白霧の朝に 1
彼女には、知覚する能力が備わっていた。
相手と意思を通じる能力も備わっていた。
しかし、それでもなお、彼女は彼女の意識が誕生してから今日までの間、自らのほかは余人なき孤独の中にあった。
その少年と出会うまでは。
§ § §
そこには死が満ちていた。
彼女はそれにひかれ、その場にやってきた。
死者は、人間のようだった。
今死に近しくある者もまた、人間のようだった。
そして、その場にいる生者も……、人間のようだった。
熟した果実を足で踏むような音とともに、生者は死者の体から長い金属の鋭い棒―――剣を引き抜く。
そして視線を感じたかのようにふとその動きを止め、右手を振り返り、彼女とはっきりと目を合わせた。
―――見えている?
まさか。
一瞬の疑念は即座の否定によって退けられたが、すぐに肯定された。
「あなたは……誰?」
鍔まで鮮血に染まった鈍色の剣を持った人間は、彼女にしっかりと視線を固定して、そう問い掛けてきたのだ。
『私が見えるのですか?』
信じられなかった。
彼女にも、人間の善悪に似た倫理観はある。
同族殺しはいけない、というのは、人にも、そして彼女たち精霊にとっても共通している概念だ。
そしてこの場の死者を「生産」した人間は、この人間に違いない。
人間たちの基準でも、間違いなく悪とされるだろう人間が、なぜに精霊である彼女を見る事が、できるのだろう?
彼女の姿に視点を据えている人間は、人間のなかでは相当小柄な方だった。
精霊と違い、人間は体の大きさで生きてきた時間を測るのだということは知っている。
その判断方法を思い出し、あてはめてみれば、この人間は、とても幼い。まだ生まれて数年しか経っていない。人間にとっても赤子のようなものだ。ましてや、人間よりはるかに長命な精霊の世界においてはなにをかいわんや。
「精霊のお人だね。それはわかるよ。そして精霊のお人のなかでも、とても力のある方だ。おれは『見える』たちでね。よく見ていたんだ」
『……なぜ、精霊が見えるのですか?』
「ちょっと待って」
その人間……子供は、そう言って待ったをかけると、手にした不釣合いに大きな剣――普通の大きさの剣なのだが、子供が小柄なために大きく見えた――を手に、床に転がる人間たちの頭と心臓に、それぞれ一太刀ずつ入れていった。
死者と、死に瀕している者と、生者。
三種の人間が混在していた空間は、死者と生者のみになった。圧倒的な人数比。生者一人に対して、死者は十三人だった。
子供は頬についた血と体液を手でぬぐいとり、死者の衣になすりつける。
「ええっと――そう、おれがどうして精霊見えるのかっていう話だったっけ」
自らが手を下した死体の側で、世間話をするような調子で、子供は話をする。
さて、この子供はどういう身姓の者なのかと、さすがの彼女も首をひねった。
それに―――何より、瘴気がついていないとはどういうことだ?
人間が一番やっかいで手に負えなくなるのはどういう時か。
精霊である彼女はよく知っている。
それは死ぬときだ。
レイオスの人間はみな、心に力を持つ。それでも生きている時は大して脅威でもないが、その人間が死に接するとき、恨み、怨う心はありったけの気力でもって、加害者へと向かう。
死という媒介を通じることで魔力は変質し、精霊にとっても人にとっても厄介この上ない致死の毒となる。
それを瘴気といい、だから、人殺しをする者は精霊にも人にもほとんどいない。
それを平気でこなすような人間。そんな輩に、精霊を見る事など、できようはずもない。
そこまで考え、不可抗力という言葉に思い至った。
『やむを得ぬ事情があって、この者どもを殺めたのですか?』
「んー……、正当防衛なのは、確かだよ」
そう言って、子供は手の剣を死体の上に落とした。
肉を打つ、鈍い音。
辺りに飛んでいる血の鮮やかな赤が、黒に変わっていく。
「貴方は、死の精霊? おれは彼らに誘拐された。だから正当防衛なのは確かだけど、おれは彼らを殺さずに済ますことだってできた。でも、それはしないんだ。だって、彼らはおれの家族を傷つけようとしたんだもの」
『……その、剣は?』
「彼らの中の誰かのもの」歌うように、抑揚をつけて、子供は言う。
彼女は自分でも久しぶりの、とある感情を感じていた―――。
あんまりにも久しぶりすぎて、それがどういうものなのか、最初わからなかったほどだ。
『……あなたが、一人で彼らを殺めたのですか?』
「そうだよ。精霊からみて、おれはいくつに見える?」
『五、六回春を迎えるていどでしょうか』
「だいたい、当たり。おれは今年で七歳」
『なんで貴方には瘴気がついていないのですか?』
「おれが、瘴気浄化能力者だから」
その能力のことは、彼女も知っている。
厄介で始末におえない死者の死に際の恨みの念……瘴気を、唯一浄化できる能力者である。ただし。
『あの能力者は、全員幽閉されているのでは? それともあなたは皇家が取りこぼした能力者なのですか?』
子供は、一拍、答えなかった。
そして、ぷっと吹き出し、笑い出した。
「し、しっ、信じらんないっ! お、お、お、おれのこと知らないのっ!?」
『知りません。あなたは一体、何ですか?』
子供は笑いやみ、目ににじんだ涙を指でぬぐって彼女を見た。
挑戦的な目―――ただし、極寒の。
「キール。キール・スティン。この辺で、人であろうと精霊であろうと、おれの名前を知らない奴はいないよ。聞けば、すぐにわかる。おれがどういう忌み子なのかね」
それが、彼女とその子供の、初めての出会いだった。
この作品を書いた動機を文章にすると、
しまったなあ……。
彼女とキールの関係、本編では水の彩でちらっと出たきり、姿も形も出ないとは思わんかった。前に出てなかったっけ? ……あれ? 出てないや。出したと思ってたのは思い込みか。
しょうがないなあ、書くか。
……というところです。
2002 1/4 up