友達 2
レイオスにおいても、差別被差別は存在している。
そして何事においてそうであるように、差別というものは、多数側から少数派へと加えられる数の圧力だ。少数派が少数でなくなったとき、そのとき初めて差別撤廃への道が開けるのだと強弁しても、ある程度の真実は含まれるというほど、多数から少数への蔑みは人の本能だった。
革の鞭が空気を切り裂くしなる音が連続して響く。
音よりも、剥き出しの素肌に鞭によって流れる冷たい風の感触をかんじるたび、ナリグの体は恐怖で固まった。
鞭と肌が接触するたび、ゴムを弾くような音が響いて苦痛が爆発し血流を通って全身をじれさせる。
道行く人間の誰も助けようとはしない。むしろ、楽しむように少し離れて見ている者すらいる。
蔑みの心が胸いっぱいに満ちる。あいつらはいつも、こうなのだ。
やがて鞭の音がやみ、十秒をかぞえてもまだ何も感じない。ナリグはいぶかしんで顔をあげた。
「―――大丈夫か?」
そう言ってナリグの手をとったのは、同じ少年だった。
麻で編まれた厚手の布地。単純な型、頑丈だが手縫いの縫製、彩りも装飾もほとんどない、生のままの色の服。
上衣と、先が二つに分かれた下衣。いたって単純、最小限の服装。それと皮袋を背に背負い、右手でその皮袋の紐をおさえ、左手でナリグの手をとっていた。
ナリグにもわかる。
これは―――自分と同じ、草の民だ。
少年はナリグの手をしばっていた紐を素手で切ると、「立てるか?」と聞く。
あわてて頷き、きょろきょろと周りを見回す。いまさらながらに自分がどういう状況なのか気になったのだ。
自分は盗みの罪で鞭打たれていたのだ。どう見てもこの子供は自分とどっこい、生まれてから十四、五年しか経っていないだろう。じぶんを、助けられるような相手ではない。
見回せば、さきほどまで自分を鞭打っていた相手が、長年の虫歯がまたうずきだした時のような顔でいるのがわかる。
「話はつけた。行こう」
ナリグのその動きに気づいて、少年は言う。
「話……って」
喉の皮は乾ききってはりついている。声はひび割れ、かすれ、剥落した無様なものだった。
「いいから早く」
引っ張られた腕の皮は背中と繋がっている。背中の傷がうずいて、ナリグはうっとうめいた。
「あ……ごめん。でも、急いだ方がいい」
その言葉に力を奮いたたせ、ナリグは荷物をかき集めると、少年の後について、その人垣を抜けた。
だいぶあの場から離れると、少年は手をとって別の場所に移動した。転移だ。
ついたのは森の、澄んだ水が流れる小川のほとりで、まだ高い太陽が樹木の切れ間をぬって、水晶のような光を差し込んできていた。
「ありがとう」
ナリグはその言葉をようやく言うことができた。
「次はもうちょっと用心しなよ。ぼくら草の民は、町では圧倒的少数派なんだから。あちらにいわれのない偏見を攻撃に変える口実を与えないようにしないと」
そこで、ナリグはようやく、先ほどからの疑問を言葉にすることができた。
「どうして……、キミは僕を助けることができたんだ? あの業突く張りの店主に、お金でも支払ったのか?」
「まさか。一番低級な銅貨一枚だって支払うもんか」
「じゃあ……どうやって……」
これが大人なら、巧みな弁舌と堂々とした態度でナリグを借り受け助け出すこともできたかもしれない。けれど、彼は子供なのだ。
大人はすべからく子供を軽んじ、尊重しないものだと相場が決まっている。しかも草の民だ。
どうやって、と問うと、彼は笑った。そして答えてはくれなかった。
結局のところ、彼がこの質問に答えてくれるまで、長い時間が必要だった。
彼は自分のもつ、最大の人脈を利用したのだ。
誰もが知るシミナーの兄を彼はもっていた。そしてその兄と、彼はどこから見てもそっくりで、ただ一人、彼らの父親をのぞけば誰も見分けることなどできないほどだった。
かれは、シミナーであると詐称することによって、自分を助けてくれたのだ。
それを理解したとき、ナリグは彼の渡った危うい橋に冷や汗を流す思いだった。そして、自分のためにその犠牲を払ってくれた彼に、深い感謝の念を抱いた。
§ § §
「些細だけれども、大きな違いになっちゃうんだよ」
シンが、かつて、そう話をしたことがある。
食事が終わった後の食堂。めいめい勝手なことをしていられる優しい時間が流れるひとときの出来事だった。
「イールが兄のふりをする。これ自体は別に単なる子供のお遊びですよ、で済む。ところが、イールがキールのふりをして、自分はシミナーである、という。これは、シミナーの詐称になってしまう。これは重罪になっちゃうんだ」
「じゃ、じゃあ僕がキールだって言って、それを聞いた人が勝手にシミナーだって誤解して、いろいろしたら?」
シンはそれも首を横にふる。
「酒肴を受けるぐらいなら問題はないけどね。シミナーとしての待遇を要求する、受ける、特権を利用する。これらのどれをとっても、罪が形成されてしまう。これは未必(みひつ)の故意に近いもので、イールがキールの名を名乗る。その時点で相手方は自動的にシミナーだと認識させてしまうものだろう? キール自身、名乗ることで相手にシミナーだと気づかせて暗に相応の待遇を要求するしね。名乗るということが、シミナーとしての対応を要求しているととれるんだ。
名乗って、それだけですぐに立ち去るなら問題はないけれど、シミナーの特権を利用したらもう駄目。どんな言い訳も通じない。ばれた時点で、牢屋行き。
……だからイール。どうせ君とキールを見分けることができるのはナギぐらいなんだから、利用したらすぐさまキールに言って、口裏を合わせること!」
利用するな、とは言わないあたり、シンらしいといえばこの上なくシンらしかった。
「まあ、普通なら名乗った時点で終わりだけどね。というかそれだけ顔そっくりにした時点で終わりだけど、イールの場合生まれつきだから顔がそっくりなこと自体は何の罪も形成しない。整形とかじゃないんだから。ただし、シミナーの詐称は皇族詐称とほぼ同等の大罪」
シンはそこで言葉を切って、にっこり笑顔で首のところで手を横に引いた。
―――断首。
「……まあ、家族だし、いくらか情状酌量がされるとしても、五十年の凍結が相場かな。シミナーの特権っていうのはそれだけ大きくて、だから刑罰も詐欺罪のなかで最高に厳しくなってる。……ってことで上手くやんなよ。僕が助けられればいいけど、世の中には状況ってもんがあるからね。失敗しないようにするのが第一だよ。あんまり、他人の前ではキールのふりをしないほうがいいってことかな」
§ § §
イールが夕食の席で、その日あったことを報告すると、キールは頷いた。
「了解。なんかあったら、ちゃんとそれは俺がしたことだって言っとく」
ナギは複雑な顔だった。
「人助けはいい事だけど……」
その言葉をさらうようにして、シンが口をだす。
「割と意外。盗みの代償に鞭打たれてたんなら、非がないとは言えないよね?」
イールは自分の正しさを信じきれない表情で、うなずいた。
「うん……、でもさぁ。シンには判らないと思うけど、僕らは物凄く恵まれてるんだよ? 草の民のなかでは」
「知ってるよ。……キールのおかげで金には困らないからね」
と、美貌の幼なじみは、意味ありげな一瞥を、食卓の向こう側にいるイールの兄に投げた。
キールが患者から持ち帰る金銭はかなりのものだし、(これはイールは知らないことだが)、育成年金がかなりの額、支給されている。
「うん。キールのおかげで、特別に恵まれてるんだ。草の民は、普通はもっと苦しい。生きていくのに精一杯だ。貧しさで飢えて、目の前の一斤のパンを見た瞬間に理性もその後の運命もなにもかも頭から消し飛んでしまって、思わずかぶりついてしまう、そういう経験なんて、ない。シンにもないよね? そういう僕らに、貧しさから盗みをする相手を責めたり断罪したり裁いたりする権利って、あるのかな?」
シンが頷き、要約する。
「なるほどね。それでイールは、盗みの罪で不当に重い罰を受けている子を、見てみぬふりをしたり見捨てることができずに、キールの名を使って助け出したと。人を助けたいという気持ちは、人の心のなかで最も貴いものだ。いいんじゃないの? いい事をしたと思うよ。キールの意見は?」
「ん。俺もそう思う。……相手もイールのこと、そう思ってくれればいいんだけど」
キールの言葉に、イールは不安で表情をかげらせる。
「どういうこと?」
イールの目の前で、シンとキールは無言で視線をやりとりし―――イールはこれを見るのが好きじゃない。二人の間に、イールはわからない何かがあって、仲間外れにされている気分になるからだ―――押し付けあって、シンが口を開いた。
「助けられて、その人に好意を抱く人だけじゃないってことだよ。世の中にはね、逆恨みとか、そういう人も、沢山いるんだ。好意的な行動に対して、悪意を返す根性のねじまがった人間も確実にいる。そういう輩でないといいな、と、そう思ったんだ。そういう奴らに対してはね、誠実に話そうとすればするほど、馬鹿をみる。人の言葉を捻じ曲げて、悪意しか返さない奴らには、腹の中で嘲笑と軽蔑を育ててさっさと離れるのが得策だよ。
話している相手がそういう人種だと気がついたら、傷つかないうちに離れた方が、絶対にいい」
「それは……ちょっと……ないんじゃないかなあ?」
シンは苦笑した。
それはまるっきり大人が子供に対して上から投げ与える類の、親愛のこもっているけれど「まったくしょうがないなあ」という笑顔で、イールは奥歯をかみしめた。
「会ってみなきゃ、わからないよ。確かにね。イールはいい子だから、どんな人でも話し合えばそれなりにわかると思ってるんだろう? 人助けという行為には、好意が返されるものだと信じてる。確かに世の中にはそういう人間が大多数だ。でもね……、そうでない人間も、本当にいるんだよ。いくら話しても言葉を尽くしても、悪意に染まってゆがんだ言葉だけを返して、こちらの言葉に悪意だらけの解釈しか返さないっていう、腹の中がどぐされきった人間もね。本当にいるんだ」
イールは三人を見回した。
父親のナギ。兄のキール。幼なじみで目に楽しい美しい友達、シン。
「会ったこと、あるの?」
「……まあ、何度か」とナギ。
「くさるほど」とキール。
「……シンは?」
イールの質問に、シンは目を奪われるあでやかな微笑を口元に浮かべた。
「付き合いで、それなりに」
「で……、いっつも無視してるの?」
「まあね。……事情が許すかぎりは。許さないときも結構あるんだけど……、そのときは諦めて、付き合うことにしてる。なかなかいい経験だよ。最初っから相手にはこちらへの悪意が満ちてるからね。すべてにいちゃもんつけてきて、一向に論点がはっきりしないんだ。つまり、なんでもかんでも僕のやることなすこと全部が気に食わないんだろうね。そういう人種との遭遇の最初の一回は僕もなれてなかったから真っ正直にいちいち返したけど、ほんと、キリがないんだよ。どういう事情でそこまでこちらに悪意を抱いているのか、聞いたところでやっぱりきりがない。頭が根本的に悪いのか、あるいは故意に悪いふりをしているのか……、1という問いに、1の答えを返すんじゃなく、2という答えを返してくるんだ。最終的に、ああこれはもう、付き合うだけ時間の無駄っていうぐらいに頭が悪いんだなって気がついたから、さっさと縁切りした。そんな風に、縁切りできればいいんだけどねぇ。ときどき、できない場合があるから」
「……ほんとにそんな人、いるんだ……」
「いるいる。うじゃうじゃいる。特に、イールは会いやすいと思う。だってキールと同じ顔で、家族だろ。キールのことを妬んでる奴なんて腐るほどいるだろうし」
イールは複雑な顔になった。
妬まれる立場だということは……まあ、承知してもいい。なんせ、一般的草の民の標準的生活水準からは、はるかに上の生活をしているという自覚はあるのだ。
けれど、やはり、自分が人に悪意を持たれても仕方がないと考えるのは、複雑な気分だった。
ナギが困った顔で話をしめくくる。
「うーん……シンの話もちょっとアレだけど……、でも、まあ、そうだなあ……、間違っちゃいないよ。だからね、イール、気をつけなさい。お前は、たしかに、狙われる立場であり、羨まれる立場であり、妬まれる立場なんだから」
2002 2/23 up