白霧の朝に 5

 

 

 三度目の再会は、彼女の方からキールを訪ねた。

 キールは家の畑で、父親を手伝って家庭菜園の畑仕事をしていたが、彼女がいるのを見ると、彼女のことを見えない父親に断りをいれて、場を離れた。

「なに? また何か仕事?」
 この一月で、三回ほどこきつかわれている(無報酬で)キールは、うんざりした様子だった。
『いいえ。ただ単に、あなたと話したかったのです。……時間はいいですか?』
「長くかかる話? ……ちょっと待って。ナギに断ってくるから」
 長めの髪の大人(性別男)のところに戻って許可を手に入れて、子どもは戻ってきた。

『なぜあなたはあんな男に従うのですか?』
「あんな男……って。あのね。死の精霊。あなただから一度は聞き流すけど、二度目はないからね。家族への侮辱は許さない」

 その言葉を無視して、ただし侮辱はさしひかえて、彼女は聞いた。
『調停者であり、シミナーであるあなたが、なぜ従うのです?』
「親だから」
 と、子どもは子どもらしくなく、きっぱりと言った。
 もっともこの子どもが子どもらしい行為をとるほうが少ない。
 それぐらいは彼女も悟っていた。

「ナギは、おれの親だ。だからそれだけでいいの。それだけでおれに命令する権利があるの。ついでに言うと、ナギはおれが調停者だってこと、知らないからね。ま……言っても信じないと思うけど。……とにかく、そんなことを聞きにきたんじゃないんだろ?」

『どうやって闇の精霊を殺したのです?』
 それが、彼女をここまで来させた誘引力の最たるもの……ではない。
 彼女は単純に、ふたたびこの子どもに会いたくて来たのだ。
「ああ、それね……」

 キールは言いかけ、口を閉ざす。
 彼女がキールの体を素通りしてみせたのだ。
 見えるキールはさすがに気持ち悪そうな顔になった。
 精霊は物質の殻がないので、このぐらいのことはできる。
 つまり、あのとき、キールの腕が闇の精霊を貫いていても、それで損なわれることはまったくないのだ。

「闇の精霊はやっぱり再新生してたんだ? 精霊との戦闘はおれも初めてだったんだけど……、へー。結構おれって強いじゃん」
『どうやったんですか?』
「精霊は、物質じゃないだろ。だったら物質じゃないもので、攻撃すればいいんだよ。
それ以上は、ないしょ。で、闇の精霊は頷いた?」

『ええ。ただし、二度とあなたは闇の精霊の前に姿をあらわすな、とのことです。ないしょ、ですか?』
「おれに、命令する?」
 子ども特有のつやつやの肌の丸い顔。
 その顔に、キールは不思議な表情をうかべていた。
 静かな水面にうつる影のように、静けさと、一抹の寂しさを共有している顔……。

 精霊は、厳格な階級制が支配する。
 キールは第三位。
 彼女は第二位。

 彼女が命令して、この子どもが拒むのは、とても困難だ。精霊で同じ事をすれば、即座に存在が抹消される。人間であり肉の体をもつキールはそんなことはないが、それでも拒絶するのは難しい。
 精霊のことを考えれば、死の精霊である彼女はここで、頷いておくべきだった。
 うなずいて、命令だ、と言って、キールから無理矢理それを聞き出して……。
 ―――なのに、彼女の口からすべりおちたのは、否定の言葉だった。
『いいえ』

「そう。よかった。……おれね、精霊が、見えるんだ。ほんとに生まれつきに、そうなんだよ」
『うまれつき……?』
「うん。―――精霊を見る能力って、どういう風になってるの? 普通は。聞いてもいい?」

『……心清き者だけが精霊を見ることができる……。そんな物語の一節が、巷間に流布していますね。あれは、ほとんど事実です。ただ、心清き者ならば誰でも自然に見ることができるようになるのではなく、精霊が選んで、与えているのです。誰も人間も精霊を見る事が出来ないのであれば、精霊を恐れる者がいなくなってしまい、長い時間のうちに、精霊は空想上の生き物とされてしまうかもしれない。ですから、それを防ぐために、精霊は、悪用しないような人物を選んで、能力をさずけるのです。子供の頃か、赤ん坊の頃に。
―――あなたが、選ばれた理由も、わかります。あなたの魂はとても自然だ。まるで、底の見えないほど深い澄んだ湖のように、澄んでいながら、中をのぞき見ることができない。
 あなたは、殺人に手を染めていながら、いささかも、魂を濁らせていない……それが、好かれたのでしょう』
 キールは黙って聞いていたが、頷いたのか、否定したのか、判らない仕草で頭を振った。

 そこに彼女は話し掛ける。
『―――あなたは、これ以上人を殺めるべきではありません』
 子どもは、彼女を見返した。
 平易な眼差し。けれどもその視線に、彼女のなかにざわりと波が立つのを感じる。
「……それ、矛盾しているよ。調停者の仕事で、殺人を命じられたら、どうするの? あなたたちは、そういう仕事をおれにさせるために、おれを選んだんでしょう。瘴気浄化能力者は、殺し放題だからね」
『……否定はしません。ですが、それでも、あなたはもう、同胞を殺してはなりません』

 子どもはやれやれという風にかぶりを振る。そして言った。
「じゃあ、どうしろっていうの?」
 張り詰めた、子ども特有のカン高い声。
 それは清閑な森の大気に、よく響いた。

 キールはしまったと呟いて、指を動かす。
「盗聴禁止結界張るの、忘れてた。じゃ、話を元に戻して……、じゃ、どうしろっていうの?
 おれはおれに誰かが危害を加えることは、我慢できる。でも、家族に危害を加えられるのに、我慢なんてできない。家族を傷つけられるぐらいなら、百人でも他人を傷つけるよ」
『それでも、あなたは殺してはなりません』
 子どもは真顔になった。
「……それは、何故? そう言うのは、何故? あなたが、死の精霊だから?」

『いいえ。あなたを、貴重に思うからです。あなたは私を恐れない。私を恐れない者が私の前に立つのは、初めてのことです。―――私が憶えているかぎりでは、ですが』
「……だろうね。おれも、自分が異常だって言う認識ぐらいはあるよ」
『だから言うのです。今まで誰も、あなたに言ってくれはしなかったでしょうから。あなたのことを知った者は、皆、死者の列に加わったでしょう。
 ―――あなたはもう、人を殺めてはいけません』
 キールが、自分の服の裾を、拳でにぎりしめる。
 奇妙に間延びした瞬間。
 キールはその長い長い一瞬を強ばった顔で通り過ぎた。

「……人を、殺さないこと自体は、難しくない。おれは殺したくて殺しているんじゃないから。でも……、じゃあ、おれが諾と答えれば、あなたが、おれを守ってくれるの? ナギやイールを、守ってくれる? 約束してくれれば、おれも約束する。人はころさないって、約束できるよ」
 それはキールが、ぎりぎりの線で差し出した真実なのだろう。
 しかし、その差し出された手を、彼女は受け取ることができなかった。

『……調停者であるあなたは、守れます。ですが……』
 キールの面に、諦めとほろ苦いものが浮かぶ。
「―――おれの家族は、守れないんだね。だったら、意味ないよ。だからこの話はこれでおわり」
 キールは「大人」の表情でそういうと、素早く話を変えた。

「あの場にいたのは、全員第二位の精霊だよね?」
『ええ』
「にしては、なんか、光も闇も、あなたをはばかるようなところがあったけど?」
 彼女は驚いた。
 あの状況で、そこまで冷静沈着に観察していたとは。
 キールより100も年上の大人ですら、そんな風に対処できる者はほとんどいないだろう。

『それは……』
 言いよどむと、子どもは言った。
「いいよ、言いたくないなら言わなくて。おれは人間だしね。精霊の世界のなんかのごたごたは、よくわからないし」

 ……彼女はどうして、こんな突き放されたような気持ちになるのか、よく判らなかった。
 この子どもは彼女を気遣って、そう言っているのに。
 判らないままに、彼女は話し始めた。
『私は死をつかさどる者。そして第二位の精霊のうちで唯一、自由に世界をとびまわることができるものです。あそこに光と闇がいた、というのは、彼女たちにとってかなりの無理があることだったのです。下位の精霊……第四位の風や火による説得が効をなさないのをみて、出てきたのです。苦手な私にまで声をかけて』

「ま、それは正解だったよなー。だって、光と闇の精霊だけならおれ、さっさと殺してそこで終わりだったと思うよ? だって、再び新しく生まれたら、記憶、ないんでしょ。何計画していても、記憶がなくなれば、そこで終わりじゃん」

『ええ……。精霊ですら、死を恐れます。記憶の抹消を。そして、精霊同士の争いは、同階級の者同士でしか、ありません』
「あ、そっか。階級制が堅固だから……」
『はい。階級が違うもの同士の争いは、そもそも争いにならないのです。高次の者は、下位の者に命令できますから。そして、私は死をつかさどる者。光も闇も、私には敵いません。そして私たちは、同じ階級です』

「なーる……。争いになったら、死の精霊であるあなたには敵わないから、二人ともあなたの事は尊重して一歩引いていたわけね」
『それと……私は、相手に、恐怖を感じさせます……』

 彼女はキールをみた。
 ……まだほんの小さな子どもだ。
 しかも人間だ。
 なのにどうして、彼女はこんなことを、ぺらぺらとしゃべっているのだろう?
 どうして―――と考えて、一つの答えに行き当たった。
『あなたは……どうして私を恐れないのですか?』
 人も、精霊も、いや、すべての生き物が、本能として死を恐れる。

 キールはちょっと沈黙し、隣の木立に目を向けて、言った。
「……おれは母親の死に塗れて生まれた」
 それまでの飄々として軽い口調とは違った、一本背骨の通った声だった。
 彼女は意外に感じ、キールを見やる。
 この子どもが、自己の内面に深く関わる話をしようとしているのは、明らかだった。

「自分の手でも、幾十という命を手にかけた。命は、とてもあっけなく死へ変わる。命を死へ変えるのは、とても簡単なことだと気がついた。そして同時に、自分が上手く……とても上手くできることにも気づいて、危ないと思った」
『あぶない?』

 キールは目をふせる。決して彼女の方は見ない。
「……生死に無感動になってしまったおれは、いつか、ナギやイールを、殺してしまうかもしれない。一緒に暮らしているんだ、どうしたって、腹の立つ瞬間はある。そういうとき、命を殺めることに慣れたおれは、彼らを殺してしまうかもしれない。そしてそうなっても、決して咎められないやり方を、おれは知ってる」
 死体の後始末。
 嘆きくれる演技。
 決して、疑われないような、そんなやり方を、彼は知っている。

「だから、おれは自分にいくつもの鎖をかけた。
 人を殺してもいいときは危害を加えられたときだけ。家族を傷つけられたときだけ、それも命に関わるようなときだけ―――。でも、そうして生死に無感動になっていくと、自分の命ですら、大切に思えなくなっていることに、気づく。刃物を首にあて、薄皮一枚軽く裂く。それ以上は刃を進めないのは、おれが、シミナーだから。そして、死ぬ理由がないからだ」
 真っ向から死を見据えて生きてきた子どもの言葉に、彼女は知らないうちに呑まれていた。
 先日聞いた、彼の願い。
 おれの、望みはね―――……

 おれの魂をぼろぼろにして。殺して。砕いて。
 かんがえるのには、もう疲れた。
 二度と何も感じず、考えることもしなくていいような深淵に、おれをしずめて。

 何故、そんなことを願ったのか、彼女は理解した。
 ―――この子どもは、生きることに飽いている。
 だからこそ、なにも、思い煩うことなく、死を恐れることもないのだ。生に、なんの執着もないのだから。

 そしてだから、死を、強がりでも虚勢でもなく本心から心の底から、恐れていない。
 ……だから、彼女をも、恐れない。
 死を恐れぬ者に、出会うとは、思わなかった。

 キールは振り返り、彼女に向けて笑う。
「ねぇ、死の精霊。おれは世界中で、たったひとりだ。
……聞いていい? あなたの名前は、なんていうの?」
『名前……ですか?』
 彼女は戸惑った。
「うん。ともだちに、なろうよ」

 かなり長い間、彼女はキールの言葉を理解できなかった。
 誰かから、好意を含む言葉を投げかけられるのは、彼女にとって初めての経験だった。
『友達……ですか』

「うん。まさか、死の精霊、なんて名前じゃないでしょ」
『……ないのです』
「え?」
『私に名前はないのです。必要がありませんでしたから。光や闇には、たくさんの配下がいます。彼女たちの名は、その配下の誰かがつけたか、自分でつけたのでしょう。名前がなければ呼ぶ際に不便ですから。ですが……私を呼ぶ者は誰もいません。だから、ないのです』
 キールは腰をかがめた。
 気がつくと、彼女の目の前に、キールの小さな顔があった。
 至近距離で、目線をあわせて、子どもは告げる。厳粛さすら漂わせ。
「―――じゃあ、おれがあなたの名を呼ぶよ」

 触れ合うことはできない。
 一生。
 でも、心を触れ合わせることはできる。

「おれがあなたの名前をよぶ。名前、おれがつけてもいい?」
『キール……』
 彼女が見つめるなか、キールは目をふせた。
 考え込む様子で、首をひねる。
 そして顔をあげると、こう言った。
「リルレーン。リルレーンって名前はどう? 気に入らない?」

 彼女は呆然としていた。
 続発する初めての事態に、認識能力が追いつかなかったのだ。
『いえ……』
 誰かに名前をきかれること。
 だれかが自分をおそれず話しかけること。
 だれかが―――。

 ―――そんな日は、永遠に来ないと思っていた。

「リルレーン。気に入った? おれは、あなたをその名前で呼んでいい?」
『キール……』
 彼女は、人間が流す涙を理解できなかった。
 生理機能としての涙はわかる。目の中に塵が入ったとき、払いのけるための液体としては。けれど、悲しいときや、それ以外にも感情が高ぶったとき、どうして涙をながすのか、わかったことはなかった。
 けれど、いま、やっと、人間が涙をどうして流すのか、彼女は理解した。
『ともだち……、とは、どうするのですか?』

「も、友達だろ。あなたは、おれに命令できるのにしなかった。命令したほうがいいのに、しなかった。それってもう、友達だよ。……初めて、会ったときから、友達になりたいって思ってたんだ。あなたが、あんまり、おれとよく似ていたから。おれは、そういうの、わかるんだ。あんまり寂しくて、長い長い間それが続いて、だから、自分が寂しいことすら忘れてしまった……」
 キールの、言葉にならない言葉をはっきりこころの奥で感じた。
 ひとりじゃ寂しいけれど、二人なら、寂しくないよ。

「リルレーン。……リルレーン。昔のね、御伽噺の主人公の名前だよ。気に入った?」
『……はい』
 キールはにっこりとあどけなく笑う。子供らしく、年相応に。
「じゃ、今度から、おれはその名であなたを呼ぶことにする」




 ―――それでも、最初の頃は信じていたときもあったのだ。
 いつか誰かがやってきて、自分を救ってくれる。
 あるいはいつか、何かの変化が起こり、自分は救われる。
 あるいはいつか、この全てを終わらせることのできる方法が、「いつか」見つかるものだと。
 ……そう、信じていた頃もあったのだ。
 いまはもう、信じるとはどういう風にするのやら、それすらわからなくなってしまったのだけれど。


 信じるということすら放棄した今になって、初めて、彼女は求めていたものを手に入れた。
 いつ終わるとも知れない暗い夜に、日がのぼる。
 夜は終わり、そして、朝がはじまった。


……予定通りの枚数で終わるのって、ものすごーく珍しいんではないかしらん?
 というわけで、「白霧の朝に」完結です。……が。おばかな私は、オリジナル作品リストの方では、「朝霧の朝に」にしてました……。

 どーかみなさんっ! 杉浦のオバカなミス(作品リストからや、next、backのリンク切れ、誤字脱字など)を見つけられましたら、ぜひぜひご報告お願いしますっ!
 お礼に、杉浦から溢れる感謝をさしあげます。ご希望ならリクエストも受けますんで、間違い指摘、お願いしますっ!

 

2002 1/25 up

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