その日、世にも恐ろしい実験がなされようとしていた。
「彼はどこまで耐えられるか」。
家には台所がある。
オーブンもへらも、調味料も何もかもそろった、とびきりの台所である。
人はこれを厨房、と呼ぶらしいが、シンは一月前から、厨房を借りる約束をしていた。
今日がその、約束の日である。
目の前には、卵がある。
小麦粉、牛の乳、そしてボウルやかきまぜ機などの調理器具。
白い卵を手にとって、皇家につらなる年若い少年はしげしげとながめた。なるほど、これが生クリームになるのか。
この白と、生クリームの白はなるほど確かによく似ている。
手触りが堅いが、寒天のように水にふれると柔らかくなるのだろう。
そう納得し、容器に戻す。
……いや、ならないことは、天地神明に誓ってもいい。
ここに常日頃彼の口に入る美食を作っている料理人の一人でも、いや、料理は自らの家庭の調理だけという素人の女官の一人でもいい。
いたとしたら、婉曲に言葉を選んでその誤解を解いてくれただろうが、あいにく、ここにいるのは料理に無知な、ついでに世間一般の常識にもうとい皇族が一人いるきりである。
一応、彼の前には料理の本が大きく広げられていたが、その本の中には「卵とはどういうものか」とも、「卵の割り方」などというものも当然のことながら書かれてはいなかった。
彼は料理の本の指示にしたがって、手順を忠実に実行した―――。
卵を、そのまま、入れて、かきまぜる。
乱暴にかきまぜられた卵は砕けて透明な白身が飛び出し、黄身がやぶれた。
皇族の少年は首を傾げ、しかしそのまま続行する。
よーくかきまぜたところに砂糖と小麦粉を少しずつ入れ、さらにかきまぜる。
オーブンでちん、と焼くと、ほかほかのいい匂いを漂わせるようになった。……その生地のところどころに、何やら異色の白いものが見えてはいたが。
そして卵を再びボウルに入れ、かきまぜる。
生クリームを作るためである。
しかし生クリームはものの見事に失敗した。
当然である。黄身も白身も知らないのだから、それを分ける、ことなどできようはずもない。
本には一応、黄身を取りのぞき、白身だけを……と書かれていたが、少年は首を傾げる。
黄身? 白身?
魚の白身のことだろうか。
卵をかきまぜると出てくる透明な液体のことだとは、考えはまったく及ばなかった。
だいたいあれは、白ではなく透明ではないか!
―――加熱すると白くなるのだということは、少年が知るはずもない。
彼の食生活では、目玉焼き、などという手間がかかっておらず、実に黄身と白身がわかりやすい料理は存在しない。
卵というのは黄色く、中にご飯などを封じ込める紙の役目をするときに目に見えるのみで、あとは食後の甘い菓子類に使われる原型を止めていない卵のみが、彼の知るたまご、であった。
そういうわけで生クリームはできなかったが、これはまだしもの慰めであっただろう。
少年は考えた末、仕方がないので近くの人間に市販品の生クリームを買いにやらせ、それを使用した。
ただし、恐怖のスポンジはそのままである。
糖蜜につけた果物を切って間にはさみこみ、生クリームで飾ったケーキは、見栄えだけならかなりのものだった。
……見栄えだけならば。
三時間にも渡る奮闘の末、厨房をひっちゃかめっちゃかにして出来上がったケーキは、やや時間を置かれたあと、犠牲者の元へ運ばれた。
やや、のところは、厨房の後片付けをしていたのである。
常識の欠如かげんはこの上なく皇族らしい少年は、しかし、皿洗いや後片付けの習慣が身についていることについては、皇族らしくなかった。
そうして厨房を綺麗にし、その後、惨状を覚悟して早めにやってきた料理人たちは、厨房がきちんと元通りになっていることに意外さを禁じえなかったが、手間が省けたことに喜んだ。
また、あるはずの生ゴミが(卵のからが)見当らないことに気づいて、揃ってとある可能性に思い至り、沈黙する、という場面もあったのだが、それは後のお話である。
さて、恐怖のフルーツケーキをふるまわれた本人は、というと、一口食べると、口を閉ざした。
実の兄弟。つまり同じく皇族の一員であり、少年よりはるかずっと高い位にい、それ故に保護者である人物は、大人だった。
「………………お前が作ったのか?」
まずい、とも、水、とも言わずに、低い声でそうたずねた。
「はい! 兄上、誕生日おめでとうございます! どうですか?」
喜びと興奮できらきらしている顔だった。
手塩にかけて可愛がっている弟の手料理である。
壮絶な味に、何とも言い難く沈黙していた彼は、口元にふっと笑みを浮かべた。
「…………味が問題じゃない。お前が私のために努力してくれたことが、うれしいよ」
そして、そのケーキを半分、胃のなかにおさめた。
見上げた根性である。
なにせ、出された全部を食べたのだから。
なにしろケーキといっても、普通出されるような切り分けられたものではない。円形のがまるごと一つである。
一人で全て食べられるはずもなく、半分を切り分けて出したのである。
そして残る半分は、というと……。
一口食べ、鳥肌を立てて、双子の兄弟は硬直した。
「まずいっ!」
先ほどの犠牲者とは違い、こちらはまったく大人でなかった。
大人でなかったぶん、容赦なく事実を糾弾した。……特に、兄の方は。
「これを食え? これはもう、犯罪だっ! ゴーモンだっ!」
「あ、兄上はおいしいって……」
いや、そうは言ってない。
ただ努力をかっただけである。
「こんっなまっずいケーキがこの世にあるとは思えないぐらいにまっずいぞ! てめーも食え!」
皇族の少年のまだしも幸せな(不幸な?)ところは、常識の欠如とくらべ、味覚は至って正常だったということである。
仲の悪い双子の兄の方はともかく、仲のいい弟の方も口をおさえて沈黙し、兄の悪口雑言を止める気配がない。
その様子に、食器を手に取った。
「そんなにまずいかなあ……?」
呟きつつ一口食べて、今度ばかりは、喧嘩仲間の方が正しいと思わざるをえなかった。
そして頭をかかえてしゃがみこんだ。
「……うわあああっ! 兄上にケーキ半分食べさせちゃったあっ!」
「こんなげろくそ最低最悪破滅的にまずいもん、よく半分も食べられたな、お前の兄貴……。今頃胃が炎症起こしているんじゃないか?」
友達をおもんぱかって、何も言わないでいた双子の弟も頷く。
すっくとシンは立ち上がった。
「兄上に謝りに行ってくる!」
「んで、帰ってきたら、これ、ぜんぶ、食べろよ」
長年の喧嘩相手はその背にとどめを指した。
「……食べる、の?」
振り返った顔がひきつっていた。
「たりめーだ。命は循環し地に還り地からの恵みが命をつなぐ。お前の料理は食材への冒涜と言うっきゃないもんだが、使われた命は命だ。しっかり食べて循環させろ」
草の民は、料理を残すことを許さない。
「ぼーとくってなに?」
イールがのどかにたずねる。飲み物を飲み、ようやくさっきの破壊的喉ごしを忘れることができたらしい。
「けがすこと。考えてもみろよ。最上の食材だったとおもうぜ? こいつんちの食材だもんな。それを、これだけ、まずいもんによくしたよなー」
「……わかったよ、食べるよっ! 兄上にも食べさせたんだから、僕も食べないと…」
シンはとほほほ、と笑って、家へと帰った。
彼は執務室で仕事をしていたが、扉が鳴る音に顔を上げた。
「兄上……シンです。入ってもよろしいですか?」
さっきの恐怖の食物の記憶が蘇り、瞬間躊躇したが、それは杞憂だった。
「……いいよ、おはいり」
「失礼します」
頭を下げて入室してきた弟は、彼と目を合わせるなり、頭をさげた。
「ご……ごめんなさいっ! あんなまずいもの、兄上に食べさせてしまって……!」
「まずくたって、おいしかったよ」
とことん、大人であった。
あの壊滅的な味を、どうやったらまがりなりにも「おいしい」などと評せるのか。
あのケーキを一口食べた人間は、全員口をそろえて、彼の弟への愛情は本物だと、太鼓判を押してくれることだろう。
「と、とんでもないですっ! あ、あ、あんなまずい……吐き気がするようなもの!」
「だって、お前は頑張ったじゃないか。先刻ね、料理人がケーキを持ってきたんだ。お前がきちんと厨房を使ってくれたお礼だってね」
実際のところは、「あるはずのものがない事から導きだされる恐怖の推測」から、料理人たちがまともなケーキ持参で、機嫌うかがいにやってきたのだが、それは言わなくともいいことである。
「すみません、兄上……」
「だから、いいって言ってるだろう? 練習して、今度の誕生日には、うんと美味しいケーキと料理を作ってくれ」
「……はい!」
しかし幸せな気分は束の間だった。
双子の家に戻った少年の目の前には自分がつくった、恐怖のケーキがでん、とそびえるように待っていたのである。
少年はそれを、泣きながら食べつくした。
なるべく、丸呑み。
舌などの味覚器官にケーキが触れぬよう、また丸呑みしやすいよう、小さく切って、口に入れ、素早くお茶で流し込む。
「まずいーまずいーまずいー」
えっぐえっぐえっぐ。
「兄上、ごめんなさーい!」
兄の寛大さと愛を、身をもって知ったケーキであった。
後日談として、
練習にはげむ皇族の少年。
哀れなことに、それで被害を被ったのは、双子の兄弟であった。
ただし、兄の方はそれは容赦なく欠点をあげつらい、皮肉と嫌味の集中砲火を浴びせたので、まともな味覚を持つ彼のケーキ作りの腕はめきめきと上がり、二作目からは上達の気配がハッキリと感じられたのが救いである。
「……やればできるじゃん」
拷問であった時間が楽しみとなる。その転機は劇的であり、幸いにして、シンの保護者は二度目の拷問は(文字通り)味あわずに済んだようである。
「うん、美味しい。上達したな」
にっこり笑いかけられ、にっこり笑う。
つつましやかで、ありふれていて、微笑ましい、ある兄弟の絵であった。
これ以後、ケーキづくりは彼の特技の一つとなった。
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