その日は朝から霧雨が降っていて、客足は今ひとつだった。
平日の午前中なんてそんなものだけど、今日は雨のせいでもっと悪い。
でも私は雨の日が好きだった。
やさしい気持ちに、なれるから。
アキラくんはその日、午後五時ごろ頭や肩を細い雨で濡らして飛び込んできた。珍しい、一人だ。
「はい、タオル」
すかさず私が用意していたタオルを渡すと、アキラくんは目を見開いて、それからおずおずと受け取る。
「……ありがとう、市河さん」
こんなところは、見上げるような背丈に成長した高校三年生の今も、昔も、変わらない。
「今日は進藤くんは一緒じゃないのね」
「進藤は、指導碁の仕事で」
「それに、アキラくんのファンの子たちも」
笑いを含んだ声で言うと、もうすっかり見上げる角度のアキラくんの背がしゅんと縮んだ。
「……すみません、ご迷惑を」
「いいわよ。ずいぶん経営にプラスだもの」
アキラくんのファンの子たちは、アキラくんが学校から帰る途中の道すがらや、もっとダイレクトに学校からついてくる。そしてアキラくんが碁会所に逃げ込むと同時に私が出るのだ。「お入りになられるのであれば、料金をお支払いください」。
大抵のコはこれで諦めて帰る。
根性があるコはバイトでもなんでもして、お金を作ってちゃんと入る。もっと根性のあるコは囲碁を覚えてアキラくんに指導碁の料金(一回約八千円)を払って打ってもらう。
この二つの子たちは、基本的に害はないし、いい子だ。問題ない。
いちばんタチの悪いのは、「囲碁は打たないからお金は払わない、ただ見ているだけなんだから別にいいでしょ」というタイプ。
あのねぇ、そういう理屈が通じるのは一人か二人まで!
あんたたちは何人いるの! 入り口の外でたむろされるのも迷惑。まっとうなお客さんが入りにくいでしょ。出ていきなさーい!
と私は雷を落とすのだけど、それで反省してきちんとどこかへ行くような子なら、そんなことをしないわよねぇ……。
さんざん汚い言葉を使うんだから。
おばん、とか、馬鹿女に喋るだけ時間の無駄よとか(それは私の台詞だっ)、死ねブス、とかね。
私はそういうとき、怒る。そりゃあ気に障るわよ。
でも、正直なところ虚脱するって方が正しいの。
私はたいてい、こう言ってやる。
「あなたたち、アキラくんが好きなんでしょ。なら、どうしてアキラくんに嫌われるようなことわざわざするのか、馬鹿でオバンの私にはちっとも分からないなあ〜。アキラくん、すぐそこにいるのよ? もちろんばっちり聞こえてる。アキラくん、そういう汚い言葉使う女の子のこと、どう思うとおもう?
さて、お馬鹿な私から賢いあなたたちに質問。これ以上アキラくんに嫌われるような真似するのと、大人しくあっさり帰るのと、どっちが賢い?」
たいていは、ま、この言葉で帰るわね。
口げんかってのは相手に台詞を言わせない勝負でもあるから、この長台詞を言っている間、割り込みの声がいくつも入る。それを無視して続けるのが、ま、コツっていえば、コツ。
そんなわけで、私に間接的にとはいえ迷惑をかけてしまっているアキラくんは本当に申し訳なさそうに頭をさげた。
「すみません、市河さん」
「アキラくんのせいじゃないわ」
これは私の本心。
悪いのはアキラくんではなく、あの女の子たちのほう。だから責めるのは筋違いってものだ。
「アキラくん、早く特定の彼女、つくんなさいよ。そうすれば彼女たちだって少しはおさまるわよ」
と気軽に声をかけると、アキラくんの瞳に傷ついたような光がよぎった。……あれ?
何か悪いこと、言ったかな?
けれどそれは短い時間のことで、アキラくんはすぐさま笑って切り返してきた。
「市河さんこそどうなんですか? あんまり付き合っている人がいるとかそういうこと、聞いたことありませんけど」
「あ、言ったなーっ。……ととと。あのね、これは私の個人的意見なんだけど、アキラくんには早く彼女を作って欲しいのよ」
「何故―――ですか?」
ああ、まただ。
また暗くなる。
私は慌てて言った。
「碁会所にかかる迷惑とか、そういうことじゃなくてね。単なる好奇心なんだけど。アキラくんが好きになる女のコってどういう人かなーって。碁会所に来てくれるお得意様の女の子の中でも、塩野さんとか綾瀬さんとかは、話してても気持ちのいいコだし」
「―――わかりません。好きな人は、……いるんですけど、全然眼中にないみたいで。特定の女の子を見つければマシになるって判っていても、好きな人がいるのに打算でそういうことはできなくて……」
「あ、アキラくん、好きな子いるんだ……」
しみじみ、ぽくぽく、ほっ、て感じだった。
あのちっちゃな男の子が成長したなあと思うと同時にちょっと寂しくて、けれどちょっと納得。
ほっくり芯まで火が通った焼いもを、ふうふう息をかけながら食べているみたいな、新聞紙ごしにじんわり掌が暖まっていく感触が心に広がっていく。
もてないわけじゃ、決してないアキラくんが、今まで誰とも付き合おうとしなかったのは、そのせいなんだ。
……好きな人って、誰だろ。
アキラくんのことだから、棋士のひとかな? 真面目で勉強熱心で、囲碁が強いひと?
ぜひ聞いてみたかったけど、アキラくんがその方向に話題がいくのを嫌がっている雰囲気があったから、私は話を変えた。
「そうだ、アキラくん。今日の手合い、どうだった?」
アキラくんは照れくさそうな笑顔を浮かべた。
「勝ちました」
「ホント!? じゃ……」
「はい! プレーオフに進めます」
リーグ戦で勝ち数が同じ人間ふたりが一位で並んだとき、プレーオフが行われる。
「名人戦ですから、獲りたいです」
「そうね、二代目塔矢名人、になれるかも。相手は?」
「進藤です」
私はきょとんとした。
「……進藤くん?」
知識としては、彼もまたリーグ戦に進んでいたという話は聞いていた。聞いて、随分早いことだと思ったものだ。しかしまさか、一位になるほどだとは―――。
「それで……、海外の棋戦が今週末、あるんです。だから明日から今週いっぱい、来れなくて」
「あらあら。引っ張りだこね。今度はどこ? 韓国? 中国?」
と聞いたのは、海外棋戦のほとんどがこの両国だから。
アキラくんは気まずい笑顔で、
「いえ……、サンフランシスコです」
「うーん、遠いわねー。支度、すんだ?」
「いつものことですし、とんぼがえりですから簡単です」
と、笑うアキラくんはすっかり「大人の顔」だった。
§ § §
ここの碁会所の閉店は、夜の十一時だ。たいてい、アキラくんが最後まで付き合ってくれる。
窓のブラインドをしめたり、店内の掃除をしたり、愛煙家が多いから灰皿を洗ったり、テーブル拭いたり、碁石を洗ったり。
何やかやで、碁会所の管理はけっこう面倒。
アキラくんが手伝ってくれても帰るのは、いつも、十二時近くになる。
経営者の息子さんにお手伝いをさせるだなんてものすごーく恐れ多いんだけど、子供のころからアキラくんは碁石あらいとかを手伝ってくれてたから、慣れちゃってあんまり抵抗ないのよね。
塔矢先生も、「大事な息子にそういう雑事をさせないでくれ」とか言ってくる人じゃないし。
すべての後片付けが終わると、電気を消して、鍵をかける。
カチャリという音が私の一日の仕事のおわりをようやく告げた。
「市河さん」
振り返ると、アキラくんが傘を持って、私を待っていてくれた。これも「いつも」。
大都市の宿命で、車はとても使えない。駐車場自体、この辺にはないし。
路上駐車で朝の十時から夜十二時まで、放っておく度胸もないしね。
だからアキラくんは、碁会所から私の使う沿線の駅までの十分ほどの距離を、いつの頃からか見送ってくれるようになった。
この碁会所は駅前にあるんだけど、使う沿線の駅じゃなくて、徒歩十分の沿線の駅まで歩いた方が、早いから。
女の人がこんな夜中に出歩くなんて、絶対だめです。
精一杯のしかつめらしい顔でそう申し出てくれた日のことを思い出して、私は少し笑ってしまった。
隣で歩くアキラくんが、怪訝そうに見たのがわかる。
雨の匂いと、アスファルトに照りかえるテールランプ。私たちの足音。
首をひねって右を見れば、私の頭と同じ位置にある、アキラくんの肩。
うん。
ほんとに、大きくなったなあ……。
アキラくんは駅の前で、じゃあ、と言った。
「僕がいない間は、進藤に頼んでおきましたから」
「進藤くん?」
「ええ。じゃ、市河さん、気をつけて」
午前零時の王子様は、そう言って帰っていった。
2002 4/5 up