時よ止まれと思ったことはありますか 2




 ふたりが仙台についたのは午前七時に少し欠ける時刻だった。普通列車を使ったぶん、安くて長時間かかったことになる。
 ヒカルは拳を握る。
 ……つとめて脳裏に出てくる最悪の可能性を排除しようとする。そうだ―――死んでしまったはずがない。わけがない。

 それでも不安でならないのは、北岡透という少女につきまとう希薄な空気のせいだ。彼女には、いつも、一種独特の雰囲気があった。生も死も、淡々とした眼差しで、『一歩離れたところから』、見ている。そんな空気。彼女にはがむしゃらに生きるという気配がない。なにがあっても生きてやるというしぶとさが感じられない。だからだろう、何かあれば意外とあっさり死んでしまうのではないか。そういう危うさを感じるのだ。
「あかり、電話かけてみて」
「うん」
 駅前の人の流れのなか、携帯を取り出しリダイヤルする。
 今度は相手が出たらしい。
 あかりの顔が輝いた。
「北岡さん?」
 ヒカルも手に汗握るが、あかりの表情はすぐに曇った。

「こんにちは、あの、一度お会いしました。藤崎あかりです、はい、はい……。あの、北岡さん……透さんに会いに来たんですけど、―――え?」
 あかりの顔がみるみるこわばっていく。
「すみません、病院の名前だけでも! はい、……はい。ありがとうございます」
 ぷつりと電話は切れた。
「なんだって?」
「北岡さんのお父さんがでて……」
 心臓が一つなった。
「うん」
「北岡さん、今集中治療室だって。急いでいるからって電話切られそうになったけど、名前は教えてもらった」
 それを聞いた瞬間、全身から力がぬけた。
「よ……かった〜〜〜っ」
「え?」
「だって、透が死んだもんだと思ってたもん、俺。そっか、生きてるのか、ほんっとよかった。幽霊じゃなく、生霊でいてくれて……ほんとに……」
 幽霊じゃなく生霊でいてくれてよかったというのも妙な話だが、ヒカルの嘘いつわりない心だった。
「うん。……でも、えっとその……今更なんだけど、ヒカル」
 あかりは迷うそぶりを見せたあと、意を決したように一つ頷く。そして仙台駅の通勤客でほどほどに混んでいる改札口の前で、真顔で聞いた。

「あれって、生霊だったの?」
 ……ヒカルは言葉に詰まった。
 当然といえば当然だが、思春期を幽霊と同居してすごしたヒカルとはちがい、あかりはあんな超常体験をするのは初めてである。
 幽霊。この言葉を知らない子供はいない。
 だが、本当に自分の眼で偽りなくはっきりそういうものを見たことのある子供がいったいどれぐらいいることやら。
 あかりが確認したくなったのも無理はないが、こうして日常の場に立って真面目に正面から聞かれると、どうにも返答しにくい非日常的事項でもあった。
「……たぶん」
 結局ヒカルにできたのはそういう曖昧な返答だけだった。
 そんなヒカルを根性なしと言ってはいけない。……たぶん。

     § § §

 知っておくと役立つ豆知識。
 現在滅菌された治療室に入っていて冗談ぬきに生死の境目、瀕死の床にある人間に、いきなり訪ねてきた人間が会えるものでしょうか?
 答え。絶対に会えません。

 そんなわけでヒカルとあかりは病院の治療室の前で門前払いをくらわされてしまったわけだが、それでも、いくつか、わかったことがあった。
 ヒカルはなんとか自分の顔に浮かぶ苦々しい表情をなだめようと努力していた。
 眉と眉の間にくっきり山脈をつくっているのは、精神衛生上もよくないし人生にとっても良くない影響があるのだ、ホントに。
 ああでも腹が立つ。
 ヒカルはもちろん病院の対応に腹を立てているのではない。雑菌だらけの人間を瀕死の怪我人にあわせる病院があったらそのほうがおかしい。
 北岡透の父親がいない。
 北岡透の父親の知人はいる。
 ―――以上の二点で抑えようとしても腹がたってしまうのだった。

 ヒカルは治療室の前の廊下に置かれた黒い長椅子に腰をおろし、膝に肘をついて両掌をあわせてつくった拳を額にあてる。その隣のあかりも硬い顔をしている。さきほど、透の父親の知人だという男性陣のひとり(そう、相手は複数だった)とヒカルが言い争いになりかけたが、その間に入って話を穏便にまとめてくれたのは彼女である。
 しかしあかりにしたところで、納得できないものはあるのだろう。それがじっと待つその表情に表れていた。

 ヒカルは目を閉じて考える。
 ―――自分が死に掛けていたら、両親はどうするだろう?
 母親は絶対に何が何でも来てくれるはずだ。父も、仕事を休んで付き添ってくれるだろう、……たぶん。棋士という職業のヒカルにはわからないが―――会社勤めの社会人にとって、仕事はそれほど大事だろうか? それは、もちろん役職によっても日によっても違うだろうけれど、大事などうしても抜けられない大事な取引とかがある日なんだろうか、それで来れないのだろうか?
 ヒカルたちがじっと待つその傍らで待っていたスーツの軍団は三時間が経過すると一人へり、六時間が経過してもう一人減り。ヒカルとあかりが食事にいき戻ってくると、残りはゼロ人になっていた。
 誰も―――正確には患者の関係者は誰もいなくなった廊下で、初めてあかりがぽつりと呟いた。
「あの人たちは、北岡さんのお父さんのお友達なのかな……?」
「ちがうと思う」
 怒りや苛立ちを隠そうとするとそっけなくなってしまう―――神様どうか未熟な俺に雄大な心をください。
 心の中で祈りながら、ヒカルは食事ついでに買ってきたコンビニの袋からメロンパンを取り出してまずあかりに差し出す。精神が胃袋に与える影響力もそろそろ品切れで、不安で詰まったようだった喉も胃袋も、正常に自分の状態を訴えるようになっていた。
 あかりも素直に受け取ってかじり、一口かじった後思いついたように半分ちぎってヒカルに返した。

 ぱくぱく。
 ぱくぱくぱく。
 しばし二人で同じパンをかじる。幼馴染みというのはこういうのが気楽でいい。気取ろうと思わなくていいから疲れないし、みっともないところも見せるのに抵抗が少ない。
 実はヒカルには「透の父親の知人」とやらに心当たりがあった。
 あかりがした「お父さんに頼まれてきましたか」という質問の返答に迷いがあり、「まあ、そんなようなものだよ」と濁したあたりでピンときたのだ。
 ヒカルにはいい両親がそろっているので、正直わからない―――実の父親が死んだとかひどい奴だとか離婚していて片親いないとか母親が冷たいだとかそういう、「ハズレの親にあたった子供の気持ち」なんてものが。
 そしてまた、「ハズレの子供にあたった親の気持ち」もわからない。
 ヒカルは透をいい奴だと思う。気立てのいい、頭のいい、滅多にないほどいい女の子だと思う。
 でも問題は、透の親が透のことを「ハズレ」と考えていて、透自身自分がそう思われていることに気づいてしまっていることなのだ―――多分。

 ヒカルは食べ終わったメロンパンの袋をくしゃっと丸める。
「なああかり。……ここだけの話だけどさ」
 ヒカルはぐっと声をひそめる。―――なんといっても病院内。病院関係者はうじゃうじゃいる。子供の危篤の床に両親がかけつけないということで関係者としても親子の不和にうすうす気づいてるに決まってるが、わざわざそれを確定にしてやることもない。
「透のお父さんと、俺、大喧嘩するかもしれない」
 あかりの眼がちらっと動いた。
「―――よくないよ、それ。余計……北岡さんとお父さんの仲が悪くなるだけだと思う」
 理解のあって頭の回転の速い彼女はもつべきかな。
 喧嘩する理由を何も言わずに察して答えてくれる。そしてそれは正論だったのでヒカルは息をついた。

 ……一番の問題は、何だろう? 何が悪いのか。
 特別な能力を持って生まれてきた透が悪いのか(それだけはヒカルは断固として認めないが)。
 特別な能力を持って生まれた子供を愛せない透の親が悪いのか(でもそのせいで彼らがいろいろ苦労したのも事実だし)。
 そんな親を、『それでも』愛している透の割り切りの悪さが悪いのか(ヒカルもわかった。プライドの高い透自身わかっているだろう―――彼女は、愛してほしいのだ。乞食のように、犬のように、媚びへつらって恵んでもらってでも両親の愛を欲しがっているのだ。……自分で作ったルールを曲げるほど)。

 最後のことは、それが悪いことだとはヒカルには口が裂けても言えない。
 北岡透は精神年齢が高いけれど、まだ、高校生だ。
 いや、年齢に関係なく、両親の愛を求めない子供がいるだろうか?
 いっそ割り切りができれば楽になれるだろう。彼女が両親の愛に見切りをつけることが、できれば。
 諦めたように笑って、望んでないフリをして、でも内心は欲しがってる。……単純なヒカルですらわかったのだ。透自身気づいているだろう。でも、「それは得られないものだから」。そんなことないというポーズをすることが、透の最後のプライドだ。
 わかる、とてもよくわかってしまう。その惨めでちっぽけなプライドでつくるポーズが、透の最後の砦だ。
 そしてまた、透の両親についても―――来ない理由が、わかってしまう。
 ……自分たちのところにも来たのだ。きっと、透は行っただろう、両親のところへ。
 生霊の形で来た娘の姿―――どう思ったかはあまりにも簡単だった。




2005 3/23 up

ヒカルの碁のページに戻る

 トップへ行く