これは君がつむぐ物語 6

 初めて出会ったときの印象は最悪だった。
 銃を突きつけられ、脅されて、その相手に好印象をもてというほうがおかしい。
 しかし、カーニバルで何の因果か自分を撃った監禁相手のこの人間の命を救う為に奔走するはめになってしまって。
 ……いや、奔走させたのは直接的にはカノンではなくひよのなのだが。

 さらに数奇な事に、現在、恋敵、という立場に、いる。
 あるいはそう思っているのは歩だけかもしれなかったが、そうではないということが、カノンの表情ではっきりわかった。
 カノンは、そんな顔をすべきでなかったのだ。
 忌々しげな、舌打ちを寸前でこらえたような、敵意を秘めた顔を。
 これが取るに足らない羽虫を見るような見下げた軽蔑だけが宿る顔なら、それだけで打撃になったろうに。

 歩は、微笑んだ。旧知の友人に会ったような、親しげな笑み。カノンから見れば余裕としか思えなかったろうし、実際その笑顔は、カノンの表情がつくったものだ。
「やあ。ひさしぶり」
「……何の用かな。直接会って、話がしたい、だなんて」
 その一言で、カノンはひよのの家から出てきた。そして、歩の前にいる。

「うんまあ聞きたいことがあって。―――あいつ、次に体あくの、いつ?」
 探る沈黙のあと、カノンは唇を開いた。
「……明日から、彼女はしばらく英国だ。論文の発表とレセプション、各種研究施設からの招待。一週間は、体が空かない」
「了解。じゃ、一週間後は?」
「どういう用事なんだ?」

 ―――今この瞬間から、カノンと自分は認識を共通する敵となる。
 歩は敵に対して、最大限にダメージとなる表情と、言葉を選んだ。
 こぼれる笑顔で、こう、言ってやったのだ。
「プロポーズ」

 ぎりっと奥歯を噛み締める音が聞こえないのが、不思議なくらいだった。

 忌々しいというのも勿体無い、その存在がそこにあるのが許せない。敵意が凝縮された表情で、カノン・ヒルベルトは歩を見ていた。
「……今になって、よく、そんなことがいえるね。どういう神経をしてる?」
「あんたの言いたいことはよーくわかってるよ。でも、俺はもう、俯かない。俺はひよのが好きだ。あんたと戦うことも、承知の上だ」
 夏の激しい太陽が、ふたりを真上から照らしている。
 その太陽に辟易した人々はクーラーのきいた室内に退避し、人通りはない。足元のアスファルトは太陽熱を効率よく蓄え、靴底に熱を感じさせ暑さをいやました。

 他に人通りのない灼熱のなか、その二人は熱など知らぬげに対峙している。
 張り詰めた緊張は、わきの下に気温のせいでない汗をかかす。
 カノンはくっと顎をそらす。歌うように呟いた。
「……あのころ」
 歩は目を細める。
「―――彼女は、君のものだった。髪のひとすじ、眼差しのひとつひとつ、指先の爪の先端にいたるまで、彼女は、まごうことなき君のものだった。あのころ君が彼女を選んでいれば、僕は一介の傍観者として、全てを終えただろう。それが彼女にとって、最上の幸せだったからだ」
 かつて、結崎ひよのは、鳴海歩を愛していた。
 ……関係者の、誰もが知る、『事実』。
 歩は黙って、それを聞いている。胸をさんざめく痛みも、皮膚を千切りとられるに等しい激痛も、望むところだった。

「けれど、君は彼女を選ばず、理緒を選んだ。―――それについてはいいだろう。君にも、誰にも、愛されたから愛さなければならないという義務はない。だがそれならどうして、今になってそんなことを言う?」
「端的に言うなら理由は一つ。いや、二つか。―――ひよのが好きだから。そして、諦めることもできないぐらいに強い気持ちだったから」

 カノンはゆっくり、微笑んだ。
「……子供の、わがままを見ているようだ」
 とっさに、意味がつかめず歩は目を瞬かせる。
「手に入るものを求めず、手に入らないものを欲しがる、子供の駄々を見ているようで、かなり笑えるね」
 石の様に陰影の深い微笑みは、覚悟していた歩ですらたじろがせた。

「君はひよのさんがいなくなってから自分の気持ちに気づいたという。……ちがうんじゃないかな? 君は、手に入らなくなったからこそ、ひよのさんに恋をしたんじゃないのか? 君は、ひよのさんを手に入れたら、今度は理緒に同じ事をいうんじゃないか? やっぱり理緒が好きだった、と」
「……ちがう! 俺は、ほんとに―――ひよのが」
「―――ころころ変わる君の言葉に振り回される周囲の気持ちを、少しは洞察してみたらどうだい? いまとなっては、君の言に一片の価値もない」
 容赦ない言葉。握った掌の、汗の感触が不快だった。
「ぼくは、あのとき、君がひよのさんに浴びせた言葉、一言一句欠けることなく憶えているよ。恥知らずが。なんなら復唱してみせようか?」

 痛みに、歩は顔をゆがめる。……体の痛みじゃない。精神的な痛み。愚かだったかつての自分の過ちを突きつけられる痛みだ。

「好きだ、けれども恋にはできないんだ。……考えられるかぎり、最強の断り文句だね。そう言われれば、頷くことだけができる事だ。どれほど想われても恋愛にできない、そういう相手は誰でもいる。そういう相手に自分を当てはめれば、納得せざるをえない。……そう言って彼女を傷つけ振っておきながら? いまさらやっぱり好きだった? ―――ふざけるな!」

 痛みをこらえ、逃げ出したくなる足に力をいれ、ひるみたくなる気持ちをどやしつけ、動揺を表に出そうとする表情筋を、やっとのところで制御して。
 歩はなんとか、踏みとどまった。

 ここで退いたら最後だ。負けだ。ひよのは永久に手に入らない。
 カノンの眼差しは溶岩口のようで、裂帛の気合いに怖気づく心は誤魔化しようがない。けれど、そのひるみを目の前の相手にだけは、知られる訳にいかない。
 歩は苦笑に近しい笑みをうかべる。
「……ごめん。いまさら言えた義理でないことも、ふざけるなと言われるのも、わかってる。当然だ。でも、退けないんだ」
 歩は胸元に手を当てて、むしろ傲然とカノンを見た。
「あんたが言いそうな事、ぜんぶこの三年で、自分自身に向けて言い尽くした。ひよのが今更俺を受け入れるはずがないっていうのもそうだし、恥知らずといわれるのも、どうしてあの時そういわなかったんだというのも、もっともだと思う。でも、それでも進むと、俺は決めた。怯えたり、ひるんだりはもうしない。何を言われても受け入れるけど、何を言われても、俺は諦めない」

 胸にあるのは、決意と覚悟。
 何かを言われて、ひるんだり揺らぐ恋なら、歩は諦められた。でも、そうじゃなかった。
「俺は、ひよのを愛してる。何年経っても変わらない。あいつが欲しい。だから、俺はあんたと戦おうと思う」
 宣戦布告だった。

 カノンは逆に、それで気持ちを決定したらしい。すっと、目が細くなった。
 その中にあるのは、黒光りする殺意。
「……僕が、それを、黙ってみてると思うのか?」
 目の前にいるのは、殺人者。
 過去何十人となく無数の人間を殺してきた人間だと、思い出させられる顔だった。
「君にとって彼女がかけがえのない相手であるように、僕にとってもそれは同じ事だ。彼女は僕にとって太陽に等しい。あの輝きを奪われて生きていくことなど、できない。生きる為に誰かを殺す事が正当防衛なら、僕にとってこれは同じことだ。君はいったね。言葉で排除はできないと。でも、君ごとき物理的に排除することなど、簡単だよ」
「―――あんたは、できないよ」
 背筋のさむさを自覚しつつ、表になど出してやらない。歩は肩をすくめた。

「あんたの中には爆弾が埋まってる。ひよののことだ、たとえ他のブレードチルドレンには埋めずとも、あんたには埋める。そして、自分で言うのもなんだが俺はちょっとした有名人だ。失踪したら、大騒ぎになる。ここへあんたに会いにくることも、何人かに知らせてる。俺がひよのを好きで、あんたから奪おうとしてることも、何人も知っている。いくら俺を殺し、完璧に死体を始末してのけても、俺が失踪したら、あんた、あのひよのの情報網に、それが捕らえられないと思うのか?」
 世界的な天才ピアニストにして、まだ18歳の『日本人』の少年。
 その失踪は確実に騒ぎになる。
 騒ぎは、ひよのの情報網に捉えられるだろう。そして、ひよのの情報網は、歩がわざと残した「カノンとの不和」の痕跡を発見するはずだ。
 もしもカノンが歩を殺したら、100%に近い確率で、成立する未来。
 歩は、わざとにやりと笑って見せた。
「あんたはできない。ひよのは、必ずあんたが俺を殺したことを察知する。そして―――ひよのがあんたを殺すか、それとも、あんたと絶縁するか。ひよのは潔く公平だ。自分の親しい者であればあるほど、私情をはさんでルールを揺るがしたりしないってのは、あんたが一番良く知っているだろう。ひよのがあんたへの愛のために全てを闇に葬るっていう極少の可能性に、かけてみるか?」

「……」
「―――ってことで、荒事はなしにしよう。俺も、約束する。俺はひよのが欲しいけど、そのために手段を選ばないってことはない。スタートがゼロどころかマイナスだってことも、理解してる。ひよのが拒絶したら大人しく手をひくし、力ずくで無理矢理とかは、絶対しない。正々堂々、戦わないか?」
 その数秒間の沈黙は、人生でも滅多にない緊張だった。
 歩は自信たっぷりでいったが、実際のところ、歩に自信はない。ひよのは、歩がカノンに殺されても、カノンを守るためそれを握りつぶすかもしれない。……少なくとも、高校生の頃ひよのは歩が殺人を犯したらそのぐらいしただろうと、思ってしまうから。
 だからその一言には心底ほっとした。
「……いいだろう」

 そこで、カノンは腕組みした。
「でも、ストーカーにつきまとわれるのはぞっとしない。戦うというのなら、勝利条件を言って欲しいな。それに、それを満たした場合もうつきまとったりいたしません、とも約束して欲しい」
「わかった。……そうだな、二つの場合、もうそれ以上ひよのに付きまとったりしないと、誓う」
「その場合とは?」

「一つは、ひよのがあんたと結婚した場合。もう一つは、ひよのが、俺に、本心から、鬱陶しい迷惑だ、といった場合。どちらも、その時点で潔く負けを認めて、付きまとわない」
「君がひよのさんに会って、その日のうちに後者の条件なんて満たされそうだね」
「そうでもないぜ? あいつ、俺のことまだ愛してる」

 歩はにやっとカノンを見据えて笑ってみせた。
「なんどか、リサイタルの会場で、ひよのを見た。薄暗いホールの、すみっこで、小さくなってたからあいつは気づかれてないと思ってるだろうけど。―――もちろんただ単に俺のピアノが好きだから聞きに来てるってだけかもしれない。でも、俺に未練があるって思うのは、おかしなことか?」
 正々堂々。嬉々として。
 ―――歩は恋敵の神経を削りにかかっていた。
 アイズの話を鵜呑みにはしていないが、カノンが歩をいまだに意識し、ひよのを信じ切れていないのは、会ったときの表情からわかった。

「……つまらないはったりだね。君のリサイタルはいつも満席だろう、どうして一番後ろのひよのさんを見つけられる?」
「そこにひよのがいれば、どんなに人がいたって、俺にはわかるさ。髪を染めても、髪型変えても、帽子を目深にかぶっていても―――」
 カノンの表情がちらりと動いた。一瞬で元に戻ったが。
 それに気づいて、歩は胸が躍る。
 今歩がいっているのは、ブラフ。
 カノンを動揺させるためのはったりである。
 しかし……あるいは本当にそうかもしれなかった。

 歩は最後のカードを差し出した。
「カノン。俺が約束したかわりにアンタも約束しろ。ひよのが俺を選んだら、大人しく認めるんだ」
 カノンはぐっと息をのんだ。
 その言葉を口にするのはさぞ耐えがたかったのだろうが、カノンは歩に約束させ、さらに正々堂々戦うとも言っている。ここにくるまでの言葉のつらなりが、カノンに拒絶を許さなかったのだ。
 歩の作戦勝ちだった。
「……わかった。ひよのさんが君を選んだら、大人しく認めよう」

 ようやくの思いで引き出した言葉に、歩は胸をなでおろした。
 これでやっと、スタートラインについたのだ。
 実のところ、ひよのがまだ自分を愛しているのかなんて、かけらも自信はない。ひよのがカノンを側におくのは、カノンを愛しているからだという論説のほうが百倍も説得力がある。
「あんたはひよのと一緒に住んでる。いくらでも、自分にできるかぎりの妨害工作をしていい。それを卑怯だなんて言うほど、子供じゃないから。……俺も、自分のできるかぎりのことをして、ひよのの心を得ようと努力する」

 背を向けて歩き出しながら、今になって、投げつけられた言葉が突き刺さる。
 今、ひよのはカノンのものではない。カノンがひよののものなのだ。しかし。かつて、ひよのは歩のものだった。
 ―――かつて、彼女は君のものだった。
 あの時、手を伸ばす勇気さえあれば、彼女のすべては今歩の腕の中にあったろうか?

 もやのように付きまとう後悔を、歩は振り払う。
 後悔は、もうしつくした。
 時間が戻ることを悪魔に願うのも、もうやめた。
 時間は戻らない。そんな奇跡は起きやしない。
 でも、ひよのを手に入れることはできる。

 歩は、ひよのを得るために、自分にできるすべてを尽くすつもりだった。

     § § §

 結崎ひよのは多忙な身だ。
 また、VIPとして自分の身の価値を自覚している彼女は理由もなく一人歩きは絶対にしないし、コンタクトの方法は限られている。そのほとんどが、カノンの影響下だ。
 それからしばらくひよのが海外に出かけていたこと、カノンの妨害工作のせいとで、歩がなんとか、コネを総動員してひよのと接触できたときには、二ヶ月が過ぎていた。

 歩の人脈はちょっとしたものだ。
 ひよのの研究施設の視察の予定を事前に聞きつけた歩は、歩のファンのその研究施設の責任者になんとか頼み込んで、一緒に紹介してもらえることになったのだ。
 映像ではなく、生で見るひよのは、高校生のころとはまるで別人のように印象が違った。静止映像では気がつかなかったが、生で見るとまずその年に合わない落ち着きが目に付く。
 ラウンジのテーブルにつき、雑誌を広げているひよの。わずかな待ち時間も無駄にできない多忙さと、そのような横柄な態度が許されるだけの立場の格差があった。
 ……彼女が間近にいた頃は、睫毛の長さを認識する事もなかったのだけれど。
 髪もおさげではなく解いている。柔らかげな栗色の髪が、20歳の女性の背を覆い、流れていた。

 高校生の頃とは違う。
 そこにいるのは、れっきとした地位と責任をになう、大人の女性だった。

 そのひよのの隣には、カノンが立っている。ひよのは外に出るとき常にカノンを同席させる。今回のような仕事の場であっても、会議の場であってもだ。その行き過ぎた愛着ぶりに反発は当然上がっていたが、「所詮は公私の区別もつけられぬ小娘」という軽侮が、周囲を寛容にしていた。
 ……公私の区別をつけているからこそ、ひよのはカノンを同席させるのだが。
 ひよのの身に危険がさらされれば、会社が揺らぐのだから、彼女には最大限の自己保全の努力をする義務があった。しかしこの上品な優男が護衛といっても信じられるものではないし、歩が見たところ、信じさせる手間も惜しんでいた。
 ひよのは、「20そこそこの小娘の下で働く」男の不満を、そうしたことでガス抜きさせているのだろう。いくら男女平等といっても、そうした気持ちは男の中でくすぶるものだ。

 責任者の男性と一緒に現れた歩に、カノンがまず気づいた。一気に表情が険しくなる―――ようなことはない。余人のいる場で、そうたやすく表情を変えて動揺を面に出す可愛げはない。変わらぬ冷静な顔で立っていた。
「お待たせして申し訳ありません、結崎先生。私めはこの施設の管理を任されております柴崎と申します。先生のご活躍は、いつも雑誌等で拝見させていただいております」
 減点1。
 歩は内心カウントする。……ひよのが同様の評価を下していないといいのだが。
 ひよのはその業績に似合わず、雑誌、テレビ等には一切登場しない。彼女の恣意的な情報統制の結果だろう。個人的情報伝達媒体―――ネットだけが、ひよのの情報を伝えていた。

 ひよのは追従の口上を聞き流し、雑誌に目をやっていたが、追従が終わるとやっと顔を上げた。
 その眉が寄せられる。
「あ、こちらの方は、ピアニストの鳴海歩さんという方で……」
「はじめまして。鳴海歩です。僕が無理いって柴崎さんにお願いしたんです。貴方のファンで、ずっとお会いしたいと思っていたんですよ。やっと夢が叶いました」
 白々しく挨拶して、手をさしだす。

 ……なぜこうも記憶のなかのひよのと印象が違うのか、やっとわかった気がした。
 記憶のなかのひよのはたいてい笑顔だった。表情がくるくると変わった。
 賑やかで明るくていつも元気いっぱいで―――
 歩が手を差し出しても、歩が前に現れても、今のひよのはほとんど表情を変えない。―――笑わない。

 ただ、くすりとしただけ。
「ああ……なるほど」
 背骨を鋭利な光が走り抜ける。

 歩は体の影で、手をぎゅっと握り締めた。
 ―――ここから、すべてははじまる。




 根性なし歩の名誉挽回編です。なんとか評判多少なりとも回復したでしょうか、してるといいなあ。
 ヘタレの歩も、やっと前を見ました。
 ちなみに最近原作スパイラルで好きになったのが、「カノンを殺さなきゃと思いつめる歩にひよのがにこっと場違いな笑顔をむけ、歩がびくっとする」シーンだったりします。
 あそこで笑えるあたりが、歩とひよのの度胸の差だよ……。
 ここからはよくある三角関係にはいります。ちがうのはどっちを応援する側もいるってことかな。普通の三角関係では、肩入れする側は決まってますよね。でもどっちも応援したいという三角関係を作りたかったのです。


続編の君にできるあらゆることにいく。

 





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