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時よ止まれと思ったことはありますか 1
真夜中の電話というものは不思議な呪力をもっている。
ことに起きていたりすると……人は、眼差しを大きく見開き、凝固したように突如わめきだした電話を見つめてしまうものである。
普通の人は一瞬怖気づいた心を笑い飛ばし、気を取り直して電話にでる。しかしその心のどこかには、昼間の電話とはちがってかすかな「怯え」がある。いたずら電話。身内の不幸。何かの緊急連絡。どれにしろ、真夜中の電話で人が思いつくことで、いいものはない。
そしてそれがなんということはない友人からのおしゃべり電話だったりセールスだったりすると、びっくりした反動で怒ったり笑ったりしてしまうのだけれども。
真夜中の電話には、そういった普通とはまるで違う呪力がある。
けれどもそれは、とる相手が起きていればの話。
安らかな睡眠のただなかの突然の電話のベルには、ただもう腹だたしさしか湧いてこない。
眠いのを叩き起こされて出た電話が時間をわきまえないセールストークの電話だったりしたらもう最悪だ。機嫌は一気に悪くなり、ガチャンと切ってやりたい衝動と戦いながらの不愉快きわまりない電話となる。
セールストークでこそなかったが、進藤ヒカルがその日とった電話も、その例にもれなかった。
眠りから引き剥がされての不機嫌な人間には真夜中の電話の呪力も通じず、寝ぼけ眼で手にとった。
「…はい、進藤です」
「ヒカルっ! ヒカルなの!?」
「あかり……?」
真夜中の電話。
そのシチュエーション以上に、その声には、耳を打つ本物の恐慌があった。
「ヒカルどうしよう、ヒカル助けてヒカル、おねがい!」
……さすがに眠気もさめた。
ヒカルはベッドに手をついて起き上がる。
「どうしたあかり。今どこにいるんだ? 何があった!?」
足を床におろし、頭と肩で受話器をはさんでクローゼットをあける。幼馴染というのはこういうときに便利だ。隣の家にすっとんでいける。
「北岡さんが…」
「透が? 遊びに来てたのか?」
「き、……消えたの!」
はい?
ジャンバーを探していた手が止まった。
「なんだって?」と聞き返す。
「北岡さんが、突然現れて……わ、わたしの目の前で、今! 今さっき! 消えたの!」
「…はい?」
「消えたんだよ!」
「………」
ヒカルは受話器を耳から遠ざけて、どうしたものかと考えた。
藤崎あかりという自分の彼女は極めて賢明で普通の女とはちょっと違うが、今は動揺しきって興奮しているらしい。自分が何を口走っているかもわからないぐらいに。
とりあえず、現実に即して解釈し、聞いてみた。
「透がお前のところに来てたのか? それでどこかへ行ったのか?」
「ちがうよ、ちがうの! そんなんじゃないの! き、北岡さんが突然私の前に……そしてぱっときえ、消えて……」
「……あのな、あかり。人は、突然消えたりしない」
「ヒカルは私がうそついてるって言うの!?」
金切り声の訴えに、うんざりしない男は存在しない。
ヒカルももれなくそうだったが、それとは別に考えた。テーマは『藤崎あかりという少女が進藤ヒカルの中に培っている信頼について』。
あかりが動揺していることは間違いない。ただし、あかりが嘘をついたという選択肢は……ヒカルの心のどこを探っても出てこず、要するにそれが人間性への信頼の証だった。
「おまえは嘘はつかないよ。ただ、ちょっと幻を…」
見ただけだ、という言葉は途中で、潰れた。
宥める言葉を発しながらヒカルは受話器を持つ手を持ち替え、ベッドに腰掛け、どういってなだめようかと思案しながら顔をあげて。
そこに―――透がいた。
「……ごめん、あかり。人間たまには突然現れるみたいだ……いま、ここに、透がいる」
ふわり、と。空中を髪が舞う。まるで風があるように。長い長い髪。膝裏より長い髪を、ヒカルはこの少女と、少年期を一緒に過ごした幽霊しか知らない。
ヒカルは大きく胸をえづかせながら、首を上にあげる。
この視点をヒカルは知っていた。後ろを、見透かそうとすれば見透かしてしまう。まるでガラスを鏡にしようとする時のように、ほんの少し角度を変えるだけで、その体は向こうを透き通らせる。
ヒカルは意識しないうちに、受話器を持っていた腕を下ろしていた。
下に。流れる黒色の髪。
着ているものは、濃赤色のハイネックのセーター。中央に一本太い黒ラインが入っているもの。そして、自然に下に垂れている長いスカート。その下の、足。……幽霊に足がないというのは俗説だということを、ヒカルは知っていた。
少女の表情は、怪奇漫画のような恨みにゆがんだ顔とはちがう。記憶にあるままの、白く秀麗な面。まるでヒカルに、何かを訴えかけようとしているかのような、悲しげな表情。訴えかける秋波。
「透……? どうしたんだ? なんでここへ?」
そこでヒカルは一旦言葉をのみ、その一言を言った。
「───おまえ…死んだのか?」
風のないのに、風を感じた。
少女の顔が近づいて、そしてそのひとみのなかに自分の顔が映っているのを確かめたとき───…、時間が止まった。
ヒカルはぴくりとも動かずに、透が自分の体を通り過ぎていくのを感じていた。
金縛りとはちがう。目の前のありえない現象に動けなかったのともちがう。ただ……動いてはいけない気がしたのだ。
唯一感じたのは、唇のわずかな湿り気。
「ヒカル、ヒカル、何があったの? そこに北岡さんがいるの?」
下ろされた受話器から流れ出てくるあかりの声に、ヒカルははっとする。呪縛された状態から立ち直り、大きく首を振った。
そして手の中の電気機器を持ち上げ、耳にあてる。
「あかり。───今オレのところに透がきた」
「ヒカル…」
「幻だとか言って、ごめんな。それで、おまえ透の電話番号知ってるだろ? かけてくれ」
あかりが思わずいぶかるほど、確りした声だった。―――突然怪奇現象に遭遇した十代の少年のものとは思えないほど。
「い、今の…幽霊とか……そういうやつ…なんだよね。北岡さん……、まさか……死んじゃったの?」
脳裏をよぎった悪い予感を渾身の力で振り払う。
「それを確認するために、電話かけるんだ!」
声が思わず荒くなって、自分で自分に舌打ちする。あかりには常に最大限優しくしたいのに。
「う、うん……わかった。で、でも今、夜中だけど……」
「お前からかけられないなら俺がかける。電話番号教えてくれ」
「……私がかけるよ」
ぷつりと電話が切れ、少し間をおいて鳴り出した。
「ヒカル。北岡さんね───」
ヒカルは息を止めて次の言葉を待つ。
「電話に、出ないの。これ北岡さんちの電話番号なのに。携帯じゃないのに。もう……夜の一時なのに、誰も家にいないみたいなの……」
「わかった。あかり、ありがとな」
ヒカルはクローゼットからジャンバーをとりだし、脱ぎ捨てておいたジーンズを足に通し、肩の間で受話器をはさみながら着替える。その衣擦れの音が聞こえていたらしい。
「…ヒカル、どうするつもりなの?」
「仙台いってくる」
「今、一時だよ!?」
「それが何」
自分でも驚くほど冷たい声が唇からすべり落ちた。
「ヒカル……」
「オレこれから仙台まで行ってくるから。たぶん、二三日じゃ戻ってこれない。母さんたちには電車のなかから電話かけるけど、あかりからも言っといてくれる?」
「───私もいく」
「へ?」
「北岡さんが心配なのは、ヒカルだけじゃないんだから。私だって心配なんだよ。だから私もいく。いいでしょ?」
「…お前、学校あるだろ!?」
「ヒカルだってそうじゃない。どうせヒカルなんて、電車の時刻表も見ずホテルも予約せずに行くつもりだったんでしょ。五分待って。今インターネットで経路を選択しているから。……出た。二時三分発の普通電車で名古屋駅までいって、それから新幹線に乗り換えよ? ホテルはダブルでいいよね?」
ヒカルはすぐさま説得の手間を放棄した。
優しげに見えていくらでも頑固になれるあかりをヒカルが説得できたためしがない。
日付が変わったばかりの深夜、電車の人影は少ない。
並んで座り、定期的なリズムある振動に身をまかせているうちに、隣の少女は眠りにおちてしまったようだった。あかりの重みがヒカルの肩に預けられる。
夜中の一時に電話で叩き起こされたのだ、ヒカルだって眠くなるのが当然なのに。
……なのに目がさえていた。
ヒカルは唇をおさえた。
死者の口づけの感触が、まだ湿り気をおびてそこに残っていた。
たいへん、お待たせいたしました。
鯨とイルカが眠る海と、そして少女は蝶になるのはざまに位置する作品です。
たぶんこれが、最後のヒカルの碁作品になるでしょう。……も、ないよな? ヒカルの碁で書くと言ったやつはないよな?
杉浦明日美はとてもヒカルの碁が好きでした。ヒカルの碁コーナーを見ていただければわかりますが、よくまあこんだけ書いたよって量があります。愛情なきゃできません。そのため、もちろん、ほった先生のことも敬愛しております。
2005年3月現在、週刊少年ジャンプではほった先生の新連載ユートが始まっております。
ネットでの評判は……まあ微妙、というか普通の作品なのですが、どうか長期連載になってくれるよう、皆さん祈りましょう。
2005/04/10追記。
はとり様より、この小説のイメージイラストいただきました!
2005 3/23 up
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