胡桃の森のものがたり 四
私がアキラくんとはじめて会ったのは、彼が小学校二年生のときだった。
その頃の私はけっこういっぱしの碁打ちで、小さな頃から習っていた碁の腕はかなりなもの。近所の碁会所では敵ナシ、もちろん家でも教えてくれた父親に3子置き、中学校、高校と出た囲碁大会でも大将をつとめ、団体戦では私だけ全勝、決勝の前に私の他の二人が負けたから優勝はできなかったけれど、ということでかなり自分の囲碁の腕にうぬぼれていた時代だった。
私は当然のごとく天狗になっていて、その高い鼻っ柱を打ち砕いたのが、たまたま入った碁会所の最強のメンバーである、アキラくんだった。
その頃私は高校一年生。
アマの世界では強いといっても、プロに比べればたかが知れてる。
そんなことは頭ではわかっていたけれど、でも実際に周囲にプロを真剣に目指していてそういう力のある子なんて一人もいなかったし、つまり私は思いっきり井の中の蛙だった。
「強い人と打ちたいんですけど」
碁会所の席亭にそう申し込むと、年配の五十がらみのおじさんはにやりと笑って、
「棋力はどれぐらいだい?」
「アマ五段です」
ほほう、それは。
そんな風に表情が動いた。
私はその頃髪の毛を長く伸ばしてカチューシャでとめ、胸のあたりで毛先を弾ませている、いかにも女の子、という外見だったから、お馴染みの表情だった。こう告げる瞬間、かすかな報復の快感がある。彼らの表情は、そんなに強いのか、という意味だ。
「アキラくん!」
席亭の人が呼びかけ、その子があらわれてきたとき、私はいっしゅんぽかんとしてしまった。
華奢で、背が低くて、私の臍のあたりぐらいに頭があるような、とても可愛い小さな女の子(と、私は思った)が、私の相手だというのだから。
「アキラくんはプロを目指しているんだよ。なりは小さくても、とっても強い。プロの人をのぞけばこの碁会所じゃいちばんだ」
「この子が……」
プロ。
囲碁のプロについては知っている。揃いも揃って幼少の実力者ぞろいだと。私はそのとき初めてプロになるつもりで頑張っている子供を見て、驚いていた。カルチャーショックとともに。
私は頷いて、頭を下げた。
「よろしく」
「よろしくお願いします」
鈴をころがすように澄んだ声。子供のソプラノ。
席について、自己紹介をした。
「私、市河晴美。十六歳、高校一年生。あなたは?」
「塔矢アキラです。小学校二年生です」
うんうん、礼儀正しい子だなあ。
それにとても可愛い。まるで市松人形が生きて動いているみたい。この肌、つるっつるで、人間の肌とは思えないぐらい。あーあ、こんな妹が欲しかったな―――ん? あきら?
私は危うく碁笥の蓋を落っことすところだった。
「あ……その、ごめんなさい。気を悪くしたら許してね。その……、キミ、男の子?」
「はい」とにっこり微笑まれつつ、肯定される。
「うわーっ。ごめんなさい!」
「いいんです。それより、にぎってくれますか?」
「うん。……私が黒ね。お願いします」
「お願いします」
私たちはそろって頭をさげた。
囲碁を打つ作業は、数学の面も確実にある。
―――右辺を生かす作業に私は四手、塔矢くんは五手。左辺は……だめか。私が生かすには三手かかるけれど塔矢くんは一手でその石を殺せる。右辺だ。
そう判断して貴重な一手を右辺に費やす。
もしも私の判断が間違いでそれ以上の予想だにしなかった手で塔矢くんが右辺を三手以内で殺せば私のヨミが甘かったということだ。
塔矢くんは右辺を受けず、左辺を割いてきた。
私のヨミは当たっていたらしい。この子は冷静に、攻め合いをしても一手遅れるとふんで、別の箇所をいじめにきたのだ。
右辺を奪ったかわりに左辺の傷はおおきい。右辺をほぼ奪った形勢で、しばらく、左辺の援護に入るかそれとも別の箇所の地を手堅くとるか考える。
地をとるか模様をとるか。私は手堅く着実に地をとる派だ。
一手を左辺に費やし、出血を食い止めると次は左上隅の地を奪った。
―――このコ……、強いな。
プロを目指しているというのは、本当だ。この年で、なんて強いんだろう。
私がこの子ぐらいのとき、まだ父親に囲碁を教わったばかりで、てんで弱かった気がする。
打っていれば、女の子のようだと思った印象は綺麗に拭い去られた。
印象にのこる、大きな瞳でじっと盤面を睨んでいる。
その気迫も顔つきも、男の子以外には見えない。
盤面は終局まで打ち切っての、目数の勝負にもつれこんだ。
「―――コミを入れても、二目半のかち。よし、勝った」
ふう、と息を吐き出して、私は勝った対局の余韻に浸る。やっぱり、いい碁は楽しい。
はっとして向かいの席を見れば、彼は人形のような顔で、唇を噛んで俯いていた。
「あ、塔矢……くん?」
やっぱり男の子だし、プライドだってあるし、喜んだのはまずかったかな?
そう思って私が内心おろおろしていると、ぱっとその子は顔を上げた。
きらきら輝く眼で、無邪気な称賛をおくった。
「―――いちかわさん。すっごく強いね。ボク、女の人でこんな強い人、はじめて。また来てくれる?」
私はすこし考えて、うなずいた。
「うーん……いいわよ、たまにね。でも、キミは? 私が折角来たのにキミがいないと打つ相手いなくなっちゃう。キミはいつ来るの?」
「毎日いるよ!」
その子は元気よく言い、私は頭をかしげた。
碁会所の代金というのは、子供であっても、毎日来るのは……かなりの負担になるのではないか?
その疑問が顔に出たのか、席亭のおじさんが話に入った。
「アキラくんは、この碁会所を経営している塔矢名人の息子さんなんだよ。これサービス。アキラくんがこんなに楽しそうなのは久しぶりだ」
私は差し出されたオレンジジュースを受け取って固まった。
「塔矢……めいじん?」
私でも知ってる、囲碁界のトップ棋士だ。
けれどもそこで、私は塔矢くんの顔に気がついた。
なんとも複雑な顔で、もじもじしている。居心地悪げに。
私はこの顔を知っていた。何を言われるかと、身構えている表情だ。
私は自然に笑顔がこぼれるのを感じながら、その頭に手を置いた。
……女の子と間違えたのはこの頭のせいもかなりあると思う。綺麗に肩の上で切り揃えられた髪。さらさらと揺れる様子は確かに愛らしかったけど―――男の子でしょ? 親の趣味だろうけど……やれやれ。
「キミと私の棋力は同じぐらいね。悔しいなあ、私はキミより八つも年上なのに。でも、その分キミは努力したんだよね」
塔矢くんがぱっと眼をあげた。
「よろしくね、私は市河。塔矢くん」
さして意識もせずに言っただけの言葉だった。
誰かが誰かを悪気のないたった一言で殺してしまうように、私はそのとき小さな少年のなかに無視しえぬ強烈さで私という存在を刻み付けたのだ。
いつから彼が私を想うようになっていったのかは知らない。けれども、すべてがはじまったきっかけは間違いなく、この日この時間からだったのだ。
―――塔矢名人の息子だということを知りながら、そのことに一つもふれない。そのことが彼にとってどれだけ爆発的に新鮮で初めての経験なのか、私は知らなかった。
§ § §
二度目の再会は、黄緑色の実がぶどうの房のようになっている木の下でのことだった。
私は見知った顔に話し掛けた。
「どうしたの?」
冬の制服姿にランドセル。
小学生らしい小学生姿の塔矢くんは、私が声をかけたとたん、顔をあわててこすった。
でも、遠目で見たとき、その表情が良くない意味でゆがんでいたのは間違いないと思ったから、私は少々強引に話し掛けた。
「私のこと、覚えてる?」
「いちかわ……さん」
「あたり。塔矢くんは、学校帰り?」
ランドセルを背負った小学生が、午後五時に街中にいる理由として最も妥当なところをあげた。
塔矢くんはうつむく。その仕草に合わせて髪が流れて、真っ白いうなじが見えた。……何度も思うけど……男の子、だよ、ねえ……? この年で髪型に自分の意思が入っているとは思えない。親の趣味だ。……つまり……。
考えると怖くなってきたので、私は考えるのをやめた。
「……いちかわさん。囲碁って……はずかしいのかな?」
「え?」
私は首をかしげた。
「囲碁をやってるっていうと、みんな、笑うんだ。くすくすくすくすって。何だそれって、お前のオヤジ変だって言うクラスメートもいる。……そうじゃなくて!」
塔矢くんは激しく首を振った。
「ぼくは……ぼくがいやなのは……、はっきり言えないぼくで。また笑われるかもしれないって思ったら、囲碁やってるって言うの、こわくて……、囲碁のことも、おとうさんのことも、大好きなのに、ぼくはいえないんだ……。ひきょうものだ」
「ばっかねー! そんなの当たり前じゃないの!」
ばんっと私は塔矢くんの小さなランドセルを張り飛ばした。
「え……?」
「傷つくのが痛くて何が悪いの? そんなの当たり前よ。学校のクラスメートなんて、人生で出会う最初の敵でしょ? 私だってさんざん笑いモノにされたわよ! 市河さんって囲碁なんていうのやってるのおー、ふぅーん、変わってるわねぇーって根拠のない優越感こめてたっぷり嫌味ったらしく言ってくれるのよ。まったく冗談じゃないわ!」
言ってるうちに腹が立ってきた。
「あのね、塔矢くん! 傷つくのが怖いのも、いやなのも、人間なら当然なの。そして傷つかないようにしようっていう行動をとるのも、当然なの。だからキミが言えないことを恥じる必要なんて、これっぽっちもないわ。でもね」
私がそう言ったとき、塔矢くんはわずかに体を固くした。
私はにっこり笑ってそれを続ける。
「大人は、それを逃げだとか卑怯だとかは言わないのよ。そういうのはね、大人の知恵って言うの」
でもね、の後に「つらくても逃げちゃダメよ」とかその手の言葉を予想していたのだろう。塔矢くんは拍子抜けした顔で繰り返した。
「おとなの……知恵」
「そう、知恵。塔矢くんが私ぐらいの年齢になったとき、周りを見てごらんなさい。本音をさらして付き合っている友達関係なんて、クラスに一つあればいいぐらいよ。あとはみんな、大人の知恵と打算と怯えで友達やってるだけなんだから。私のアドバイスは一つ。いい? 世の中にはね、誰かが真剣であることを馬鹿にして、そうすることで自分が上に立ったと勘違いする馬鹿が、掃いて捨てるほどいるのよ。キミが真剣に打ち込んでいる囲碁なんてものは、そのかっこうの標的。……言葉、わかる?」
「うん……、新聞も、もう読めるよ」
「頭いいのね。ま、だから……、塔矢くんは、自分をなさけなく思ったり、卑怯者だって責めたりしなくたっていいの。大人になればなるほど、そういう嘘が多くなるわ。それを世間は分別って言うんだから。対局に負けてむちゃくちゃ腹が立っていても、インタビューにはそんなことないって顔して答えなきゃいけないしね。
塔矢くんはね、クラスメートに黙っていていいの。もしも自分が囲碁をやってるってことを言いたい、隠し事ナシでいたいとっても大事な友達ができたなら、もちろん話してもいいけどね。その子が友達なら、絶対に他の子みたいに笑ったりしないわ。でも、そういう大事な友達以外には、黙ってるのが賢明よ。
囲碁がどれだけ打てたって、心は傷つけられれば他の子とおんなじように傷つくし、痛いわ。自分を守ろうとするのは、ちっとも悪いことじゃないし、卑怯なことでもないのよ」
「いちかわさん……」
私は塔矢くんの目線にあわせて折っていた膝をのばして立ち上がり、真上の木の果実を取った。
「食べる? これ美味しいのよ」
「……これ……なに? ぶどう?」
私はくすっと笑った。
この果実の名前を一目で当てるのは至難のわざだ。
名前を聞けば、日本中知らない人はいないぐらいの有名な実なのに。
黄緑色の、ぶどうの房のように連なっている果実。一つの大きさはプラムぐらい。かなり大きな実で、子供の塔矢くんなら掌のなかに握りこめないぐらいある。
私は笑って、塔矢くんのちっちゃな掌に、ぽとんと一つ果実を落とした。
「これはね、くるみ。胡桃の実を見たことのあるひと、今ではほとんどいなくなっちゃったものね」
「これが……くるみ?」
白茶けた、乾いた固い殻が頑丈に分厚く内部を守る。
それが普通の人の胡桃のイメージだろう。黄緑の、青々とした果実とのイメージのギャップはすごいものがある。
「この青い果実の皮を剥くとね、いつも私たちが見ている茶色い固い殻が現れるの。それを更に剥いて、やっと出てくるんだけど、食べられる部分はほんのすこし。人間とおんなじね。嘘ばかりで自分を守って、本当のことはほんの少ししかない。でも、それは胡桃と同じで、自分を守るために必要なものなのよ」
……木の、後ろに隠れるようにして。
この子が胡桃の木の側にいたのは、泣いているのを見られないようにするためだ。
いじらしくて、守ってあげたくなる。
私は胡桃を剥くのに四苦八苦している塔矢くんを見てつい笑顔がこぼれた。ひととき、悩みを忘れられれば何でもいい。泣くよりずっと。
「くるみの言葉は、知性と、英知なんだって」
「知性……」
「正面から立ち向かうことだけが知性じゃないわ。頭をつかって、ワナでもからめ手でもなんでもつかって、勝つのよ」
「かつ? 勝つって……どういうこと? 喧嘩じゃないよ。取っ組み合いをしろってこと?」
「喧嘩よ」
私は凄みすらこめて断言した。
「それも、いまキミがやっているのは、人生でいちばん大事なものを賭けたけんか。キミが、自分を貫きとおせるかがかかっているんだから。もしもそれができなくて、キミが変えられてしまったらキミの負け。でもそれができれば、君は勝ったってことなの」
変わってもいい。いやむしろ、変わるのが自然だ。でも、他人から強制されて、不本意を残して変えられるのは、見たくなかった。このまっすぐな眼をした子が。
「……頑張ってね、塔矢くん。頭を使って、負けないで。卑怯でもなんでもいい、負けないで」
天使の輪がうかぶ頭を撫でて、立ち去ろうとしたとき、声がかかった。
「いちかわさん!」
私が振り返ると、必死の表情で、塔矢くんは言った。
「ボクの名前、アキラっていいます!」
「……うん。呼んでいいんだ?」
「はい!」
「わかった。じゃ、アキラくん、ね」
しとしとと雪が降るように、記憶は堆積し積み上がっていく。
最初から成人の人間は存在しない。いまここにいる「彼」だけを切り取ることも、過去から切り離すこともできない。
生きてきた年輪。ひとの精神は、人生そのものからできている。記憶というものが何層にも降り積もり積み重なって形成された山。その頂上に、塔矢アキラという名が、ついている。
§ § §
十度目かの出会いで、とうとう私は苦笑して手をひろげた。
「まいりました。うーん……すっかり追い抜かれちゃったな。次は二子ぐらいの手合いから始めよ」
「はい、いちかわさん」
少し、舌足らずな澄んだ声。
私はその声で呼ばれるのが好きで、こんなところまで碁を打つためだけにわざわざ足を運んでいるのかも知れない。
碁会所への訪問が十回を越えたころ、声をかけられた。
「私ももう、腰が痛くてね。一人でやるのはキツいんだ。アキラくんもなついてるし、塔矢名人もあんたが気に入ってる。どうだい? バイトに入らないか?」
時給は、当時の高校生のバイト代の相場からすれば、随分な高値だった。
勝手知ったる仕事だし、ほとんどのお客さんとは顔見知りだ。囲碁も……これでプロになれるとか、食っていけるかもとかいう想像はアキラくんと出会って木っ端微塵に砕けてしまったけれど、大好きだ。
断る理由なんて、何一つなかった。
「はい! やります」
アキラくんはその次の日、いつものように碁会所にきて、カウンターで私が出迎えたのに目を丸くして駆け寄った。
「いちかわさん!」
「おどろいた? 私、これからここでバイトすることになったのよ。祝日と日曜日は八時間、平日は学校ひけたあと、ね」
私はいたずらっぽく笑ってみせる。
「これからよろしく、アキラくん」
「……よろしくおねがいしますっ」
季節はまるで生き急ぐように駆け足ですぎていく。
ぼんやり屋の私たちを、しかるようにして。
ある日、ずぶぬれになったアキラくんが戸を押して入ってきたとき、私は目を見開いて慌てて駆け寄った。
一番手近な手持ちの布―――身につけているエプロンで、小さな体を抱きかかえるようにして拭いた。アキラくんはされるがままになっている。
「だいじょうぶ?」
「いちかわさん……」
「ほら、ランドセル脱いで。どうしたの? 傘、なかったの?」
「忘れた……、外に出てから気が付いたけど、めんどうくさくて……」
私は腰に手をあててため息をついた。
「で、ここまで濡れ鼠になって走ってきたの? まったくもう。ちょっと待っててね、何か着替えになるものないか、探してくるから」
と、行こうとしたとき、ぴんと引っ張られる気配がした。
「いちかわさん」
この子の外見で、一番印象的なのは、目だな。
その目でじっと見つめられ、私はそう思う。
おかっぱ頭よりも、際立って白い肌よりもなによりも、その目の人の心に食い込んでくる真剣さが、いちばん人の印象に残り、目立つ。
「どこか、行っちゃうの?」
「え?」
「どこか行くってほんと?」
「はあ? 誰からそんな話聞いたの?」
「お母さん……」
「え?」
私は記憶をさぐり、明子夫人と以前雑談した内容を思い出した。
「あ、それ誤解よ。私はただ単に、いつまでもこのバイトを続けられないな、大学受験もあるしって言っただけ」
「でも―――いつかはいなくなっちゃうんでしょ?」
「そうね……」
私は意識をとばした。
何となく、この子にはきちんと応えたかったのだ。
子供だからといって疎外することも、いい加減に応えるのも嫌だった。この子は涙を隠すという行動を覚えているぐらい、きちんとしたプライドをもった、そこらの高校生よりずっと大人の子なんだから。
「―――そうね。いつかはたぶん、いなくなるわ。だって、ずっとここでバイトしてるわけにはいかないでしょ? 二十歳になっても三十歳になってもそれじゃ、ちょっとね」
そう言った私の前に、いつか見たのと同じ実が差し出された。
胡桃―――?
ああ、そうか。あれから、もう一年経ったんだ……。
「胡桃ね。ありがとう。でもなんでこれを―――?」
「ボク、いちかわさんのこと、好きです」
心臓が、止まるかと思った。
顔がひきつるのがわかる。
心臓が踊りだした。
「市河さん」
子どもなりの精一杯の真剣さで、アキラくんは私を見上げていた。
けれどもここは、碁会所で、碁会所で、碁会所で。
お客さんもきちんと入っていて、何人かは打っている碁を中断して私とアキラくんに――ずぶぬれで入ってきたアキラくんに、注意の眼差しを注いでいたのだ。
何と答えればいいのか、悩んで凍りついている私を見かねてか、その内の一人が仲裁に入ってくれた。
「アキラくん。いっちゃんはいいコだけどさ。でも、ほら、困ってるだろう? いっちゃんのこと好きなら困らせちゃいけないよ。もっとしっかり大人になってから言いなよ。あっという間だよ」
「……市河さんが、その時までいてくれるかわからない……」
……まいったなあ……。
私は天をあおいでため息をついた。
どうしてこう、一生懸命で誤魔化すとかそういうこと、しないんだろ。この子。
いじらしくていじらしくて、あーもうっ!
可愛くって仕方ないじゃないかっ。
私はアキラくんの正面に、目線をあわせて膝をついた。
「約束する。黙ってアキラくんの前からいなくなったりしないわ。キミの側で、アキラくんが大人になるまで待ってるから」
夏も秋も冬も春も。
ずっと側にいた。
学校帰り、アキラくんは毎日碁会所に通ってくる。軽快な足取りで階段をのぼり、扉を元気よく開け放って飛び込んでくる。
市河さん、こんにちわ、と。
今日までそれが何千回繰り返されただろう。
私は彼の中で、私への思慕はとっくに枯れ果て、他の、新しい恋の種が育っているのだと思い込んでいた。けれどもそうではなかったのだ。
―――市河さん。
あの時とはちがう声変わりした声で。
私よりずっと高い目線で、同じ言葉を言う。
―――あなたがずっと、好きでした。
2002 4/8 up