白霧の朝に 3

 

 

 それでも、最初の頃は信じていたときもあったのだ。
 
 いつか誰かがやってきて、自分を救ってくれる。
 あるいはいつか、何かの変化が起こり、自分は救われる。
 あるいはいつか、この全てを終わらせることのできる方法が、「いつか」見つかるものだと。

 ……そう、信じていた頃もあったのだ。
 いまはもう、信じるとはどういう風にするのやら、それすらわからなくなってしまったのだけれど。

      § § §  

 子どもは、死の精霊をみつめた。
「おれが欲しいものはね―――」

 聞き取って、彼女は驚いた。
 おおよそ、そんなものを彼女に望んだ人間は、いまだかつてなかった。
『何故そんなものが欲しいのですか?』
「いいじゃん、別に。ねぇ、俺の望み、あなたは叶えられるの?」
『人間はもっと、別のものを欲しがると思っていましたが』
 子どもは首をかしげてみせた。年相応の、可愛らしい仕草。
「不死とか、お金とか、誰かに認められることとか、大切なひとを生き返らせることとか? いらないよ、そんなもの。おれ、シミナーだもん」
 ころころと、花を振るように、笑う。
「お金なんて、その気になればいくらだって手に入る。名誉とか、地位とか、そんなものもおれがその気になりさえすれば、明日にだって手に入るんだよ?」
『……永遠も、欲しくはないのですか?』
「この世に、変わらないものなんて、ないよ。あるとしたら、それはどこか歪んでいる。歪んでいるものは、欲しくない。ねぇ、おれの望み、叶えられる?」

 彼女は返答に窮した。
 数秒間の沈黙が場におちて、その間に、子どもの顔が目まぐるしく変わる。
 期待から失望。失望から、最初に出会ったときの、平易な顔に。
「……そっか。できないなら、じゃ、仕方ないね」
 小さな体をぜんぶ使った、ため息が聞こえた。
「……これだから、期待するのって嫌なんだよな。裏切られると、ツライから。だから期待するのはやめようって思ってるのに、時々こうして期待しちゃうのが、おれの悪いクセ。
……ああそうか。『聞いてあげる』としか言ってなかったっけ。あなたは嘘はついてないね。じゃ……おれ、そろそろ行くよ。二度と会うこともないだろうけど。さよなら、死の精霊」

 死臭と、血臭にみちた空間での初めての出会いは終わった。

 ほろ苦いものを残して子どもは立ち去り、彼女もまたその場を後にする。
 そして、双方ともに、これが最後の出会いであると思っていた。

 しかし気まぐれな運命は、彼らに再度の出会いを用意していた。

      § § §  

 精霊は、この星のほとんどの土地を占有している。
 立ち入る人間があれば追い出し、警告し、時には実力行使を行うこともある。
 人間の土地の周縁部に住んでいる子どもは、大抵一度や二度は精霊の土地に踏み入り、つまみだされた経験をもっている。彼らにとって精霊は遠い世界の住民ではなく、身近な存在だった。

 そしてここからは人間は知らない事実だが、精霊の間にも縄張りはある。
 とはいっても、人間の言うところの、縄張りとはいささか事情がちがう。
 住み分け、といったほうが近い。
 地主が土地に縛られるように、精霊は自分を具現化したものに縛られるのだ。たとえば木の精霊ならば、その木に縛られる。そして己の元となった物質を、「原型」と呼んでいる。
 物質を持たない彼らの、唯一の急所だ。
 ほとんどの精霊は原型をもち、そしてそれから長距離は離れられない。
 自然、一つの地域にいる精霊は決まった顔ぶれになる。

 その法則の例外となるのは、より高次の精霊、抽象的な概念から結晶化した精霊たちだった。
 たとえば光。
 たとえば闇。
 たとえば死。
 たとえば水、土、火、風―――。

 彼らは原型を持たない、より高次な精霊だった。
 そして、だからこそ、どこであろうと移動することができるのだ。
 彼女もそのひとり。
 精霊のなかでも彼女を恐怖させることのできる者はいない存在だった。
 そして、彼女を恐怖しない存在も、また、ない。

 彼女は死である。
 死、そのものである。
 精霊にとってすら、死は存在していた。
 原型を持つ精霊は、原型を破壊されたとき消滅を迎える。
 原型を持たない高次の精霊には、消滅はない。ただし、死はあった。
 積み上げてきた記憶、人格が全て無に帰す。抽象的概念の結晶である高次の精霊は、死を迎えた次の瞬間には新たな生をむかえている。けれども、「おのれ」が消えてしまうという一点において、人間が死に対して本能的に抱く恐怖と、まるで違いはなかった。
 彼女はそこでようやく、どうして自分があの子どもに興味を抱いたのか、思いついた。

 あの子どもは、彼女を恐れなかった。

 相対した者から恐怖の波を感じなかったことは、ひょっとしたら初めてのことだったかもしれない。
 彼女と同格の精霊は、ふたりとも己の領域にたくさんの精霊を従えている。
 けれど、死の女王の領域には、誰もいない。
 彼女はひとりだった。
 これまでも、そして恐らくはこれからも……。

 死の満ちた空間。
 人間の目では、ここは、さしずめ宇宙空間と等しく思えるだろう。
 一片の光もなく、闇で満たされている。ゆえにどんな場所か推し量ることもできない、広大な空間だと。
 けれど闇を透過する精霊の眼差しで見据えれば、この場所が、ありとあらゆる生物の死で満ちあふれていることが、わかるはずだった。
 この空間に居ると、さまざまな死が、彼女を通り抜けていく。
 彼女にとって至福の時間だったが、今彼女は別の思索に思いをめぐらせていた。
 ―――なぜあの子どもはあんなことを願ったのだろう?

 彼女はふと、顔をあげた。
 誰かが、彼女を、呼んだ。
 珍しいことだ。
 興味をひかれた彼女は、自らの領域から一歩足を踏み出し、現実世界へ顕現した。

 彼女の空間から現実世界へと移ると、そこには光の精霊と闇の精霊がいた。
 ともに、彼女と同じく第二位の階級にある者。
 しかし、光と闇は、彼女とはちがって、外をうろうろできるような体ではないはずだった。

 闇の精霊はずばり切り出した。
『新たに、人間の調停者を立てようと思う』
 そうですか、と彼女は返した。
 大抵の精霊と等しく、彼女にとって人間というものは、最大限好意的に考慮しても害虫という程度の認識しかなかった。
 稀に、その害虫のなかから比較的マシな虫を引き抜いて調停者にしても、調停者の位は第三位。第二位の彼女には何ら関係なく、思い上がった態度をとったその時は、身の程をわからせてやるまでだ。そう考えていた。
 しかし、それがどうして彼女を呼び出す理由になるのか。

 どの精霊も、彼女とはできるだけ距離をおくことを考えている。
 死と、出会いたくないと考えているのだ。
 それを好き好んで会いにきた以上、それなりの理由があると考えるべきだった。

『しかしこれが、難儀な相手でな。なだめてもすかしてもガンとしてうんとは言わない。だから貴方の力を借りたいのだ』
 なかなか、頭のいいことだ。
 調停者といえば聞こえはいいが、現実はただ単なる精霊の使い走り、便利屋、雑用係である。
 これまでの調停者のほとんどは、それに気づかず、精霊の申し出にむしろ誇りをいだき、ほいほいと頷きを返したものだった。そして一生気づかずにすごせばむしろ幸い。気づいてしまった不幸な人間は、さりとて調停者をやめることもできず、一生精霊の便利な道具として使われる。
 今代の調停者は、それがわからぬほど馬鹿ではないらしい。

『その人間の名前は?』
 その質問に、いたって軽い様子で返された言葉に、彼女は返事を返すことができなかった。
『……キール・スティン……ですか……』



 こうして、二度目の再会が決定づけられた。


 『精霊を見る能力は天性のものではない』というのは、ずいぶん前、ちゃんと、「確率」の中に伏線を張っておきました。確認してみてください。……誰も伏線だとは思ってなかったんじゃないかなあ?
  シンの台詞で、「精霊を見る能力だけは、はっきりとした確率が出ていない」というのがそれです。

2002 1/20 up

 

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