胡桃の森のものがたり 三

 

 

 「こんにちわーっ!」

 午後八時ごろ。
 元気に挨拶をして入ってくる進藤くんを、私は笑顔で出迎えた。

「わざわざありがとう。アキラくんって意外と心配性だから……」
 アキラくんの端正な姿と張るぐらいに人の心をつかむ快活な笑顔が私にも向けられた。
「いいですよ。……それに、あいつが心配するの、ま、当然ってば当然だと思いますよ」

「当然? なんで?」
「そりゃあ……」
 と進藤くんは言いかけ、慌てて口元を押さえた。
「アブねーアブねー、危うく塔矢に殺されるとこだった」
「ころされる……ってアキラくんそんなこというの?」
 私のイメージの中のアキラくんは、いつも礼儀正しくて控えめで、優しかった。

「そりゃ、言いますよ。もちろん本気じゃありませんけど。あいつがニラんだときの迫力って、すっごいですよー。普通の奴はまずビビリます」
「へえーっ」
 男同士のつきあい、をしているアキラくんの話を聞くのは楽しい。

 私はそこで、カウンターに肘をかけて聞いてみた。
「進藤くんは、びびる?」
「まっさかー。びびったら終わりですって。今回もですね、さんざん脅しをかけられました。『まったくキミは余計なことをぽろぽろ口からこぼすことが多いんだから、三日間口にチャックして絶対絶対絶対余計なことは言うな』、って。いやー、あれはマジだったな」

「へぇ……、アキラくんも、友達にそういうこと、言うのね」
 すこし、意外だった。
 でも、アキラくんへの好感度がそれで下がるなんてことはちっともない。私へのとは違う彼の顔。それは意外さっていう喜びを私にあたえてくれる。
 ほのぼのと暖かい気分になれるから、こういう話を聞くのが私はだいすきだ。
「他の奴に対してはどうか知りませんけど、俺に対しては、割と言いますよ」
「あの、進藤プロですか? 指導碁、お願いできますか?」
 その時お客さんが進藤くんに話し掛けたので、話はそれでおひらきになった。

「はい、有料ですけどいいですか? 8250円だけど……、ま、いいか。8000円になりますけど」
 指導碁一局、二時間弱かかる。
 進藤くんは指導碁を一局うち、その後は閉店時間まで棋譜並べをして、閉店時間を迎えた。

 掃除を手伝ってくれた進藤くんは、時計の針をみて、眉間に皺をよせた声を出した。
「……も、夜中の十二時……。市河さん。朝は何時ですか?」
「十時からよ」
「じゃ、ほとんど自分の時間ないじゃないですかっ! 朝十時から夜のほとんど十二時まで!? 交替要員とか、そういう人は!?」

「そおねぇ……。何度か来てくれたこともあったけど、すぐにダメになっちゃうの」
「何でですか?」
「アキラくん目当てだから」
 そっけなく言うと、進藤くんは頭をかいた。
「あ……そっか。あいつ、もてるから」
「進藤くんも、もてるでしょ?」
「俺はもう彼女いますし決まってますから、あんま、アタックとかないですよ。でも塔矢は表向き、フリーでしょ。棋院とかにもよく、ファンが押し寄せてきますよ。あいつとにかく、外面いいから」

「え? 彼女、いるんだ」
「ええ。藤崎あかりっていうヤツ。市河さんも美人ですけど、やっぱ俺にはあかりが一番美人だな」
「こっの〜っ! 彼氏なし歴三年のおばさんに対してのろけるなんて、十年はやーいっ!」
 進藤くんが笑い、私も笑う。
 顔をあわせたことは数限りなくあるけれど、こんなに会話をしたのはこれが初めてで、私は仲良くなれそうだという予感に、幸せな気分になれるのを感じる。
 愉快ないい子だ。アキラくんと対等の棋力があるというだけでなく、アキラくんの友達でいられる理由がわかった気がした。

 進藤くんは愉快な子で、駅まで送ってもらって別れるときも、笑い声と笑顔でサヨナラすることができた。
 アキラくんとは、ぜんぜん違う。

 アキラくんに送ってもらうときは、しめやかな空気のなかに落ち着かせる微成分が混入されている。きっとその成分はアキラくんの主成分だ。アキラくんと一緒に夜の道を歩くとき、私たちは口数少なくなって、けれども諍いを起こしてるわけじゃない、通じ合ったやさしい気分になれた。

 私は、アキラくんを子供の頃から知っているから、その気安さが空気に流れるのだと、思う。小さな子供だったアキラくんが今では見上げるほどの体格になっているのを見るとき、その腕の太さやしっかりした肩や、胸の厚みを認めるたび、胸中にセピアの色が広がっていった。
 時間って、とても偉大だ。

      § § §  

 進藤くんのいる三日間は、楽しい毎日だった。笑い声が絶えず、にぎやかで。

 けれどもアキラくんが三日目の夜、扉を明けて入ってきたとき、私はとびきりの笑顔をふるまった。
「おかえりなさい!」
 やっぱり、アキラくんはパズルのピースで、それもど真ん中にあるピースで、ないとどうしたって目を引くし気になる存在なのだ、私にとって。

 アキラくんが帰ってきたのは閉店時刻まぎわ。私と進藤くんしかいない店内で、進藤くんが怪訝そうな顔で立ち上がる。
「あれ? 塔矢……。おまえ、明日の朝帰るんじゃなかったのかよ?」
「無理いって、抜けてきた。キミをいつまでも市河さんとふたりっきりにしておけるか」

 進藤くんがアキラくんをこづく。
「うっわー、ひでー言い草。市河さん、こいつって市河さんの前じゃ、ネコかぶってるでしょうけどホントはこういうヤツなんですよ。人に頼みごとをしておきながら、えらそーえらそー」
 進藤くんはそう言いながらも笑っていたし、アキラくんも腕組みをして「えらそー」に、告げた。
「頼みごとを最初にしてきたのはキミだろう。バイクを貸してくれと言ってはぶっこわす。和服を貸してくれといって貸せば着方がわからないという。たまりにたまったツケが今回ていどで全て清算されたと思うなよ」

 聞くともなしに聞いていた私は思わず笑ってしまった。
 ……いいなあ、こういうの。
 アキラくんは私に対してもやっぱりどうしても遠慮というか、異性の年上だからか、こう言いたいことをずけずけと言ってはくれない。気兼ねなく何でも言いたいことを言い合える間柄の二人が微笑ましく羨ましかった。

 進藤くんはやりこめられてぐぐぐと悔しそうな顔をしていたけれど、何かを思いついたのか、途端に余裕たっぷりの顔になって、にやりと笑った。
「じゃ、市河さん。おれ、帰りますね。塔矢の邪魔をしたら今度の対局でたたられるし」
 邪魔? たた……?
 何のことだろう?

 疑問に思ったけれど進藤くんはその疑問に応えてくれる気はないらしく、さっさと荷物を持って、行ってしまった。
 閉店間際の店内に、私とアキラくんだけが取り残される。

「あ、あの……市河さん」
 あれ?
 なんだろう、可愛い。
 いつも落ち着いてるアキラくんが、頬をほんのり赤く染めて、何かを言い出そうとしている。
 もう、私よりずっと背が高いのにね。こういう顔をすると、小さい頃そっくり。
「あの……」

「なに?」
 アキラくんは顔を真っ赤にしたまま俯いて、右手に持った大きな黒い袋のなかから、アキラくんは次々に物を取り出した。
 花束。
 箱が大小三つ。
 以上がカウンターの上へと置かれる。
「あの、これ……」
「アメリカお土産?」

 アキラくんは盛大にずっこけた。
「……大丈夫?」
「あ、いえ、あの……。これ、花束です。黄色いバラのつぼみ」
 そこでアキラくんは期待を込めた眼差しで私を見たが、さっぱりわからない。
 ?という顔で見ると、アキラくんはため息をついて、他の品物の説明にとりかかった。
 いちばん大きな箱を指差して、
「これが服です。市河さんに、似合うと思って」
「ありがとう」

 アキラくんが中ぐらいの箱を示す。
「で、これがケーキです。市河さん、レアチーズ系のもの、好きだから。苺のレアチーズにしておきました」
「……ありがとう」
 ケーキ?
 なんでだろう、と思って明日が私の誕生日だってことを思い出す。
 そっか。これは、だからなんだ。

 アキラくんは最後に長方形の平べったい箱を指差す。
「で、最後にこれが、ペンダントです。市河さんに似合うなって思って。あの、これだけ揃えば判りますか判りますよね、いいですか?」
「あ、えーと……、誕生日プレゼントでしょ?」

 アキラくんは、ずっこけはしなかったが盛大なため息をついた。

「……やっぱり口で言わなきゃだめか……。市河さん」
 濡れたような艶のある黒い瞳で見つめられて、心臓が一回脈打った。
 え? え? え?
 なんなんだ、この空気は。
「この花、花言葉知ってます?」
「え……黄色い薔薇は、嫉妬でしょ」
「それは咲いてるときの話で、つぼみのときは、初恋って意味なんです」

 いかに鈍い私でも、ここまでくればアキラくんの言いたいことは判った。

 私は目を見開いて、まじまじとアキラくんを見つめてしまった。
 ―――ボク、市河さんがすきです。
 幼い日の情景が蘇った。脳裏で火花が炸裂したように、鮮烈に。
「ちょ……ちょっと待って、アキラくん。そりゃ確かに子供の頃そう言われたことはあるけど、私なんておばさんよ?」
「ボクが小3のとき、市河さんは十七歳。僕が十八のいま、市河さんは二十六。……大しておかしい年の差でもないと思いますけど」
「そそ、そりゃそうだけど……あ、いやそういうことを言いたいんじゃなくて、アキラくん、あんなにもてるし八つも年上のおばさんより綺麗な子だっていっぱいいるじゃない!」

 そういうと、アキラくんは笑った。
 まるで遠い昔になくしてしまった小さな青いビー玉を再び見つけたみたいに、懐かしさのこもった不思議な笑顔だった。
「子供のとき、僕は市河さんに好きだと言いましたよね。小さな胡桃を差し出して。あの頃から、僕は変わっていません。ずっとあなたが好きでした」

 ……とどめ、だ。

 嘘なんかじゃない。冗談なんかでもない。
 ―――あいつが心配するの、ま、当然ってば当然だと思いますよ。
   ―――アブねーアブねー、危うく塔矢に殺されるとこだった。
     ―――塔矢は表向き、フリーでしょ。
 さっき、ここを出て行った進藤くんのにやりと笑った表情。

「あ……そっかあ……。そういう、事だったんだ……」
 アキラくんが私の事好きなら、そりゃ、心配して当然だし、「表向き」フリーだって言った理由もわかる。
 邪魔すると、恨まれる、っていうのも……。

「市河さん?」
「あ、ごめんなさい。なんか、ちょっと……」
 心底驚いた反動で、笑いがこみあげてきた。
 笑う場面じゃないと思っても押さえようとしても止まらない。

「え?」
「進藤くんに、アキラくん言ってたんだ。このこと」
「というか……、進藤は勘がいいですから。ああ見えて意外と鋭くて。碁会所にも、よく連れてきましたし。そのとき僕が市河さんに接する態度でぴんときたらしくて」
「ははっ。なるほどー。アキラくん、進藤くんに言えるんだ。良かったね」
「あの……市河さん。返事は……」

 私はびっくりした反動の笑いを納めるのに苦労しながら、アキラくんの前に手をあげた。
「ごめんなさい、ちょっと待って。混乱してるから。アキラくんって、自覚があるかどうかわからないけど、とってもハンサムでかっこよくって稼ぐわよ。だから、周りの子たちは放っておいてくれないの。それに比べて私は、八つも年上で、その上大した取り得もないでしょ? だからちょっとね。信じられないっていうか、唐突だっていうか、降ってわいたような事態だっていうか……」

 そう言うと、アキラくんは首を斜めに傾けた。市松人形みたいにさらさらした髪が、その動きにつられて揺れる。にっこり笑ってアキラくんは言った。
「市河さんより綺麗な人なんて、この世にいません。僕にとっては、ですけど」
「……さっきまであんなにおろおろ可愛くしてたくせに今はもうすっかり落ち着いてるんだもんなあ。かわいくない」
「僕は本番前はひたすら緊張しますけど、本番後は居直って腹が据わるんです。でなきゃ、テレビ棋戦なんてできませんよ」

 顔を見合わせたらアキラくんと一緒にまた笑ってしまって、 「送ります」「うん」と頷いて、いつものように送られて帰った。
 いつもと違う点を、手の中の大きい荷物が主張していたけれど。


      § § §  


 私の部屋はほんとにシンプルだ。
 定休日の金曜日以外、ほとんど全部の時間を碁会所で過ごしてきたから、余分なものというのがほとんどない。
 ベッドのほかは、フローリングの床の上に小さな本棚と洋服箪笥、台所(朝食専用と化して久しい)があるきりで、根本的にモノに乏しい。夕食も昼食も、碁会所で店屋物をとった。それも給料のうちだ。

 お客さんの声。
「いっちゃーん!」と呼ぶ声。漂う煙草の匂いと木の匂い。響く碁石の音。和気あいあいとやっているなかにも幸せな緊張感がぴりりときいている。「市河さん」と控えめに呼ぶアキラくんの声。
 私はあの碁会所がほんとうに好きだった。
 だからこんなに長いあいだ、こんな毎日毎日くたくたになるまでやっていたのだ。
 朝十時から夜十一時まで。
 休憩はほとんどなし。
 はっきりいって労働基準法に抵触しているような労働条件だけど、私には居心地がとても良かった。

「……どーしよっかなあ……」

 本日のアキラくんの告白を思い返して、私はベッドの中で悩んだ。
 ―――すき、もしくはきらい。
 どちらかしか答えがないなら、私の答えはもちろん好きだ。

「アキラくんが、私を、かあ……」
 そういえば、思い当たることはいくらでもあった。
 雨に濡れて入ってきた日、タオルを差し出した手を驚いたように食い入るように見つめた顔。
 言葉のはしばし。

「……私って、とっても鈍かったんだなあ……」
 いまさらながらにズーンときたが、とにかくも鞭打って前向きに考えた。
 ……あのアキラくんが私をすき……。

 ―――いちかわさん。

 ちいさな手。胡桃を差し出して、アキラくんがいつか私に言った。
 ―――ボク、市河さんがすきです。

 いちかわさん。市河さん。市河さん。
 今日見た、節度と礼儀というガラスの脆い枠のなかに情熱を秘めた黒曜石の瞳を思い出す。
 ―――ずっとあなたが好きでした。

 端正な、という形容があれほど似合う男の子を、私は見たことがない。
 白皙の肌と一本通った鼻梁。まるで神さまが輪郭線を丁寧に彫琢したかのように、整った美しい青年だった。―――青年。
 私はドキリとした。

 私を見上げて、小さな手に胡桃をもてあましていた子はもういない。
 気づいていたようでいて、ぜんぜんちっとも気づいてなかったのだ。
 目をぬぐい、先入観という曇りをふき取ってみれば、そこにいるのは一人の立派な大人の男だった。
 女の子でもいないような白磁の肌と、漆黒の髪の美青年が、私のことを好きだという。
 ずっと、好きだったと……。


「×○△#〜っ!!」
 私は理解不可能な叫び声を上げて枕に顔を押し付けた。
 手をあてた胸のふくらみの下で、心臓がどきどきいっている。

 ……アキラくんの瞳が、脳裏から離れない。

 

 

2002 4/7 up

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