視覚


 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。
 これが人が持つ基本的な能力である。

 少年は机の上で、札を開いていた。
 ほんものの紙でできた、手書きの美しい絵が書かれた札は、なめらかな光沢と厚みをもって、すんなりと手に馴染む。
 本物の風格ある逸品を裏返していく少年の顔は真剣そのもので、……いや。真顔というよりも、無表情といった方が近い顔をしていた。

 そこに一つの声がかけられた。
「珍しいな。当たりもしない占いをやっているのか? キール」
 底意地の悪さと、音楽的な音程の上下を共存させた声はよく通り、よく響いた。

 しかし少年は顔も上げず、目線一つ眉一つ動かさずに作業を継続する。
 その隣に人影が立った。
 キールと呼ばれた少年は完膚なきまでにその存在を無視し、札を全て開き終えると、やっと顔をあげた。
 隣にいる、先程声をかけた相手に眼をあてて聞く。
「……なんで、おれだってわかった?」

「? お前だろう?」
 キールは言葉を重ねる。
「イールがいつもの様に占いをしている、じゃなく、キールが珍しく占いをしている、なんて、どうして思ったんだ?」
 キールには外見だけなら瓜二つの弟がいる。そちらの弟は、兄とは別で、未来予知の才能を持って生まれたため、よく占いをする。
「ああ……さあ。なんでだろう。言われてみればその通りだが、お前を見た瞬間、そう思った」
「ふーん……。お前、ひょっとして、俺たちを見分けられる様になってきたんじゃないか?」

「そうだったら、心底、ありがたいな。お前ら双子のタチの悪い冗談に引っ掛からずにすむ」
 そう毒舌を返す少年は、腰にまで届く長い髪を持っていた。抜けるように白い肌を持っていた。唇は薄く、瞳は切れ長。瞳の色は銀。長い睫毛が、微妙な陰影を瞳に落とす。
 美人と言われる人間も、どの角度からみても遜色ないということは人である限りない。なのにその少年は、どっからどう見ても欠点の一つも見いだしえない美を、独占していた。
 その唇がほころび、言葉を形づくる。
「で? 占いの結果は?」

「俺に、予知の才能はないよ。……はずれ」
「占いならイールに頼めばいいものを。どうしてわざわざ失敗の確率の方が高い自分でやるんだ?」

 キールは机いっぱいに広げた札を整えながら答えた。
「おまえ、視覚持ってる?」
「はあ?」

「物を見るとき、その裏まで見通せる? ものを聞くとき、その言葉の裏の真実まで聞く耳持ってる?
 ……視覚がなく生まれてきた人間は、たとえ視覚を得ても使えないって知ってるか?」
「……その話は知っている。一度も視覚を体験したことのなく成人した人間は、たとえその後視覚を得ても、使えない。なぜなら彼らは、視覚というものを理解できないからだ。どういうものが視覚なのか、それを理解できない。
……でも、それが何の関係がある?」

「おおあり。俺、お前によく言ったよな。お前が俺の能力を得たら、人の心の奥の奥までのぞきこむ力を得たら、お前は狂うって。あれ、誇張はあっても本当。お前、視覚を一度も得たことのない人間の内面、想像できる? 俺たちは無意識の内に脳裏に現在の状況を視覚情報として、よみがえらせている。でも彼らはそれすらできない。しようがないんだ。知らない、んだから。おまえ、それ、想像できる?
 一度も何かを映像としてとらえたことのない人間が、『視覚』をどういう風に考えているか、理解できる?」
「……できない」

「たとえわずかな間でもいい、幼少のころ、視覚を得たことのある人間なら、視覚を一度失っても復帰させることができる。でも、一度も経験したことのない者は、永遠にその技能を獲得できない。機能的に可能になっても、理解できず、得られない。
それと同じで……精神治療者として生まれた俺の視界は、精神治療者として生まれたから、獲得できるんだ。耐えられる。もしも、『そう生まれなかったお前』がその感覚を得たら、頭の回線が過負荷に耐え切れずにその感覚を切り捨てるな。お前はまた、元通りに物を見るようになる。それをしなければ、……頭が壊れる。つまり、発狂する」

「ナルホドね……。理にかなっているが、で?
それが占いとどう関係あるんだ?」
 シンがうながすと、キールは口を開いた。
「……イールには、双子なのに、なんの特殊能力もない」

「ないのが当然なんだ」
「お前や、圧倒的大多数みたいにな。俺も、それがいいと思う。でもイールじゃ、読めないだろ。精神治療者…シミナーでないと、奥の深いところは読めない。そしてイールにオレの目を貸し与えることもできない。だからオレが占いをやるしかない……でも俺は占者の才能はないらしい」
 とんとん、とキールは札を揃えた。
「世の中ってうまくいかない」

「お前の場合、それほど未来を知りたがっているという事のほうが、不思議だ。お前でも普通の人間のように、未来を気にする感受性の持ち合わせがあったのか」
 この、辛辣な口ばかりきく目の前の相手が、キールをどのように評価しているのか、キールも知っている。

 無感動、無関心。外面良くて根性悪で、極悪非道を地で行く性格。
 家族以外には眉一つ動かさない、冷血の下をいく人間。
「……俺にだって、たまには未来を知りたくなることぐらいある」
 キールは札をそろえると、これまた最高級品の細工と材質の木箱の中に収めた。
 人生で最も恐怖を感じた瞬間はいつか、と聞かれれば、キールはためらいなく一つの時をあげることができる。

 ―――目の前の人間が死にかけたときだ。

 キールは吐息を吐き出す。
 出会いは五歳のとき。もはや、十年をさかのぼる。小さい頃は、今にもまして、恐ろしいほどの美しさだった。そしてそれ以上に、呆れるほどのあきらめの悪さが際立って印象的だった。
 キールは、反発して拒絶した。
 毒舌と皮肉と暴力で間をつなぐ関係になって、今年で十回の春をむかえる。

 十年。
 他者の存在が心の奥深くに食い込むには、じゅうぶんすぎるほどの時間だった。

 

 

2001 11/30 up

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