒカルは眼鏡と帽子を忘れない。
こういうシチュエーションに衝突する危険性が多分に存在するからだ。
一般道で数百メートル程追い掛けられてサインや握手をねだられたり、コンビニのレジのお兄さんに
口だけで「あ」と言われるのにも免疫が完成しつつは有るが、なるだけ面倒を回避して生きるのが信条。
もう何十個目かになる、既にコレクションと化しているお気に入りの眼鏡を外して、
ヒカルは真直ぐ前を見た。
「‥‥金、じゃないから。生きるのは」
「ふうん」
「オレ、ダメなんです。ホント、囲碁以外何もないから。
他の仕事だって囲碁やってるからこそだもん。一生囲碁、死ぬ迄、出会いも別れも、再会も、全部。
‥‥死んでも、多分。」
「ふぅーーん」
信号が変わる。人々がいっせいに歩き出す中、その一言にヒカルはふっと立ち止まった。
「進藤ってバカっぽく見えてたけど、割とお利口なんだな」
そんなコトを言われたのは初めてだ。
年輩の棋士達にはこぞって「進藤は礼儀知らずのガキ」だと嘲られるのは慣れている。
学校の成績も決して良くなかったので、自分は頭が悪いのだと信じ込んでいた。
山手線の中、ヒカルも話のテーマを掘り下げる。
「どうして倉田さんは囲碁始めたの?」
「あー、よくある平凡なつまらない質問」
「別に言いたくなかったら聞かないけど」
特に気にしたカンジもないヒカルをちらりと見て、
ふー、と一息ついてから大柄な青年はだるそうに口を開いた。
「オレってさー、人にあーしろこーしろ言われるの、一番嫌いだし、何より出来ないんだよね。
だけどさ、やっぱ趣味に金掛かるし、アニメの専門学校でも行こっかとか思ったけど、
趣味を仕事にして嫌な思いしたくなかった」
長いザンバラ髪を輪ゴムで結んだ体脂肪率高そうな男を、携帯メールで遊ぶ女子高生達が
ヒソヒソと笑ったが、彼は全く頓着しない。
ヒカルはその大きな影に隠れて丁度良い環境だ。
山手線で「あ、囲碁の‥」と指差されない日など奇跡に近い。
「学校じゃ変わり者扱いだったし、周りのアホ共にも合わせられないし?
でも職場自体特殊なのに入れば楽に生きられっかなーってさ。偶然教えてもらった囲碁で割とイイ線
行ったから、これだって思ってさ。人間関係も面倒じゃないし、そのまま」
「あ、分かります、ソレ」
新宿駅南口方面のホームを、総武線に乗る為に移動する。
電車から大量に吐き出された人間の渦の中、それでもまだ夕方前の平日の都心は人工過密度最低時間だ。
お互いどこに行くか何も聞かなかったので、棋院に戻るのだと自然に確信した。
市ヶ谷駅を出た時点で、ヒカルのスプリングコートのポケットがビビッと反応する。
メール着信、一件。
丁度良いタイミングだ。
文教堂の横をいつもの様に抜けた角で、倉田がヒカルに話し掛けた。
「‥‥‥今度色々イイもの貸してやるよ、進藤」
「イイものって?なに?」
珍しいコトも有るもんだ。「まさか有料じゃないよねー?」とニヤリと伺うと
「あ、オマエも冴木とか和谷辺りとオレの悪口言ってるクチかー?」とやぶ蛇。
言ってはいないが、いつも自然と聞いている。
「まぁ長い付き合いだしな。これからもそうだろうし、特別にボランティア扱いにしてやるよ」
「そーなんだ。サンキュウです」
「本因坊を名乗るなら、精神的にもクリアにしろよ。クズバラエティに汚染されると棋譜も濁る」
「‥はい。ご指導下さい、先輩」
「うんうん、素直だなぁ、宜しい宜しい」
機嫌を良くした風の巨体を伺ってヒカルはほくそ笑んだ。
こういう扱い安い人柄は出会った頃から全然変わっていない。
「あ」
「おっ」
日本棋院のガラス張りのエントランスで、タイミング良く待ち人とはち合わせする。
濃紺のスーツをスラリと着こなした、長身。
「そっかそっかぁ。進藤は塔矢とここで会うつもりだったのかー」
「こんにちは、倉田さん。凄い荷物ですね」
「2人で渋谷でバッタリでさ、お昼一緒したんだ」
「そう」
「なぁ、進藤と塔矢はさぁ」
「「はい?」」
「2人はさ、付き合ってんの?」
瞬間、ふっ、と。
周囲の音が消えた。ただ純粋な好奇心だけをたたえた大きな真ん丸な目が、こちらを捕らえている。
ヒカルはどうしようかな、と取りあえず口を開きかけたが。
「そうです」
凛とした、いっそ清清しい程の明瞭な声が、澄んだ空気に響く。
ヒカルはすぐ傍らに立つ長身をそっ、と見上げた。
美しい黒髪から覗く横顔はいつもの様に涼しく整っている。
「‥‥ふーん、やっぱそうかー」
ふうん、なるほどねぇと独りごちて、倉田厚十段は「よいせ」と紙袋を抱え直し「サンキュ」と
ヒカルからセカンドバッグを受け取った。
「あー、進藤さ」
「あ、はい」
「来月の防衛戦、楽しみにしてるから」
じゃ、と若きタイトルホルダー2人に飄々としたいつもの風体で手を振り、大きな体は
小さなエレベーターの扉に消えた。
「それじゃあ、行こうか。今日の夕食はどうする?‥‥進藤?」
「‥‥あ、うん。まだ‥考えてないけど」
「さっき電話があってね。母がキミを連れて来いって。この間からずっと言われていたんだよ。
良かったらうちに行かないか」
「うん、行く」
「良かった。ようやく親孝行出来る」
並んで、たった今登って来たゆるい坂を、ヒカルは塔矢と下った。
無言だが穏やかな雰囲気が2人を包む。
こういう場が好きだ。何も言う必要がないから。
そろそろ傾きかけた陽の光、まだ気温は低いが昼間の暖かさが夜まで残るようになった。