息を吸い込む。
この期に及んで腰の引けてる自分。昔から、根性なしでいくじなしだ。カーニバルで成長したかと思いきや、こうしてすぐにぼろが出た。
昔歩がリサイタル直前にジュースをひっかけられ、そのままピアノを弾いたことがある。動揺が指先にもあらわれないどうどうたる演奏に、辛口のマスコミ各社も一様に賞賛の評をおくった。
強靭な精神力? とんでもない。
人の強さなんて、数値で測れるものじゃない。目で見て判るものじゃない。
歩も以前、自分が成長したと思える瞬間があった。でもそれはそんなのは単なる誤りで。
逃げ出したく思い、やめたいと思い、やめるための理由をいくらでも思いつき、それらを全て否定してようやく動ける弱さは、そのままだ。
歩はリサイタルの直前の空気を身に帯びて、理緒の住むアパートの前に立つ。
どうしても、やらなければならないこと。
前に、進む為に。
歩はベルを鳴らした。
§ § §
歩の姿を見た途端ドアを閉めにかかったその隙間に歩は頑丈な安全靴を差し込む。
「理緒」
「……なんですか、今更」
「話がしたい」
「復縁の話以外はお断りです」
「醤油ぶっかけてもらっても、氷水ぶっかけられてもかまわないから、話をさせて欲しい」
吟味する沈黙。
「……どうぞ」
意外とあっさり、扉は開いた。
安普請の、小さなアパート。歩は海外公演で飛び回っていたし、この三年というもの、理緒もそれに付き合っていた。日本での生活は短く、次の公演までのつなぎでしかなかった。
ちいさな四畳半の部屋の中央にはコタツがあり、その奥にはベッド。反対側の、入り口脇の台所。そんな部屋だった。
理緒はコタツにつくと、歩に反対側をすすめて、言った。
「……何のお話ですか」
そう改まって切り出されると、ひどく、話しづらい内容だということに、今更ながらに気づく。
「……ちゃんと、言っておこうと思って。ろくでもない言い方しかできなかったから」
「要は歩さんの自己満足ですね」
ざっくり斜めに切り裂く言葉のナイフ。
辛らつで容赦がなくて、なのになぜか快感で。
……頭の切れる彼女の切り返し方は、ひよのに似ている。
たぶん、それが、あの馬鹿というにもほどがある馬鹿で阿呆な若い時代に、理緒を選んだ理由。
「高校生の頃、俺はひよのが好きだった。でも、認めたくなかった。それが、そもそもの始まりだったんだ」
ひよのが男ならよかった。だが、女の子に何度となく助けられ、命を救われてきたという事実は、年相応の感じやすい硝子の自尊心を持つ少年には、いささか重かったのだ。
ひたむきで、真っ直ぐな思い。
ひよのが真摯に思いを傾けてくれればくれるほど、自分を恥じる思いは強くなった。いたたまれず、逃げ出したくなった。
結崎ひよの、の隣に立って、鳴海歩は見劣りなくいられるか。
誰が何を言っても、歩は知っている。不釣合いだと。お前には彼女はもったいないと。
―――どうして彼女はこんなやつを選んだのか。
そう言われるのが恐ろしく、その言葉にがんじがらめに呪縛されていた。
無様なプライドにしがみついて、寄せられる真剣な思いがこわくなって、歩は逃げた。理緒と付き合い始めたのだ。
同時に、自分の思いに蓋をして自分自身からも隠しとおした。
気づかないふり、認めないふり、そうして、ちっぽけなつまらないプライドを守ろうとしたのだ。
何もかも、兄に剥ぎ取られたあとに残されたそのちっぽけな自尊心は、歩にとって何にかえても守るべき最後の砦だったのだ。
強すぎるひよのには、わかるまい。
弱く、みじめな鳴海歩は、天上で輝く結崎ひよのが好きだった。
彼女はあまりに強く燦然と輝いていた。その輝きに、彼もまた魅せられたその他大勢のひとりだった。
その星が地上に降りてきて地べたを這う虫けらを好きだといってくれたとき、歩は、あまりに醜く情けなく弱い自分の姿がその輝きで照らし出されることを恐怖した。そして、最後に残された自尊心を守る為、逃げるしかなかったのだ。
情けない、愚かな自分がそこにいる。
最も愚かなのは―――歩自身はそうした情動のほとんどを、自覚のないまま行っていたということだ。
結崎ひよのを好きだと無意識から意識に変えることは、あまりに危険で本質的に回避した。
まだしも、自覚していれば選択できたろう。
自尊心と、結崎ひよのを天秤にかけて、選べた。しかし、歩は自覚すらせずに、自分で自分に暗示をかけて思い込んだ。―――好みじゃない、と。
そうしたことを最初から、順に、とつとつと理緒に語って、歩は続けた。
「今になって、こんなことをいうのなら最初から―――ずっと、そう思っていたけど、今は、まんざらこれも悪くないと思ってる。俺は―――弱かった。くだらないプライドのせいで、なんて思ってたけど、これも違う。弱いけど、弱いからこそ、俺はそのプライドを守りたかった。守らなきゃいけないものだった。俺が後悔するのは、守り方を間違えていたってことだけだ」
燦然と輝く星を好きになってしまったなら、努力すればよかった。
比較され、陰口を叩かれる事に怯えて逃げるのではなく、つりあうよう頑張ればよかった。
この三年。ひよのへの感情では苦しむばかりだったけれど、手に入れたものもある。
今の歩は、ちょっとした資産家だ。ピアニストとして、名声も得ている。まだ歩は18歳。この年齢で、これは稀有なことだ。
ひよのと並んでも、おさおさ見劣りしない。
そしてもう一つは、苦しむことで、逆にすべてがすっきりしたということだ。
ふるいにかけられた様に要らないものが落とされていき。整頓された。
―――真っ先に落ちるだろうと思っていたひよのへの感情は、三年経ってもふるいの網目の上にあった。
今の歩は、ひよのを愛していると、すなおに認められる。移ろいやすい恋なんかじゃない。滔々とした大河のように、太く確固として筋を残す想い。
ひよのが、好きだ。
「理緒。三年間―――ありがとう。そして、ごめん」
目を合わせ、鳴海歩は、はじめてはっきり別れを告げた。
理緒の眼に、涙の膜がにじむ。照明に照らし出されて、その涙が白く反射した。
「……そんなこといわれて、私がそうですかって、言うと思います?」
「そこまで俺もめでたくない。だから理緒。俺に、してほしいこと、言って。ひよのに関すること以外なら、何でもするから、俺と別れて」
「―――残酷な、ひとですねっ!」
「うん。……我ながらそう思う。理緒を好きになれればよかった。でも、駄目だった。俺は、理緒じゃなく、ひよのが好きなんだ」
残酷すぎる事実を、あえて、口にした。
理緒は顔を伏せる。その黒いつむじが、揺れていた。
「……ひよのさんに、言いにいくつもりですか」
「うん」
「カノンくんや、ひよのさんが……今更あなたを受け入れると思ってるんですか」
「思ってない。でも、言わないままじゃ、可能性はゼロのままだ」
「振られて、戻ってくるあなたを受け入れるほど、私そこまで都合のいい女じゃないですよ……」
「うん。―――振られたとしても、俺はたぶん一生ひよのの事好きだろうと思う」
決定的な一言を、わかっていて、言った。
流れる沈黙は、風船がしぼんでいくのを見るのに似ていた。途切れることなく、流れ出ていくもの。緊張。
さらさらと流れていく、砂時計をじっと見つめるにも似た心境で、歩は理緒の返答をまつ。
理緒は伏せていた顔を上げる。
「もし……私がこういったらどうします? ピアノをやめてくださいといったら、どうします?」
「いいよ」
「え―――」
「何なら、腕の骨を折ろうか? 兄貴みたいに指の骨でもいい。とりあえずしばらくは食うに困らないだけの財産あるし、それぐらいで許してくれるのなら、いくらでもするけど?」
「それぐらいって………ピアノですよ!? あんなに……あなたのすべてで、頑張ってたじゃないですか!」
「うん。でも、それは、なくても生きていけるから」
―――ひよのは、無かったら生きていけない。
残酷な内心を、理緒は察してしまったらしい。
数秒凍りついていたが、顔をくしゃくしゃにして、泣き出した。
理緒は、その外見に反して、滅多に泣かない。三年付き合ったが、歩が彼女が泣くのを見たのは、数えるほどだ。
そのなかでも、変わった泣き方だった。
いつも理緒は、泣いてるところを歩に見せまいとする。でも、今は理緒は隠さない。
頬を、涙が滑り落ちては顎にたまり、服に弾けていく。
うずくような胸の痛みをかんじながら、歩は黙ってそれを見ていた。
「……わかりました。歩さんは、私っていうけじめを、つけにきたんですね? ひよのさんに愛を告げる前に、済ませておかなければならないけじめ。宿題。それが私で、ひよのさんに会うまえに、絶対果たさなければならないこと……。私の為にピアノは捨てられなくとも、ひよのさんのためなら、できるんですね」
歩はなにもいわなかった。言うべきことは、すべて、理緒が言ってしまったから。
「歩さん、お願いがあります」
「―――うん」
「カノンくんは、ひよのさんのこと、本気で愛してます。そして、ひよのさんも、たぶん……。歩さんが、ひよのさんのこと好きでも、無理に分け入るようなことは、しないでください」
歩は苦笑する。俺はとんでもない手段をつかって、なりふり構わずひよのを手に入れようとする卑怯千万の人間にみえるんだろうか?
「愛し合うふたりを無理矢理引き裂くような真似はしない。それは神に誓うよ。俺は、ひよのに、愛してるといいたいだけだから。それでだめなら、諦める」
「……はい」
うなだれている彼女。もう少女とはいえない女性の、細い肩を、再認識する。
それに胸は痛んでも、心は揺れない。
鳴海歩は結崎ひよのが好きで、理緒を愛していなかった。
残酷で絶対の真実。
それでも三年間、歩の心地よい空間を作り出していてくれたのは、彼女だったのだ。
数分……数十秒?
どれだけの時間沈黙のままに流れたのか、理緒は顔をあげ、歩をしっかりとみた。
「歩さん。……お幸せに」
頭を殴られるような過去の映像のフラッシュバックに、歩は目を細める。
あのとき、ひよのもそういった。
―――もう同じ間違いは犯さない。
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