目が覚めると、食べ物のいい匂いが鼻をついた。
「あ、目が覚めました? 今起こそうと思っていたんです」
病人食の定番、卵のおじや、がそこにあった。
「……ありがとう」
上半身を起こすと、彼女は布団の上に重ねてタオルをおき、その上に小さな土鍋を置いた。
「あついですから、気をつけて」
……人に見られながらというのは、意外と食べにくいが、贅沢を言える身分ではない。
息を吹きかけながられんげで食べたおじやは美味しく、塩味もちょうどよく、歩はあっという間に食べてしまった。
「……あの、すみません、『ひよの』って……恋人さんのお名前ですか?」
吹き出すかと思った。
まじまじと女性を見ると、彼女は居心地悪げに身じろぎし、
「寝言で何度も呼んでいたんです。あの、ご家族とかだったら電話しないと、っておもって」
歩は息を吐き出し、言った。
見知らぬ他人という関係が、心の自制を外して口を軽くする。今日別れれば、一生もう二度と会わないだろう。
「……家族じゃないし、恋人でもないよ。俺の、好きな相手」
「かたおもい……なんですか?」
あなたが? と、癇に障るほど強い疑問形が含まれていた。
「高校時代の女ともだち。現在、他のヤツと結婚直前。たぶん、一生好きなままだと思う相手」
そっけない口調ながらも、それだけ言ってしまったのは、ぼうっとする頭のせいだろうか? それとも、他人だから?
「えーっと……。ずいぶん、何と言うか、一途なんですね……」
まったくだ。もう、二年以上経っているのに忘れられない。忘れようと努力しても駄目で、忘れまいとしても駄目で、心に広がる空間は、大きくなるばかりで。
……あきらめようとあがくのにも、疲れた。
「すてきな人でしたか?」
「……ああ、ものすごく」
この世に、ふたりといない。あんな女。
「告白、したんですか?」
なんというべきか。
複雑な事情に思わず返す言葉に迷うと、彼女は否定と思ったのだろう。言葉を継いだ。
「あの、傍観者の勝手な意見ですけど、告白とかしちゃうってのは、いかがでしょう?」
「……告白はしてないよ。されたけど」
「……された、って?」
「その頃は、好きだなんて気づいてなかったから……、ものすごく傷つけて、振った。その後気づいても、もう後の祭りで……」
こみあげてくるものにそれ以上言葉にすることができなくて、歩は目を閉じる。
ひよの。
何度も何度も、心の中でのせた言葉。たった三文字の言葉が、彼女のものと思うだけでたまらなく愛しくなる。
ああ、初対面の赤の他人になにこんな事まで言ってるんだ、熱のせいか?
「あとのまつり……って、その人恋人つくっちゃったんですか?」
「うん。……物凄い最低の、振り方したから。彼女の側には、ずっと彼女の事見てたヤツがいて……」
カノン・ヒルベルト。
恨むのは筋違いだと、思えるぐらいの理性の持ち合わせはある。
悪いのは、全て自分。
気づく事に恐れて、認めなかった自分なのだ。
「俺も、彼女いて」
「で、そのまま……なわけですか?」
「そう……だけど」
問われるままに答えながら、話すことに抵抗がないことに歩がいちばんいぶかっていた。
目の前の女性の名も知らないことと、赤の他人である事。気弱げでそれでいてがんがんつっこんでくるトコロのせいかもしれない。
「あの、部外者の勝手な意見ですけど」
そう断ってから、彼女は。
「告白すべきだと思いますよ? ひょっとして、彼女があなたをまた見てくれるかもしれないじゃないですか。見てくれない可能性ももちろんありますけど、今のままじゃ、百年経ってもゼロです」
「……いまさらだよ」
「今更でも、です。手ひどく振ったから、躊躇っているんですか? 手ひどく振ったこと、後悔してるんでしょう? その事についてあなたを許せるのは、傷ついた彼女だけです。彼女に、選ばせればいいじゃないですか。自分を傷つけたあなたを許せるかどうか。許して、あなたを受け入れるかどうか。スタートはゼロじゃなく、マイナスですけどそれでも彼女を勝ち取れるかどうか、選ばせてみたらどうですか?」
歩は息を吐き出した。
……正直言って、ひよのやカノンに合わす顔がない、というのが本当のところだ。
ひよのの側にはつねにカノンがいた。ひよのが卒業してからというもの、群集のひとりとしてしか二人に会ったことはなかったし、会えばどんな言葉を投げつけられるかも、想像がつく。
両名、頭がきれることは保証つきだ。
その切れる頭で最大限、歩の魂まで切り刻む台詞を大盤振る舞いするだろう。……ひよのはともかく、カノンは確実だ。
(―――それを恐れて、俺はこれまで会おうともしなかったのか?)
ふと気づいて、歩は雷に打たれたようなショックをうけた。
二年の間、一日として忘れたことはない二つの名。忘れないということは、懊悩するということだ。
懊悩はピアノに反映し、歩の音色に艶を刷き加え広がりを見せた。
恋を知らなかった少年の、恋を知りその苦悩を知った奥行きは、聞く者の耳に印象深く響いたのだ。
名も知らぬ彼女の言葉は、部外者だからこその一面の理をカットしている。
悔いているなら本人に会って許しを請えばいい。
好きなら、告白すれば良い。
告白もせず、どうして諦める?
諦めようと努力するだけで、歩は、結局、問題に向き合った事は一度もなかった。
悔いて、悔いて、悔い続けて。
それで、事態は進展したか?
なにもしない。ただ、どん底をはいまわりながら理緒を好きになろうと無為な努力をかさね、彼女を傷つけ絶望させただけだ。
―――私、待ちますから。歩さんがひよのさんを忘れられるまで、待ちますから。
理緒はこの三年で、すっかり女性らしくなった。
背も伸びて、もう小学生には見えない。小柄ながらも、可愛い女性にちゃんと見えるようになった。
海外のリサイタルにも理緒はついてきてくれた。なにくれとなく世話をやく彼女はすでに関係者の間でも周知の間柄で、何もいわずとも、理緒のぶんまで飛行機やチケットを用意してくれた。……ホテルまでも同室にされたのは、さすがに困ったけれど。
いつもはかえてもらうホテルの部屋を、変更しないでといわれたのは、先日。
キスも、抱擁もできた。でも、どうしても駄目だった。
人並みに、欲望はあるつもりで、相手は好ましい女性で、何年も恋人として付き合ってきた相手なのに、どうしても……抱けなかった。
ひよのの顔がちらついた。もう、何の関係もない相手なのに、想う資格までもなくなりそうで。警鐘のように頭をうちならし、強く引き止める引力を、歩は結局無視できなかった。
気まずいまま日本に帰って、理緒に、別れを告げた。
これ以上、理緒を、自分の犠牲にはできなかった。貴重な十代を、三年も自分なんかに使わせた。
忌々しい確信がある。
清らかな悟りがある。
一生、ずっと自分はひよのを愛し続けるだろう―――。
その思いは、三年を経て確信になった。
三年、焦り悩み悔やみ苦しみ、それでも忘れられなかった。油性マジックのごとく頑丈に書き加えられた名は、いばらの棘のように、心を縛り付ける。……その呪縛を、喜んでいる傲慢な自分が、確かにいた。
「……傷つきたいんだ」
ぽつりとこぼれた言葉は、本音。
歩はばさばさの前髪をかきあげて、そのまま掌に顔を押し付ける。
「傷つきたいんだ。傷つかなきゃいけないんだ。俺は、それだけのことをして、みんなを傷つけたんだから……!」
理緒は別れを切り出したとき、信じられない行動に出た。
理緒は外見は幼くとも、一人で立つことを知る、自立した強い女性だ。その彼女が、恥もプライドもかなぐりすてて、潔さの欠片もなく、歩にすがりついたのだ。
なんでもするから。
ひよのさんのことが好きなら好きでかまわないから。
二番目でいい、遊びで良いから、一緒にいて。
……苦い、罪悪感の味が口中に広がる。もう慣れた味、砂をかむような、不快な味だ。
歩は理緒の言葉に頷けなかった。理緒が服をつかむ手を力ずくで外して、体を押しのけて、外へ出た。
一つの思いのために見苦しくなれるほど、彼女は真剣だったのだろう―――歩に。
「傷つけたぶん、俺も傷つかなきゃ、だめだ」
ぼろぼろになりたい。傷つけてしまったぶん、自分を傷つけることで償いたい。
彼女は面白がる風でもなく、さりとて身をのりだす風でもなく、自然に聞いていたが言った。
「―――それって、あなただけが満足するんじゃないですか?」
ど素人の撃った矢が、急所を一撃した。
強烈なボディブローに肺の空気をのこらず吐き出して、歩はかたまった。
「それに、私の所見をいわせていただければ、あなた、どこからどうみても幸せそうには見えませんよ?」
……連続攻撃に、息もつげない。
「不幸な人が償いをって、おかしいですよ」
歩はやっと、まともに顔をあげて彼女と正対した。
「ずけずけ……言うね」
「そういう性格なんで。あなたは、忘れているんだと思いますけど。―――あなたにも、幸せになる権利は、あるんですよ?」
歩は瞠目する。
その一撃は歩の中、胸中深く浸透した。
「傷つけたから、償わなきゃいけない。それはそうですけど、あなたが傷つくことで、あなたが傷つけた人は心慰められるんですか? でなきゃ、単なる自己満足です」
「……」
「そうじゃないみたいですね。じゃあやっぱりそれで幸せになる人は一人もいないじゃないですか。貴方は誰かを傷つけたかもしれない。でも、そういう貴方も、幸せになる権利を持ってる人なんですよ? だとしたら、すべき事はその無駄な自己満足からさっさと卒業して、前向きに償いを考えて、あなた自身の幸せをつかみ取りに行く事だと思いますけど」
いつのまにか食い入るように、視線で串刺しするように見据えていた、名もしらない他人から、歩は視線を引き剥がした。
―――これは、名も知らない他人に言われたからじゃない。
歩だって、ずっと考えていた。
幸せをつかみにいく。
傷つけてしまった理緒の顔に、自分も傷つくことを望みながら、ずっとそうしたいと思っていたのだ。
……歩の幸せは、ひよのにしかない。
ひよのの隣には、この三年ずっと変わらず、カノンがいて。
ひよのがカノンを選ぶとしても、言わなければ、自分は前に進めない。ひよのが誰を選んでも、歩はきっと、ひよのを一生愛し続けるだろうけど、区切りはつく。
だから歩はふわりと微笑んだ。傷口に沁みていくような笑顔だった。
「うん……そうだな。そうする」
「あの。それでですね。こういうことは最初にすべきだったと思うのですが」
コードレスの電話機を彼女は手渡した。
「ご家族とか、関係者とかに電話しないと」
「ああ……そうだな。―――しまった、財布もない」
ふらつくとはいえ動けるようになったことだしタクシーで帰ろう、と思ったが、財布がない。
「連絡したら、迎えに来てくれる人ぐらいいるでしょう?」
「あんた……?」
鈍い頭にようやく血がかよう。
『関係者』。……あまり出てこないことばだ。
見返すと、彼女はあっさり吐いた。
「世界的ピアニストの、鳴海歩さんでしょう? 貴方のファンです」
了解。いきなり初対面の男を連れ込むのは、変だと思ったのだ。
「……お礼は、リサイタルの特等席チケットでいいかな?」
「ハイ! あ、今日聞いた話、オフレコにしておきますから。私、こうみえても意外と口堅いんです」
茶目っ気たっぷりに口元に指を当てる仕草と、喋り方が、すこし、ひよのに似てる。
その笑顔に、ころりと転がってきたのはおむすび―――ではなく、記憶だった。
(う、うわ……!)
思い出した記憶に赤面しないよう歩は必死だった。
昨日の夜、歩は、彼女にすがって泣いた。
うわごとにひよのの名を繰り返しながら、「ごめん」「許して」「好きなんだ」……素面なら、とてもいえない言葉ばかりを訴える歩の背を撫でてくれた。辛抱強く。
情けないこと、この上ない。
―――思い出してみると、彼女がひよののことを聞いてきたのも納得がいく。
そりゃあ、気になるだろう。
大の男がいくら熱でぼうっとしてるとはいえ、みっともなく取り乱して泣き喚いたのだ。
つとめて平静な顔をとりつくろって、チケットの送り先として、住所をメモに書いたものを受け取る。
連絡したマネージャーはすっ飛んできた。
別れ際、彼女は微笑む。
「あなたの恋に、前途の祝福がありますように」
もう一つ似てるところを見つけた。―――屈託の影を、かけらも見せない笑い方。
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