遺書3

 



 彼らは今年二十七になる。
 もうすでに青年の年域だった。

 ただし、彼らの場合幼少より過重な責務を負わされてきたので、成長したからといって今更その量が増大するようなことはない。

 キールは長身だった。一般の基準より更に高く、シンより頭一つ高い。彼らは成長期前はほぼ同等の体格と身長だったのだが、いつの間にやら追い越されたのだ。
 顔は整っているようだが、シンにはそれは、子供の落書きほどにも意味のないものだった。鏡を見れば世界一の美貌がある。
 シン以上の容姿の人間は探してもおらず、ましてや彼は、容姿に価値観を置いていない人種だった。

 己の美貌ですら顔の皮一枚、と評する彼にとって、キール・スティンの存在価値は、ほとんどが内面からくるものだった。

 そしてそのキールは酒肴の席で眠りについた友人を見つめ、考えていた。放っておくべきか、抱き上げて運ぶべきか。

 抱き上げてもいいのか。

 シンは確かに、人にそのような配慮をさせる存在だった。
 やせ形、中肉中背でいながら存在感が強く、一本の勁草を見るようにぴんと張り詰めた空気を持ち、その磨き上げられた珠のような完璧な美貌はその覇気とともに一定の指向性をもって、人の記憶に強烈な印象を残した。

 多くの場合、その容姿はひややかな水の感触とともに記憶に残る。それは皇族通例の無表情のためと、あまりに容姿がととのっているためと……あとは、彼の内面からにじみ出る雰囲気からだっただろう。

 キールは一言も発さなかった。
 シンを寝台に抱き上げるときも、下ろすときも、しばらくその側で、見つめている間も。
 何も言わず、何も語らず、そして出ていくときも別れの言葉一つなく、密やかに出ていった。
 シンが眠ったふりをして反応を見ようとしていたことに、気づいていたのか。
 それすら判らぬまま、キールは立ち去った。





 シンは寝台の中で、唐突に両目を見開いた。
「影」

 天井を見据えたまま、短く、呼ぶ。
「12から14までの三人でキール・スティンをつけろ。気づかれたら全力で逃げろ。戦いになっても逃げることに専念し反撃はするな。決して傷の一つもつけてはならない」
 了解の意味の定型句が帰ってきた。
 もっとも、影が了解以外の返事を返すことなど、まずない。

「……人形の、王国、か……」
 キールの言葉が痛いのも無視しえないのも、事実の一隅をカットしているからだ。
 シンはそれをもうずいぶんと前から、気づいていた。

 キールは非の打ち所がないほど紳士的にふるまった。意識を失った相手を寝台に運ぶとすぐに下ろし、すぐに立ち去った。
 触れる時間は最小限。思わせぶりな仕草をした訳でも、いたずらを試みるわけでもなかった。
 礼儀を遵守し、彼は立ち去ったのだ。

 そのとき、控えめな声がした。
 影が戻ったのだ。予想以上に早い。
「―――申し訳ありません。振り切られました」

 予想していたことだ。
「良い。通常の業務に戻れ」
 頭を振って寝台に手をつき起き上がり、彼も彼の日常に戻っていった。





 凶報が届いたのは、その日の夕方だった。

 知らせを届けにきた影を下がらせると、シンは職務に精励し、その日の案件の全てを処理したあとに、ナギ家を訪れた。
 公人の枠を越えない範囲で可能なかぎり素早くナギ家を訪れた青年は、キールの棺を目の前にした瞬間、自分の意志とは離れたところでその呼吸を滞らせた。

 青黒い死者の皮膚。
 その皮膚をしている死体は、キールの顔をしていた。

「……親不孝者の、馬鹿息子……!」

 食卓に座ったナギが、肘を卓について額を掌にうずめ、嗚咽を殺している。その隣に、イールの泣くことすらできない白い顔が並んでいる。
 しかし、何もかも遠かった。

 棺のなかで、キールは目を閉じている。その肌色は生者のものではなく、その微動だにしない姿もまた、死者のものだった。
 心臓の鼓動による全身の微細な震え一つない。―――それは死者だけが持ちえる静謐さに違いなかった。

 自分の全身の血が、冷たくかたくなっていくのを感じながら、シンは自分の顔より見慣れた顔の死体を見つめつづけた。
 血は下がりつづけ、そして行き着いたのは、これまでかたくなに閉ざされていた扉だった。その扉は、これまでの頑丈さが嘘のように、たやすく開いた……。

「……シン。シン!」

 はっとして、彼は振り返った。
 ナギが強ばった顔で、話し掛けてきた。
「その……草の民の流儀にのっとって、キールを葬っても、…いいかな?」
「あ……ええもちろん。……死因は?」

「……両手両足の、凍傷。全身が凍結している状態だった」
「事故か、自殺か、他殺か?」
 目線でえぐるようにシンは尋ねる。そしてそれに対して、ナギは何もいうことができなかった。

「……わからない」
「最初に発見したのは?」
「僕だよ」
 シンはイールに視線を向けた。

「……ごめん、シン。語れることはない。家の前で、地面に倒れふしているのを見つけたんだ。今、春だ。この地方では、とうてい凍死なんてしない。でも、雪が残る地方もあるだろう……」

 凍死?  ばかな。

 シンは考慮にも値せずとして一蹴した。
 思い返す情景。
 まだ子供の頃、キールが零下の空気のなか、夏の衣服で黙然と佇んでいた、あの光景だ。

 事故か他殺か自殺か。

 一つだけ言えるのは、事故ではないということだ。……いや、そう言い切れるだろうか?
 キールがああまで寒さに無頓着だったのは、精霊のせいではないか? だとしたら、何かの理由でその加護を失っていれば……。

 シンは頭をふる。
 銀粉と錯覚するような華やかさで、その艶やかな髪が舞った。

 わからない。

 確かな現実は一つだけだ。ここにある、これだけだ。
 シンはキールの遺体を見下ろした。

 木製の棺の蓋をあけ、その頬にふれる。
 さきほどから頭は、必死になって虚偽の可能性をさがしていた。

 触れた手触りは冷えた皮膚の触感。
 人形だとしたら、こんな感触はしない。唇も睫毛も髪の毛も皮膚も。こんな精巧な人形はない。
 投影した映像なら感触はない。よく似た他人なら、見覚えのある服を来てはいない。
 何が何でも否定したいのに、事実は一つしかなかった。

「一つだけ確かな事は……キールが、死んだ、ということだ……」
 目の前に、棺に入って、死体が在る。

 レイオスでは、人の遺体を人の魂と考える傾向が薄い。
 人は、有機質と精神からなり、精神が離れた死体は、有機質の集積物でしかないのだ、と。

「………ひとは……いつでも絶対、必ず死ぬ。だから、その一瞬一瞬を悔いのないように、生きなければならない……」
 陳腐で、ありきたりの言葉だ。
 実際にキールはその言葉を笑い飛ばした。

 けれどシンにとっては、その言葉はこの上なく身近だった。
 いつ死ぬか判らない。そういう風な人生が自分に与えられたのだから。

 欲しいものは欲しいと言って、やる前から諦めたりしないで、手に入れるために努力は惜しまないで。
 そんな風に、生きて、きた。

 キールが欲しいと思ったから、思いを告げた。
 キールの愛が欲しいと思った。そしてキールはこうして死んだ。
 …………わたしのせいか?

「……ナギ、イール。眩暈が、する。こんなところでこんなに早く若死した大馬鹿が、胸のなかでぐるぐるまわって、自分の隣に誰もいないことが、変で・・。ちくしょう!!」

 ナギとイールは飛び上がった。

 その怒号は恐ろしいほど鋭く空気を切り裂き、余韻はいつまでも冷めないでいるのかと思わせるほどだった。

「キールの大馬鹿野郎!!」
 それはいと気高き至尊の君、緑の座の言葉ではなかった。
 大切な人を亡くした行き場のない怒りと悲しみに身を震わせよじる、若造の言葉だった。

 ナギとイールは視線をからませ、何か言おうとしたが、その前にシンはすっくと立ち上がり、言った。

「ナギ。イール。帰ります。…ここにいたら、自分で自分が何をするのかわからない」
 シンは、精一杯の自制をきかせて、ようやくそれだけ言った。
 悲嘆にくれる家族に、慰め役をさせないぐらいの分別は、持っているつもりだった。





『シン。お前がもし、何でも叶う秘石をもっていたとしたら、そしてそのときナギが死に瀕していたとしたら、お前はきっと、ナギに使うんだろうな。自分の望みが何であっても、お前はそれより自分の愛する人間を優先させることができる。そしてそれが、お前の長所であり、短所だ』
 眠る前に、とりとめのない話をした。
 その一つだ。

 話の種は、キールから持ち出したり、シンから持ち出したり。時間は緩やかに彼らの衣に添って流れて、邪魔をしない。シンもかすかに笑って問い返した。
『お前だったら?』

 話の流れからは当然の質問だった。
 キールも予測していたようで、肩を黙ってすくめた。

『俺は、助けない。もしこの世のどんな願いでも叶う秘石がこの手のなかにあったとしたら、自分自身の望みのために使う。俺とお前はよく似ているよ。犯罪に対する意識も、罪悪感の薄さも、愛する者に対する優しさも、計算高さも、演技するのが自然になっているところも。でも、それが俺とお前の、決定的なちがいだ』
 それを聞いたとき、前々から思っていたことの傍証を得たと思った。

 キールは、ひとりだ。
 キールには、おそらく、誰一人として愛していないのだ。
 たぶん、家族すら、愛していないのだろう。

 だれにも期待せず、愛さず、信じない。
 だからキールは、あれほど孤独なのだろう。誰一人として、愛せないから。
 期待していないからこそ、キールはあれほど優しくできたのだろう。

 信じていないからこそ、いくらでも嘘をつけた。
 だれも、なにも、キールは信じていなかった。

 おそらく彼は、自分が救われる、事すら信じていなかったのだ。

 絶望が長い年月のうちに、キールの心を氷の層で分厚く鎧った。貝が核に何千枚もの膜を覆わせ、しまいにはその核をすっぽりと隠してしまうように。

 そしてそれに抗する術も、気も、おそらく彼にはなかったのだ。




 その日の夜中、シンは再び訪れた。
 そのときすでに、彼は理性という名の鎧に身をつつんでいた。

 玄関の次の間は、食堂だ。そこに行くと、そこにはナギと、無言の死人が待っていた。

「……やあ」
 食卓について、青ざめた顔で、ナギは片手を上げた。
「ナギ……」

「キールが……死んだよ」
「―――シミナー管理局のつまらぬ戯言はご心配なく。私があなたを守ります」

「そうか……そういう問題もあったっけな。すっかりもう忘れていた。緑の座の知り合いがいて、よかったよかった。ほんとによかった。ははは……」

「……ナギは、キールが夜中に散歩していたことを、ご存じでしたか?」
 ナギの笑い声が止まった。
 シンをいぶかるように見る。
「え……?」

 その表情に答えを見いだし、シンは短い吐息を吐いた。
「ご存じない……。つまり、あいつは、とことん、用心深かったわけですね。散歩の前に、ナギとイールに眠りの術をかけた。私よりも草の民のあなたがたの方が、ずっと気配にはさとい」

「……え? どういうことだ?」
 シンは手短に説明した。

 キールがときどき、夜中に散歩していたこと。そしてそのときは、かならず、事前に、ナギとイールを眠らせたことなどを。
「私を除外した理由は、本人から聞きました。曰く、家族は心配させたくないけど、お前はどうでもいいから、だそうです。私の口がかたくて、告げ口などしなさそうなのも、一因だったでしょうが」

「……なぜキールは……そんなことを」
「そうしなければ、精神の均衡がとれなかったからでしょうね」
 シンは冷徹にこたえた。

 心的負担があったとき……治療の後は、かならず、キールは夜中に家を抜け出したところから見て、そうとしか考えられないのだ。
「……そういえば、あの子は、何も言わずにため込む人間だった……」
 ナギは両手で頬杖をつき、額を押さえながらうめくように言った。

 ナギは顔を上げる。
「なんで、君は、それを?」
「――二十年、黙っていました。もし貴方がたに教えれば、キールはきっと、逃げ場所を失い壊れてしまう。そう直感していたからです」
 シンはそこで言葉をくぎり、壁の一面を占める窓に目を向けた。

 その静謐で硬質な美のただよう横顔に、ナギの目が感嘆に変わったが、シンが気づくよしもない。
「…キールは強い人間です。でも、哀れな人間です。キールは、誰をも頼らない。期待もしない。ただ、自らの力を信じるだけです。自らのなかに閉じこもって、自分で自分を癒すしか、癒されないんです。ナギにも、イールにも、自分の傷を見せても、何もできないと、キールはそう思っていました。それが正しかったのかどうかは、もはや知る術もありませんが……」

 だが少なくとも、シンには、キールは、道を開いておいたのだ。
「でも、貴方がたにそれを教えれば、貴方がたはきっと善意から、キールの逃げ場所を奪ってしまう。キールに善意から事情をきき、その善意で、キールは追い詰められる」

 ナギは一言も言葉を発さず、掌に顔をうずめた。シンの言葉の正しさを、認めたのだ。
 そこにシンは声をかける。
「教えてください。キールが、あなたを、頼ったことはありましたか?」

「家族だからね……」
 伏せた顔のまま、手のひらに顔をうずめて、ナギはつぶやくように返した。

 そしてその言葉を応と捉えればいいのかシンが迷った刹那、ナギはつづけた。
「家族だからね、もちろんあるよ。どこそこにあるあれを取って、皿出して、これしまって、ってね。ないほうがおかしい。でもそれは頼るとは言わないだろう?」
 シンは目をふせた。
「じゃあ……」

「あの子は、自分の事は自分でやって、家族のことまで自分でやる子で、頼ったことなんか一度もなかった」
 シンは目を閉じた。

 自分の馬鹿さ加減が、今更ながらによくわかった。

 誰にも頼ろうとはしないで、誰も信じなかった、キール・スティン。
 でも、彼は、シンには、頼ったのだ。

 言葉にはならない……言葉にしない、信頼に、気づきもしなかった。
 そもそもキールは、素直に人に対してそんな事を口にするような性格じゃなかった。

「……シンは、あるのか?」
 見せびらかすことになる。そう思い、否定しようとしたが、結局首を縦にふった。
「はい」

 もしも俺が…いつか死んだなら、その時はナギとイールを守って。
 二人とも子供だった頃に誓った約束。

「……キールの死因の捜査は圧力をかけておきました。理由は、わかっていますから」
 ナギが顔をあげた。
「わかっている?」

「自殺です」
 簡潔な言葉に、ナギがどれほどの衝撃を受けたのか、顔からすうっと、血の気が下がっていくのが、よくわかった。
「な……」

「考えてみると、それしか、ないんです。他殺であっさり殺されてくれるような人間ではありませんし、薬物反応もなかった。事故は、なおさらない。凍死の事故は、どうすればできるというのです? 転移すればいいのに。家の前に倒れていたのでしょう? 最期の力を振り絞ってやったのか、……自殺です。 事故とも自殺とも他殺ともとれる状況ですが、……。けれど自殺となれば、貴方がたは、ただでは済まない。ですから、事故として処理します」

「自殺……」

「成人まで、あとわずか……。キールが成人すれば、もう終わりです。四六時中見張りと監視と保護がつきますから。おそらくキールは、私の行動も読んでいたでしょうね。事故自殺他殺……どれともわからない状況ならば、私が圧力をかけて事故にする、と。ナギ。キールの部屋に、遺書はありましたか?」
「……いや……ない。シンは、何か、受け取っていたか?」

「いいえ、残念ながら、何も。……自殺と断定される状況は、残したくなかったのでしょうね。あ……そういえば、一つだけ…」
「なんと?」
「いえ……。まだ不確定なので、わかりません。わかったら、知らせます」
 シンはかぶりを振り、答えた。

「………なるほど。シンは、キールが唯一弱みを見せられる相手だったんだな」
 シンは否定しなかった。

 お前はともかく、家族には心配させたくないから。
 …その言葉は単なる盾にすぎなかった。

「ええ……、たぶん、そうだったんでしょうね」
 そう呟いて、シンは目をふせた。
 でも、気づかなかった……。

 胸のうちで呟く声の主を、よく知っている。
 それは、「後悔」。






 草の民流の葬儀でキールの死体が跡形もなく無くなると、シンは足を皇宮ではないところへ向けた。

 遺書。

 そんなものがあるとしたら、シン自身の内部に、だろう。託された日もわかっている。問題は、内容がさっぱりわからない、という事だった。
「あの卑怯者が……」
 苦味ばしった蔑笑を、シンはその顔に浮かべた。
 そのような表情でも彼は美しかったが、生気というものが欠如した微笑は、彼の魅力をはなはだしく損なっていた。

 キールがどんな行動を起こしたのか、知っている。
 連綿とつづく一連の記憶のなかの、たった一穴の白。記憶のない一日。

 記憶を失った日、キールは疲れ果てていたという。当然だ。  キールは、この自分の記憶を封印したのだから。

 今になって思えば、あの日に問い詰めればよかったのだ。二人で酒を酌み交わしたあの日に。
 でも、できなかった。
 どんな事をしたのか。何故したのか。
 問い詰めることは、今の均衡を壊してしまうのではないかと考え、――永遠に機会を失った。

 今でも知ることへのためらいはある。けれど、それ以上に知らなくてはならないという思いは強い。
 キールはなぜ自ら死を選んだのか。
 その答えはきっと、あの日の記憶にすべてある。

 あの日、何が起き、何によって記憶を失ったのか、それを知らなくては、自分は前に進めない。
 キールの青黒い死に顔から、前へ。

 高床式のナギ家には、地上と家までの間に、子供の身長ほどの空間がある。

 もしも……。
 もしも、何か連絡事項があれば、ここに書いておくことにしよう。ナギとイールにはばれないようにな。

 キールとの、秘密の符牒の、その、ひとつ。

 脛に傷持つ者はつらい。
 どこぞの秘密諜報員もどきに、さまざまな暗号を駆使しなければならない。
 そこに潜り込むと、一枚の紙片が天井にピンで留められているのを発見した。

 呼吸するのも惜しい性急さでそれを剥がし取ると、キールの筆跡があった。
 鍵は、お前のなかに。

 鍵――シミナーに共通する比喩。
 「シミナーは鍵を持つ。けれどもその鍵は使われることなく朽ち果てるが定め」
 守秘義務についての、シミナーの定型句!

 シンはぐしゃりと掌の上で紙片を握り潰すと、キールを思った。
 キールの人格、思考形式。
 シンは誰よりよく知っている。
 鍵は、お前のなかに。
 この言葉の、意味は?

 キールは巧妙に人の心理の裏をつく。盲点を攻めるのだ。
 けれど、この場合は、発見されなければ、意味がない。

 思いついて、シンは、あの日キールが泊まった部屋を仔細に調べさせた。調べたのは、もちろん影である。
 その結果見つけだされた紙片を見て、彼はため息を吐き、つぶやいた。
「これは、伝言ゲームではないんだぞ…」

 シンは紙片の内容をざっと斜め読みし、自分の私室から、一葉の手紙を探り当てた。
 手紙の内容は、予想とは大幅に違っていた。

 遺書ではなく、意図もよくわからない。ただ、指定の場所に来てほしいというものだった。
 ただし、問題は、手紙の書かれた日付が、キールが死ぬ前だったということだ。…考えてみれば、当然のことだが。
 でももしも、そうでなければ、どれほど良かっただろう。

「やっぱり……死んだのか…?」
 シンは自分がいまだキールの死を信じていないことに気づいた。

 キール・スティンは死んだのだ。
 死体も、自分の目で見た。
 法的な手続きも、もう済んで、社会的にもキール・スティンは死者の列に入る。

 なのに、奇妙に、冷静なのは、どこかで期待をしていて、信じきれていないからだ。
 まるで夢のなかを歩んでいるような、頭の一画が冷静で、自分を見ている自分の存在を感じる。
 「キールが死んだ世界での自分」を、映画でも見ているように、見ている。

 親しい人間が死んだら、人は皆、こうなるものなのかも知れない。
 これが夢で、錯覚で、幻で。さまざまな理由で現実ではないという印象が拭えない。そこまでは普通だ。でも、本当にそう思い込んでしまったら、それは廃人という名称がふさわしい。

「キール・スティンは死んだ……」
 死んでしまった!
 二度と会話をすることも会うこともない。
 失われた記憶の一日は永遠に戻らない。

 理性はそう告げる。でも感情が、もう記憶の糸をたぐってもその先に誰にもいないのだということを許容しない。

 ……以前にも、こんな感覚にはおぼえがあった。
 兄が死んだときだ。

 でもあのときは今よりは楽だったように思う。誰かが、珍しく、物凄く珍しく、天変地異を本気で心配したほどに優しく、悲しみと怒りと絶望と自分でもわけのわからない混合色の感情と、……逃げを抱きとめてくれた。

 シンは窓の外の暁闇を眺めた。
 子供のころ、キールと一緒に寒さに震えていたとき、もちろんキールはシンに声すらかけなかったけれど、雪が降ってきた。

 花のように。
 
 より寒くなったはずなのに、何故だろう? すっと、体の震えが消えて、シンは膝をのばし、背筋を寒さに曲げずにまっすぐにすることができた。
 二人とも、子供で。
 自分はあまりに幼かった。

 キールは何を話し掛けても言葉はなかったけれど、二人で雪をながめた。
 吸い込むと、気管に痛みが走るぐらいに、空気は冷たく、鋭かった。

 そして、シンが毛布をかぶせた相手は、毛布を払い落とそうとはせずに、透明な表情で空を見上げていた。

「……いかなきゃな」
 キールが何を見てほしいと願ったのか、それを知らなければその死を受け入れることはできないということを、シンは理性によらず、知っていた。

 


たぶん、次で……終わり……だと思うんですけど……。
自分の首をしめることになるかもしれないんで、断言はやめておきます。

 繰り返しますが、「完全異次元別世界」と思ってくださいね。

 

遺書2へ戻る 遺書4へ続く

シリーズのページに戻る

トップへ