遺書

 

注意!  完全なる別次元異世界だと思ってください。
キャラの性格も、微妙にちがいます。

 

思い返すのは、冬。

 空気が何枚もの衣服の網の目を貫いて皮膚に冷気の針を突き刺し、中の人間が身を縮め、家族同士で体温を交換し共有することで命を保つ冬の季節。

 雪のなかで、素肌と外気の間に薄い布を一枚かけたのみでたたずむ少年。
 その体はまっすぐ伸ばされて、寒冷に体を丸めることもない。その様子は少年のまわりには冷気も及ばぬのではないかと、そんな事すら思わせた。

 冷気をまとった風が吹くたび、何枚もの防寒具をまとった自分ですら身をかばうのに、少年は一枚と呼ぶのもはばかられる薄手の服一枚きりで、微動だにしなかった。

 いつしかその側で手をこすり鼻を暖めていた手が止まり、寒さを忘れて、彼は少年に見いっていた―――。




「……頭痛が、する……」
 シンは頭痛で目が覚めるという、あまり爽やかではない目覚めをした。

 場所はいつもの、キールの家の子供部屋に、三つ並んで置かれている寝台の中である。
 ひとつあくびをし、欝陶しい長い銀髪をかきあげ、寝台に手をついて起き上がろうとした。

 むにっ。

 手をついた場所から、奇妙な手応えが返ってきた。
 下を見ると、肌色が見えた。
 生成りの敷き布の上の、肌色。
 赤緑黄白。端切れをつないであるために、色の対比が鮮やかな布団から、裸の腕がにゅっと突き出ていた。

「……」
 きっちり五秒それを眺め、無言でシンは布団を剥いだ。
 すっぱだかのキールだった。
 自分を見下ろした。
 何も、つけてなかった。

「………」
 頭が、鐘のようにがんがん鳴っていた。鳴らされるのは、音ではなく痛みだったが。

 シンは大混乱無表情のまま、とりあえず床に下りた。
 服を探して、椅子にかけてあるのを見つける。
 じっくり服を点検したが、嘔吐の跡は何もない。……ということは……。

 それ以上は考えるのが恐かったので、やめて服を着た。
 服を身につけると、やや安心する。やはり裸でいるのは落ち着かない。
 そして寝台の上に転がっている相手を見る。やはり、見間違いではない。

「…キール? イール?」
 もう、十五年もつきあってきて、さすがに、起きているときならば見分けがつくようになったけれど、寝ている顔で見分けなんかつくわけがない。
 外側は、寸分違わず同じなのだから。

 シンは、どちらなのか不明の相手の頬を、指でつまんだ。
「ん…? ねむい……」
「起きろ!」
 珍しく、声を荒げた。
「なんだよ……あ、シン」

 目をさましたキールがまっさきにしたことは、シンの顔を見ていかにも嬉しそうに笑い、口づけようとしたことだった。
 自然な仕草で頭を引き寄せられ、目尻に唇が触れた。
 シンはあわてて振り払う。

「な…っ! なにするっ」
「なにって……。口づけ」
 シンはきょとんとしているその顔を覗き込み、目の奥を見た。

「……キール、だな?」
「そーだよ。ところで、何その態度」
 接吻されそうになって振り払った。
 それだけなのに、キールはいたく不機嫌そうだった。

「…………聞くけど、昨日、何が、あった?」
「―――覚えてないのか!?」
 怒鳴られるように返されて、思わずひるんだ。

「じつは……さっぱり……。酒飲んだことは、覚えてるんだが……」
 キールはしばらくの間、沈黙していた。

 やがてくしゃりと顔を歪めて苦笑し、言葉を吐き出す。
「ひっでー…。ほんとに、何も、覚えてないわけ?」
「ほんとに、何も。だから教えてくれ」
「知・る・か」
 顔をしかめ、歯を剥き出して。
一言一言区切って言った。

「ナギとイールに聞け。俺は寝る」
 キールは布団かぶって背中を向け、「もう知らない」という意思表示をする。

「ちょっと待った! その前にひとつだけ答えろ。なんで私は裸でお前も裸で一つ寝台の上で寝てたんだ?」
「知るか。ナギとイールに聞け」
「聞けるか、こんなことっ!」
「……それもそーだ」
 キールはようやくシンの方を向いて、言った。

「二人が裸で一つ寝台の上で寝てやることは?」
 ……シンは重苦しく沈黙した。
「ほんっとに………………したのか?」

「一つ言っておくと、おかげで、俺は、昨日一睡もしていない。わかったか? わかったな? じゃ、少し寝させろ。ばいばい」
「ばいばいって……」
 再び布団をかぶって寝たその姿は、「絶対断固として寝るまで起きない」と雄弁に示していて……、シンは、ナギの部屋の戸を叩いた。

「…あの、ナギ? いらっしゃられますか?」
 返事がない。
 開けて入ると、そこはからだった。

 イールの部屋は、今さっき自分が寝てた部屋で、いないことはわかりきっている。
 食堂に行っても、厠に行っても、菜園に行っても、イールもナギもいなかった。

「……イールは、仕事があるからわかるとしても、ナギは、なんで、いないんだ?」
 ずきずきがんがんする頭をかかえ、シンは昨日の事を思い出してみた。

 ……いつものように自分が酒を持ってきて、四人が珍しく集まって、一大宴会場となった。
 いい気分で酒をついだことは覚えている。でも、それからの事は、記憶に……まるでない。
 いや、一つだけある。

 眠りながら、キールの汗ばんだ肌の匂いが傍にあった。

 潔癖症の自分にしては珍しく、それは嫌悪感ではなく安心感をもたらすもので、その暖かさと意外なほど逞しい体に、直に包まれて眠った。
 その気配を、朧に、憶えている。
「……ほんとに、したのか?」

 自分に問い掛け、シンが浴室に足を向けたとき、声がした。
「ただいまー!」
 ナギの声だった。
 玄関に行くと、イールも一緒だ。ただし、二人はシンを見ると、何とも言えない気まずげな顔をした。

「ナギっ! イールもっ。昨日、何があった? 教えてくれっ!」
「―――憶えてないの!?」
「憶えてないのか!?」
 異口同音に、同じ事を叫んだ。



 玄関で立ったまま話をすることもないだろう、と、食卓に場所を移動し、事情を説明すると、二人ともため息を吐き出した。
 イールが言う。
「シン……。キール、怒ったでしょ」

「あ……いや、別に。不機嫌そうではあったけど」
「へー、キールって、意外と寛大……。僕なら絶対、怒るね。烈火のごとく、怒る」
「…………あのー。昨日、いったい、何が」
 話の流れから、どうしても声が小さく、体も小さくなってしまうシンだった。

 イールとナギは目線で押しつけあい、ナギが話し役を引き受けて、話しはじめた。
「昨日、シンはキールに告白したんだよ」
 ぴしり、と網膜に亀裂が入った。

 三秒間を開けても、
「…うそ……」
 という間抜けな言葉しか出てこなかった。

「そう君が言う気持ちもわかる。ひじょーによくわかる。私も昨日は自分の目と耳と正気を疑った。で、キールは、諾と答えた」
「……。で、それから……」
「で、それから、二人して寝台にしけこんだんだよ。いくらなんでも、そんなところで同じ家で、しかも狭い家で、酒なんか飲んでられない。そういう訳で、イールと二人で逃避した」
 イールが同情と非難を込めた眼差しを送る。
「ほんっとに、ぜんぜん、憶えてないの? シン……」

「……ぜんぜん……。そうか、やったんだ、そうですか……だーもうっ! なんでちらとも憶えてないんだっ!」
「さあ。酒飲んでいたからだろう」
 もっともな言葉だったが、何の解決にもなっていない言葉だった。

 シンはがっくりと肩を落とした。
 自分が?  キールに?  愛の告白?
 ……嘘だと言ってほしい。
 心底からそう思った。

「で、これからどうするわけ?」
 イールの一言は、この場で最も冷静な一言だった。
「……。とりあえず、キールと話してくる……」

 シンは席を立った。
 寝室では、キールがすーすーと寝息をたてていた。
 それを見下ろし、シンは一人ごちる。
 こいつに告白?  世界で最も笑える喜劇だな。

「……そこで黙ってじーっと見てるなよ。気になる」
 膨らんだ布団の内側から声がかかって、シンは目を見開いた。
「なんだ、起きてたのか?」
「お前が入ってくる気配で」
 草の民は気配に敏感だ。

 キールは布団の上に顎をのせて言う。
「……で?」

「で? って?」
「何の用事でしょーか? 俺、寝たいんですけど」
「……昨日の一部始終はナギとイールから聞いた。ほんっっとに、私が、お前に、愛の告白をしたのか? イールが彼女を孕まして駆け込んでくる方がまだ信憑性があるぞ」

 キールは何一つ身につけてない剥出しの腕を布団から出して、前髪をかきあげてあくびをした。
「おまえさあ……。そっちが勝手に忘れておいて、その言い草はないだろ」
 ぐ、と言葉につまる。

「……悪かった。でも、…不思議で」
「はいはい、わかりました。昨日のをもう一回やればいいんでしょう。――シン」
 真顔で見られて、どきりとした。
 その反応を見て取って、キールは唇に笑みをはく。
「『私にせめて、あと五年の寿命があれば、と何度も思った。そして私はその寿命を得た。お前を愛していると、今やっと言える』」

 シンは沈黙していた。
 記憶の棚を総ざらいしてみたが、記憶がよみがえってこない。覚えもまるっきり、ない。
「…一つ、聞きたい」

「どーぞ」
「それで、お前はなんて答えた?」
「『何たくらんでる?』」
 言って、キールは首をかたむけ、くすりと笑った。

 しかし、シンにしてみれば、まだしも自分の驚天動地な言葉より、キールが絶対に言いそうな言葉の方がはるかに心に負担はかからなかった。
「……それから?」
「『言うと思った。じゃ、何に誓えばお前は信じる? 私の命に? 緑の座の地位に? それとも、私自身の名に、誓おうか?』」

「……いかにも私が言いそうな言葉だな。それから?」
「『ここで自殺してみせたら、おまえは、私の言葉を信じるか?』……おい、こら、顔を背けるな。耳をふさぐな。ほんとに、お前が昨日の晩そう言ったんだぞ!」

「まったく記憶にないのに、責任とれるかーっ!」
 耳をふさいで逃げ出す体勢に入ったシンに、キールは渋面で、成分のほとんどを呆れにしたため息をついた。
「まったく……自分で忘れておきながら。いいか、シン。そのあと、お前は、人の手をとって、心臓の真上に押しつけて、輝くような笑顔で言ったもんだ。『ほら、緊張しているだろう?』と」
「……聞くに耐えない」
 額をおさえた、シンだった。

「もっと恥ずかしい台詞を昨日白々しくも言った人間が何言ってるんだか……」
「……憶えてないんだ」
 ため息をつき、すまなさそうに、シンは言った。
「『この鼓動の音が、お前には聞こえないか? 私がお前を愛していると、何度言えばお前は信じる? その回数だけ、私はお前に告げよう……』」

「も、もう、やめてくれ……全身に発疹ができそうだ」
 自分がそんな台詞をキールに対して吐いたなど、今すぐ目の前の人物のどたまをかち割って、事実を永遠に抹消したいところである。
 しかし、シンは顔をあげた。
 ある事に思い至ったのである。

「…? えーと、それで、お前と私が一緒に寝てたっていうことは」
 キールは白々しく聞いてくる幼馴染みを、白い目で眺めやって言った。
「……今、俺、お前の頭をかち割りたくなった」

 さすが、似た者同士の二人である。
 考える事までよく似ている。
「そのあと、お前が俺を寝室に連れ込んで、押し倒して……」

 シンが珍妙な顔をすると、キールはにやりと笑って言った。
「思い出したか?」
「……いや、それは……。したのか?」
「ほー。なら教えてやる、お前は、昨日、横になった途端ぐーすーかーっと寝たんだっ! しかも人の腕をつかんだまま!」

「え? じゃあ……」
「……意識のない相手を襲うかよ。人を押し倒しておいて、くーすーすーと人の上で寝息を立てられた時には、崖の上から粗大ゴミとして捨ててやろうかって思ったけど」
「ああ、なんだ、じゃあしてないのか」
 キールはぎろっと横目で睨み、とびきり優しく笑った。

「そして、俺は一睡もできなかったというわけです。しかもやっと眠れると思った途端、お前が人を叩き起こすわ、その挙げ句、何にも憶えてないと堂々と言い放つわ……。多少嫌がらせしてやろうと思ったとしても、ばちは当たらないと思わないか?」

 シンは腕組みをして、首を傾け、苦笑した。
 そう言われても、起きたとき自分は本当に何も憶えてなかったのだ。
 最も手近にいる相手に聞くのが最短の道ではあるまいか?

「わかったならさっさと出てけ。俺は寝る」
 再び枕と接吻し、キールはひらひらと手を振ったが、シンは腕組みをして、こう言った。
「それは、眠りたいという意味か、抱きたいという意味か、どちらだ?」
 キールの顔があがった。

 冷静で挑発的なシンの返答に、キールはくすりと笑いを瞳に宿す。
「…とりあえず、前者。でもお前が頷いて俺の手をとるなら、後者」

「じゃ―――」

 シンはキールが寝ている寝台に膝をついて昇った。
 キールの顔を両手でつつみ、目線を合わせる。
「…悪かった。お詫びに、お前の手、今取ろうか? それとも、お前が眠った後、取ろうか?」

 微笑にも声にも、背筋が震えるほどの艶があった。
 火に焼かれると分かっていながら飛び込む虫のように、破滅と知りながらも人を魅入らせ酔わせてしまうほどの、何か。
 
 しかし、キールは表情も変えずに返した。
「シン。手を、離せ」
 有無を言わさず人を従えさせるだけの力を持った、氷のように冷たい声だった。

 逆らわず、表情に屈従の色も浮かべず、あっさりシンはキールの顔から手を離す。
「寝る」
 そう言ってさっさと布団にもぐりこみ、演技ではない寝息を立てはじめた青年を、シンは苦笑とともに眺めた。

 これが、仮にも、「好きだ」と告白した相手への反応とは、とてもとても。
 まあ、それを言うなら自分もなのだが、記憶していないだけに、そんなくそ恥ずかしい言動の数々をとった自覚はまるでなかった。
 キールのことは、好きだったが。


 人は、周囲の人間には見ないものを持つ相手に惹かれる。
 シンにとって、キールは唯一、自分に対して歯に衣着せずに喋りたいことを喋る人物だった。
 そして、自分と対等以上にやりあうその能力に、敬意すら抱いていた。シンはそれを面と向かって言うぐらいなら、死んだほうがまし、と思う種類の人間だったが、おそらく、キールには察知されているだろう。

 人の標準からはるかに抜きんでた洞察力と、分析力。
 誰にも頭を下げないということが、許される相手だった。
 自分が緑の座となった今では、ただ、一人、自分に臣従することも、拝跪することすらなく、「立っている」、相手だったのだ。

 敬意と、愛情。
 冬の日に、身を切られるほどの寒さのなか、半袖で屹然と立っていた、折れそうに細い体の少年。
 それを見た遥かな昔から、心のなかに湧き出た想いは、さながら小川がしだいに量をまし、大河となるように、自分の心に占める面積を、時とともに着実に増やしてきた。

 あのとき、自分は、自分を寒さから守っている衣服の一枚を脱いで、この少年を暖めたいと、そう……感じたのだ。
 自分の身を削って危険にさらしてでも、救いたい、と。
 それがどこからくるもので、どういう感情なのか……、シンは、気づかないでいられるほど、自分に対して鈍感ではなかった。

 酒は、己の自制心を無くす。自分で定めたはずの枷も何も、すべて、壊してしまう。
 一片の記憶もないけれど、自分がキールに告白するのは、有りえることだった。
 キールの髪をなで、シンはかがみこんだ。

「お前を、愛しているよ」

 夢の国を訪問している相手には、届くはずもない不着の手紙を出して、シンは部屋を出た。
 そしてすぐさま足を止めた。
「……何やってるんです、ナギ、イール」

「い、いやあ……ちょっと、好奇心というか……」
「ナギ」
 遮るように名をよんで、シンは、自分にとっても大切な人と目を合わせた。
「お許しくださいますか?」

 イールが、息をのむ気配がした。
「……真剣なのかい?」
「今は」
 嘘偽りなく、正直にシンは答えた。

 未来はどうだかわからない。
 いや、未来の保証のある恋など、宇宙のどこにも存在しないのだ。

「……一つ聞いていいかな。あの馬鹿息子の、どこがいい? 悪口ばかりなのに」
 シンはにやりと、露悪的な笑顔を向けた。
「私を特別扱いせず、悪口も皮肉も罵倒もするところですよ」





 シンが立ち去り、その夜、イールが部屋を訪ねると、キールはまだ寝ていた。
「キール!」

 布団からひきずりだすと、キールはねぼけ眼をこすりながら、抗議の声を上げた。
「イール。ねむいー。あともう少し……」

 イールはため息をついた。
「もう、半日以上たってるよ。昨日、一体何時までシンと、起きてたわけ?」
 微妙に、「シンと」の部分に力がこもっていた。

「……言っておくけど、何もなかったからな」
「そーなの?」
「そう。起きてたことは起きてたけど……。眠い。ほんっとに眠い。シンの誘いも断らざるをえなかったほど、眠い。おやすみなさい……」

 ふたたび布団の海に潜ってしまった兄を目の前に、イールはやれやれと息をつき、言った。
「シンが、ナギに許可求めてたよ。付き合いたいけど、いいかって」
「……」

「緑様になったのに、全然変わらないね。あんなに美人で緑の座なら、むしろ相手する方が喜ぶだろ。いくらでも引く手あまただろうに、なんでキールを選ぶかなあ?」
「知るか……俺が聞きたい……」

「……僕の勘の的中率は、キールも認めてるだろ。シンは本気だよ。少なくとも、今はね。いつからかは知らないけれど……、シンは、ずっと、キールを想ってきたんだと思う。でも、今まではいつ儚くなるかも、判らなかったから、言わなかった。でも、もう、彼は緑の座だ。シンを傷つけることができる者は、この星にはいない。 だから、来たんだろう?」

 あの、非の打ち所のないほどに美しい容姿の下に、長い時間を秘めてまたそれ故に大きくなった恋を隠して。
 どんな恋もたやすく手に入る美貌の主が、抱いた、掛け値なしの真実。
 生涯で唯一、その容姿に惑わされることのなかった主に対する。

「……キールは? シンが好き?」
 答えはない。
 しかしそれが眠っているからのものではない事を、イールは確信していた。



 その翌日、シンはナギの家をたずね、家に入る前にキールを発見した。
 ナギ家のとなりには、樹齢何百年かのありふれた樹がどっしりと根をはり、そびえている。

 キールはその樹に右手をあて、何かを樹と語らうように、仰向いていた。
 シンは数歩の距離まで近づくと、自然と足を止めた。
 空気に色がついたように、そこだけが普段とは違っていた。

 切り取られ封じ込められた、薄緑色の空間。
 キールはしっくりとそれに溶け合い、不可欠な一要素となっていた。

 キールには不思議と清明な雰囲気があった。キールの所業を知っているシンなどは、大量殺人者になぜ、清水のように冷たく澄んだ印象を感じるのだろうと、自分で自分を疑問に思ったものだった。
 それは、多くの人が価値観をおくもの、そしてそれでいて、俗っぽさを拭いきれないもの……金や、権力に、キールが些かの重みも置いていないためかも知れない。

 キール・スティンが金によって動く人間ではないことは、シンは自信を持っていえる。

 金に価値観をおかず、買収できない人間というのは、確かにいるのだ。もしキールが買収できる種類の人間ならば、シンはもっと、楽ができただろう。
 キールはその血に塗れた手とは不釣り合いに、金や権力、そういうものとは距離を置き、清潔な印象を保持していた。

 樹に手をあて、仰ぎみている相手にシンは声をかけた。
「キール」

 びく、とキールが体を震わせ、振り向いた。
 シンはゆっくりと歩いて、キールの隣に立つ。
 シンは自分でも意識にのぼらない、かすかな微笑を口元にたたえていた。
「好きになったのがお前で、良かったな」

「え……?」
「私は緑の座だから、意識しない言動が、人の目や耳に、強制や命令ととられてしまう。でも、お前になら、こんな質問も気兼ねなくできる。お前は、私に膝を折らなくてもいい、唯一の人間だから。『―――私は、お前が好きだ。お前は?』」

 キールはシンの視線を避けるように目をそらし、下を向いた。
「俺は……」
「酔った日のことは、未だに何一つ思い出せなくて、悪いとは思う」

「……」
 ない返答に、シンは笑みをかみ殺す。そして聞いた。
「私が、嫌いなのか?」

「……嫌いだったら、十五年も側にいない」
「それは、嫌いじゃないという意味か、好きという意味か、どっちだ?」
 キールが顔から一切の表情を消した。

「……嫌いじゃないよ、お前のことは。本当に、嫌いじゃない……。でも、……」
 戸惑いと、逡巡。
 相手を傷つけることへのためらいが、透けて見える表情。
 それだけで、シンには続く言葉がわかった。

「……でも、お前と同じように、お前を見ることはできない。それができるような、浅い関係じゃない。俺はお前を、気のおけない友人、喧嘩仲間としか、見ることはできない」
 薄々、分かっていたような気がする答えだった。

 シンは長い睫毛をふせ、その彫りの深い顔に陰影を付け加えた。
「そうか……」
 キールはシンを、ある意味では愛しているだろう。

 さもなくば、こうもはっきりと断るはずがない。利用価値は無限大で、その上遊びとしても極上なのだから。
 そういう意味では、大切にされていると、思っていい……。
 シンはそう考え、自分を慰めたが、次のキールの言葉に凍りついた。

「俺は、もう、お前とは一緒にいられない」
「―――! なぜ!」
 振り仰ぐと、キールは澄んだ底の見えない瞳で、シンを覗き込んだ。

「だって、そうだろう? お前の手は取れないんだから」
「別に、今までどうりでもいいだろう!?」
「冗談じゃない。それこそ論外だ。だって、お前は、万人にとって魅力的だ。俺にとっても」
 …でも、手はとらないくせに。

「そのお前が、遊びでもいいと言っていて、身近にいて……。手をださないでいる自信は、正直、ないね」
「本人が、遊びでもいいと言っていても?」

「言っていれば、なおさら」
 シンは、胸の奥から沸き上がってきたものに、泣いているような笑っているような喜んでいるような、微妙に混ざりあった表情を浮かべた。
「お前は、そういえば、自分に真剣な想いを向けている相手には、絶対に、遊びでは手をだせない奴だったな……」
「え!?」
 意外な言葉に、キールは驚きの表情を浮かべてシンを見た。

 シンの顔に浮かんでいるのは失望でもなく、怒りでもなく、長年つきあった友人が、相手の強がりを笑いながら見るときに浮かべる優しさに溢れたものだった。
「そうだろう? 私はお前をよく知っているが、金で取引ができる商売の人間以外と、お前が肌をかわした話は聞いたこともない。いくらでも、お前に言い寄ってくる相手はいたくせにな」

「それは、ただ単に、面倒だから……」
「その面倒、は、相手が向けてくるほどの想いを返せないということか? そんなの、当然だろう。私とお前では想いに温度差があるように、全ての者の恋が成就するはずもない…―――」
 キールは何も言わずに黙っていた。

 シンは、後ろの樹に、体を預ける。
「お前は調停者だ。五年に一度の協定には、出てくるだろうな?」
「……ああ」

「どこへ行く?」
「精霊の領域のどこかになると思う」
「そうか」
 予想の範囲外ではなかった。

「いつまで?」
「お前が、俺のことを忘れるまで」

「わかった。……元気でな」
 それが、二人の別れとなった。


 神ならぬ身のシンには、この後のことを知る由もない。  数年の後、まだ年若いキールが早世し、その弔いをすることになろうとは、誰もが予想だにしえなかった事だった。

 

遺書2へ続く

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