恋の言葉のない恋文 弐
アキラは思わずまじまじとヒカルを凝視した。
息も絶え絶えに、寝台に仰臥する友人兼ライバルを。
ヒカルの眼差しもまた、まっすぐにアキラに向けられている。
アキラはヒカルを強いと思った。
自分なら、告白の直後、こんな風に相手を見つめることは、たぶんできない。弱いから。
きっと、目をそらして相手の言葉を待つことしか、できないだろう。
ヒカルの言う「好き」が、友達同士の間でのものではなく、「そういう」意味なのだという事は、ヒカルの眼を見ればあっけないほど簡単に、理解できた。
「ボクは……」
いつものアキラらしくもなく、視線をあちらこちらにさ迷わせる。
「ぼくは」
声が喉にからみ、頭をさらっても何を言えばいいのかさっぱりわからない。ぐるぐるとその優秀な頭脳を稼動させながら、何度も舌で唇をうるおしたがそもそも何を言うかが決まっていないのだから何も口に出せなかった。
「わかってる。おれが、言わずに済ますの、ヤだっただけだから。あいつのときは、結局、言わずに死なせたから、遠くに行ったり、死ぬ前に、言っておきたかっただけなんだ」
そう言うと、進藤はしんどそうに目をとじた。
あっけない態度に、逆に物足りなさと寂しさを味わう。
「お前に会えなくなる前に、言っておきたかった。それだけだから。だから、無理して応えなくて、いい」
「会えなくなる……って、どういう意味なんだ? 遠くに引っ越すっていう意味なのか、それとも……」
ヒカルはわらった。
「わかんね。いろいろ、病院行ったんだけど、わからずじまいでさ……。夏休み、終わった後、会えるといいな」
儚い、日の光に透かされた硝子のような笑顔。
砂糖ごろもがかかった菓子を口に入れると、抵抗するように砂糖の甘みが広がって、それからゆっくりと崩れていった。そんな、今にも消えそうな笑顔だった。
「ゴメンな、塔矢。気持ち、悪いこと言って」
それきり進藤ヒカルは枕に顔をおしつけた。アキラは枕元に立ち、その後十秒ほど何を言えばいいのかそれこそ脳味噌を振り絞るようにひねって考えたがとうとう見つからず、ぎこちなく髪を揺らして頷きを返し、部屋から出た。
それからしばらく、塔矢アキラは進藤ヒカルのことばかり考えつづけた。
引越しをすること。病気だということ。ひょっとしたらもう二度と会えなくなるかもしれないということ。
進藤ヒカルは、アキラのことを好きだと言った。―――好きだというのは、きっと、そういう意味なんだろう。ではアキラは、ヒカルのことをすきなんだろうか?
嫌いではない。それは、たしかだけれど。
たった一つ、確かなことは、進藤ヒカルともう会えなくなるなんて嫌だ、ということだった。
そしてあることに気づく。
―――いつ、引越しするんだろう?
電話番号は、いつかお互いに教えあった。ヒカルがアキラの家に電話をかけることができたのはそのせいだ。
ヒカルの090から始まる電話番号に電話をかけると、五回目のコールで出た。
「―――塔矢?」
低く、静かな声音に心臓が一つ鳴る。
この声がいずれ聞けなくなるのかと思うと、ぞっとした。
「……進藤。ボクだけど。いつ……引越しするんだ?」
電話線の向こうで、笑った気配がした。
「ほっとした。嫌われたんじゃ、なかったんだ」
「嫌いは、しないが……」
明確な感情とも言いがたいアキラは口ごもる。
「引越しじゃないよ、厳密には。俺と、母さんが、あっちに住むだけ。父さんはこっちに残るから。八月一日に、行く」
「八月一日……」
あと、十日しかない。
「うん。―――塔矢。俺、お前のこと、すごく好きだよ。お前のことを考えると、心が広がっていくのを感じる。お前が、囲碁のことを好きなのと同じように、好きだと思う。時間がたつたび、お前のことが好きになる。お前が俺のこと好きでなくても、俺じゃない子をいつか好きになっても、それごとひっくるめて、ずっと―――死ぬまで好きだと思う。なんでかそう確信してる」
「進藤。ボクはそんな上等な人間じゃない」
慌てて言うと、ヒカルの口調に優しさがこもった。
「……いいんだよ。俺が、勝手に、一方的に、好いているだけなんだから。お前が自分のことを卑下してても、俺はお前が馬鹿でもアホでも二目と見れない顔でも犯罪者になっても、好きだから」
「しんど……」
せき込む音に、アキラは思わず言いかけた言葉を無くしてしまう。
「―――好きだよ、塔矢。ずっと、ずっと、ものすごく、好きだ。もうすぐ俺はいくけど、塔矢は頑張って、夢を追ってな」
「…………」
アキラは気がつけば受話器を耳元から離していた。
頭が混乱していた。
アキラは、正直なところ、ヒカルの告白をかなりの部分「ヒカルの錯覚」だと思っていたのだ。思春期の第二次性徴期の、性欲を伴う錯覚だと。
頭がカタツムリの貝殻のようにうずまいていて、心臓がドラのように鳴り響いていた。鼓動が一つ鳴るたび、体が震えて手を耳元に当てる。
―――会えなくなるなんて、嫌だ。
再び受話器を耳元にあてた。
「進藤……」
「さよなら、塔矢」
「え?」
アキラは何を言われたのか、とっさにつかめなかった。
「長野行くんだ。二三年は、会えなくなると思う」
「……うん、わかった。二三年……だよね?」
「治れば」
ヒカルの返答は簡潔で、容赦ない。
そう―――、治らない可能性だって、あるのだ。
「キミは……自分が死ぬかもしれないと、思っているんだ?」
「―――うん」
「そんなに、具合が、悪いのか?」
「しんどいよ。体が自分のものじゃないみたいで。動けと命令しても、動いてくれない。とにかくだるいんだよ」
そこで、ヒカルは言葉を区切った。
何秒かの沈黙のあと、意を決したように切り出す。
「塔矢。お前、八月の四日までは、対局ないよな。なら……、それまででいいから、長野来ないか?」
この間、アキラは七月のリーグ戦対局で負け、四勝三敗となった。アキラと同じく四勝二敗だった棋士も負けたので、勝負はまだわからない。リーグ戦トップの四勝三敗は新しく加わった一人も含め、現在三名。
勝負どころは八月四日のリーグ戦最終局。これに勝てば、最低でも、残留は決まる―――。
「ながの……?」
「うん。それが、最後だと思うから。もうしばらくは会えなくなるから。最後に一度だけ、一緒に遊んでよ」
「つまり……、一緒に、長野に来ないかって?」
「うん。……返事は急がないから。八月一日の朝早く、行くからさ。行く気になったら、それまでに連絡してくれよ」
これが、最後だから。
一度だけ、一緒に遊んでよ。
行ったら二三年は会えなくなる。
決断は早かった。
「わかった。ボクも行く。何時にキミの家に行けばいい?」
ヒカルの声は目に見えてはずんだ。
その喜びあふれる声に、アキラも嬉しくなる。
「朝六時。……さんきゅ、な。母さんにも、お前のこと伝えて置くから。着替えとか、お財布とか、あ、囲碁盤はおれが持っていくからいい。用意、しといてくれな」
「わかった。じゃあ、八月一日に」
電話を切ったあと、アキラは少し考えた。
こんな大事な時期に、いいのだろうか?
しかしその考えをアキラはすぐさま振り払う。
長野ということは、進藤と一緒にいられるのは、八月一日から、三日の昼まで。正味三日間もないのだ。
病で倒れている友人のために、それぐらいのことをして、何故悪いのだろう?
アキラは目元に手をやった。
―――あれほど自分を愛してくれている人が、今後、自分の人生に現れるだろうか。
目を閉じても、耳をふさいでも、ヒカルの言葉は目でも耳でもないところで響き続けている。
この大事な時期の時間を裂くことに、後悔は、きっと、しないだろう。
§ § §
アキラは両親から許可をもらい、荷物をつめこんだボストンバッグを片手に、朝六時前に進藤家にたどりついた。
長野へは、車で行くのだという。
運転はもちろんヒカルの母だ。
途中一度、ドライブインに寄った。
八月とはいえ、これだけ早朝になると少々寒い。
外へ出てアキラが体を震わせると、ヒカルが紙コップを手渡した。
「はい、塔矢」
この間見たときよりヒカルは随分と元気そうで、笑顔を浮かべている。
ただしその笑顔は相変わらず、溶けて消えそうなという印象がつきまとっていたが。
ありがたく暖かいお茶を飲み干し、ドライブインでの用事を済ませて再び出発すると、眠気が襲ってきた。
運転席にはヒカルの母。
後ろの後部座席には、ヒカルとアキラが座っている。
アキラが目をこすっていると、ヒカルが言った。
「ねむれば? 着いたら起こすから」
「う……ん」
体を倒し、頭を後ろのソファにもたれさせて目をとじると、一気に睡魔が侵食した。ずる、と頭がすべる。ヒカルの肩にもたれる形になったが、ヒカルに拒否する様子がないので、まあいいかとなってしまう。
ヒカルが愛しげに髪を撫でる手の感触も気持ちよかった。
そのまま、長野までの残り一時間半のドライブをアキラは熟睡して過ごした。
やがてヒカルに肩をゆすられて目をさました瞬間、アキラはまさに驚愕した。
なんせ、冷たい金属の重みが左手首にかかっていたのだから。
「―――これは、なんだ?」
「鎖」
と至近距離から返答が返る。そちらを見れば、ヒカルがいた。
アキラの手は金属製の金具で繋がれていた。しゃら、と鎖の輪が音をたてる。鎖はフローリングの床にふれ、その先は見えない。
アキラ自身はパイプベッドの上に寝かされていて、部屋の中には窓と、それだけで壁の一方となっている巨大な本棚があった。
これが一般人ならこの時点で狼狽してパニックに陥るところだが、さすがは塔矢アキラである。枕元にちょこんとすわるヒカルを睨んで言った。
「なんで、こんなことを?」
「心配しなくても、八月三日には解放するよ。塔矢が心配しているようなことも、しない。俺はただ、塔矢に側にいてほしいだけ」
アキラはいぶかしげに眉をひそめた。
「それならこんなことをしなくとも、八月三日まではキミに付き合う。付き合うからこそ長野まで来たんじゃないか」
そう言うと、ヒカルは肩をすくめた。
「だってさ、絶対、怒ると思うんだ」
「は?」
「塔矢は、潔癖だから、俺が嘘ついていたら、絶対怒るだろー? かといって三日も側にいてバレないとは考えられないし。病気なんて、うそ。うそだよ、塔矢」
「…………う、そ?」
「うん。だって、そうでもしなきゃ、塔矢は長野に来てくれないと思ったから」
このときまだ塔矢アキラは事態を完全に理解したとは言いがたかったが、頭を整理するため疑問点を口にだした。
「…………病院で、会ったのは」
「塔矢を眠らせるための睡眠薬を処方してもらうため。なのにいきなりその当の本人と出会って思わずびびっちゃったよ」
視線をさけるように、俯いた仕草。
―――あれは。つまり。
「棋院の前で倒れたのは」
あの顔色の悪さ、息も絶えんばかりの様子は、到底演技とは思えない。
「アレ? あああれが一番面倒だったな。あれは水断ちをかなり前からやっといたんだよ。そうすると、風邪とよく似た症状が出るって聞いたから」
「―――ペットボトルはそのためか……!」
気がつかなかった迂闊さにほぞを噛む。
「……ペットボトル? ああ、あれか。塔矢、見たんだ」
「誤解、しないでほしい。ボクは人の荷物をあさったりしない。隙間から、ペットボトルの頭が見えていたんだ」
暗に、きみとは違うという非難をこめた。
「うん、わかってる。塔矢はそんなこと、しないよな。ご明察のとおり、あのペットボトルはそのためだよ。塔矢が去ったあと、あの中の水を一気に飲んで、対局中もお茶をがぶ飲みした。で、塔矢と会っている間はとにかく息をくるしげに、だるそうに苦しそうにと演技したわけ」
用意周到という言葉もいいところだ。
アキラは半ば呆れ、半ば感心した。
「それで―――コレ、か?」
じゃらり、と腕の鎖をもちあげる。
「うん」
ヒカルはうなずく。
「ただ単に、僕をここに三日間とどめるというだけのために、そんな事をしたのか?」
「さすがに東京じゃ、塔矢を閉じ込めておける物件なんてないんだよ。みんな集合住宅だし、声はつつぬけだし。かといって長野にイキナリ来てくれ、なんて言っても―――断られる確率のほうが高いとおもって。でも俺は、塔矢の嫌がることはしないから。腕の鎖をのぞいては。鎖の範囲内に、トイレもあるし、バスルームもある。キスやセックスも強要しないし」
「……すべて、僕を三日、自分の側にとどまらせておくためだけに? 変なんてもんじゃないぞ。何をするつもりなんだ?」
これが、いっそ陵辱などのアキラの意思をふみにじる行為をするためにこうまで計画したのなら話はわかる。
「そうかな? そんなに変かな? だって塔矢、好きな人間とできるだけ一緒にいたいとかおもわない? 人を好きになったら、わかるよ。塔矢が俺を見て、俺のことを考えて、俺と塔矢が同じ空気を吸ってる。それが無性に嬉しい」
「―――キミの、母は?」
「母さんには最初っから、塔矢と一緒にコテージ泊まるって言ってある。ここはホテルのコテージだから。一軒家。塔矢は塔矢でもちろん、親御さんにしばらく留守にするって言ってあるだろ?」
アキラはため息をついた。
どうやら進藤は何ヶ月も前からコツコツと今日この日のために周到に伏線をはりめぐらせていたらしい。
「何もひどいことは、しないから。一緒にいてくれるだけでいいからさ」
「それならただ単に頼めばいいだろう」
たとえヒカルが何もしないと言ったところで、やはり手錠で拘束されているという事実はカンにさわるし、腹がたつのだ。
「たのむ? ああうん、そうだな。頼めばよかったのかも知れない。でも―――断られたら? 側にいてくれなんていう怪しげな頼み、塔矢だったら聞く? だから、こういう手段にしたんだ」
アキラは頭痛を感じながら口をひらく。
「要するに……、キミは本当に、ただ単に、三日間僕を自分の側に留めておくためだけに、手錠をかけたのか? その前から病気のフリしたり何したりして、長野に来させたのか?」
ヒカルは頷く。
「そばに、いてくれればいいんだよ。でもそのまま言ったとしても断られるだろうから、強制にした。塔矢を閉じ込めるのに適した場所をいろいろさがしたんだけど、さすがに東京は地価が高くて。オレの預金じゃ見つかんなかったんだよ。それで、長野にしたんだ。でもただ塔矢を長野につれてきたら、どうしたってその日の内に親は探し回るだろ。オオゴトにはしたくないし、前科者にもなりたくないし。だから多少の猶予がほしくて、病気ってことにして、塔矢に自発的に来てもらったんだよ」
いくらなんでもおかしい―――。
原因と行動の質量が違いすぎる。
そう思ったりもしたのだが、アキラはひとまずはそれで納得してしまった。
一応の筋は通っていたし、ヒカルのにこにこ笑顔に気勢がそがれたせいもある。
そしてなにより、こういう手錠つきで監禁されるという異常な事態では、できるかぎり事態をいいほうに考えたいという心裡も働いていた。
進藤が自分に無体なことをしないというのなら、それを信じたかった。
―――自分は進藤ヒカルをどう考えているのか、という議題は告白以来アキラの重要な思考課題になっていたが、アキラは今日になってもまだ答えを出せなかった。少なくとも、マイナスに針がふれたのは確かだが。
このとき、アキラはまだ知らなかった。
事実の、仮借のない残酷さは時として最悪の予想をも上回る時があるのだということを。
2002 5/23 UP