
「ナギ」
息子が、ナギの名を呼んだ。
ナギの二人の子供たちは、父親であっても、父さん、とは呼ばない。ナギ、と呼ぶ。
名前を呼び捨てにすること、されることに抵抗がない――それが彼らの文化だ。
窓枠に肘をつき、外を眺めていたナギは振り返る。
「キールか。どうした?」
ナギにとって、この子供は。自分が赤ん坊の頃から知っている個体であり、にもかかわらず長いこと謎でありつづけた存在だった。しかし、それを気にしたことはほとんどない。
ナギがキールについて、知っているのは一つだけで、しかしそれを知っていれば他の要素など、どうでもいいものだったからだ。
―――キールは、何があろうとどんな状況に陥ろうとどれほど堕ちようと、自分たちに危害を加える事は、絶対にない。
それだけ知っていれば、他の全てはどうでもよかったのだ。
ナギはキールがその小さな手で必死に自分たちを守ろうとしてくれているのを知っていたし、その力もあることを知っていた。
「部屋の掃除、やっといたから。それと、地下の貯蔵庫の毛皮、なめしておいたよ。それと、これ」
キールが差し出したものに眼をあてて、ナギはため息を必死で自制した。
キールがなぜ、自分の身をすり減らすようにして、自分の価値を減じさせるような真似を続けているのか、知っている。
何もかも、ナギとイールのためだ。
だとしたら、その行為に対して彼らだけは、そんな行動をとってはいけない。
「キール……」
差し出された宝飾品を、ナギは二つの手のひらで包みこんだ。
膝を折り、目線を合わせる。
まだ小さな子供は、自然にナギを見返してきた。
ナギの子供のキールは生まれながらにして貴重な能力を持っており、その能力を活用して治療することを人々から強くのぞまれて、時々治療をしている。
そういう治療への感謝としてキールがもらう品々は、どれも高価で貴重なものだった。
「苦しいんじゃないのか? 治療をやるのは、負担がかかるんだろう?」
「……ちょっと。ちょっとだけだって」
キールが治療をする理由を、ナギはきちんとわかっていた。
ナギと、イールのためだ。
キールに治療を望む人々が、ナギたちに何もしないように。
「わたしは、お前が犠牲になってまで私たちをかばおうとする事を望んでいない」
キールはもじもじと両手を合わせた。
「苦しくないって言ったら、そりゃあ……ウソになるけど。でも、ナギ。俺は自分がそうしたいからやってるんだよ。おれがちょこっと苦しんで、それでナギやイールが楽になるなら俺、いくらだって―――!」
「キール」
ナギは小さな子供の決死の言葉を遮って、キールの頭に手をのせた。大人の、大きな手のひらだ。皮は長年の酷使によって分厚く丈夫になって、どっしりとした肉の厚みがあった。
「明日は買物に行こう。何か、欲しいものはないのか?」
キールは考え込む素振りを見せた。
実際のところ、キールは喧嘩友達と同じセリフを奇しくも父親が言ったことに、おかしみを感じていただけなのだが、ナギは知る由もない。
キールは顔をあげ、小さく首をふった。
「……ん……。おれ、いいよ。ナギはイールに買ってあげて。おれ、いらない」
「キール……」
それ以上ナギが何か言う前に、高麗鼠のように、キールは素早く離れていく。まずい話題にいきそうになったとき、子供がよくやる「とんずら」である。
ナギは吐息をつく。
キールは優しい。それは確かだ。
キールはとてもいい子だ。それも確かだ。
自分たちに対しては、キールはどんな人間よりも優しく、心から大切にしてくれている。まだ幼いのに、必死に頭を動かして守ろうとして。
子供なりの真心がナギの胸にしみいるようだ。
が、問題は、それがどこまでいっても、ただ二人の例外に帰結するところだった。
キールは、間違いなく天才だ。
ナギはそう思う。術の基礎を教える学校など、行く必要はこれっぽっちもありはしない。
しかしそれでもキールが行っているのは、行かなければ余計な注目を更に浴びる、という点と、「イールのため」だろう。
さかしくも。
ナギはキールの将来が心配だった。キールがその心のほとんどの空間を、ナギとイールという二つの名前で埋めているのはわかっている。
学校の教師に、普通の親のようにキールの様子を聞いてみたが、「大丈夫です、人望もあり慕われていて、まとめ役ですよ」という返答のみだった。
孤立している訳では、ないらしい。
けれど、友達という人種を家につれてきた事は、一人もないのだ。
好きな子は、と聞くと、かぶりを振る。
学校でなにかあったのか、と水を向ければ、いろいろな事を話す。
友達は、と聞くと、たくさんいる、という。
じゃあなんで一度も家につれてこないんだ、と聞くと、すぐに顔を暗くして、小さな声で、「いやだ……」と言う。
更になんで、と聞くと、「……俺に治療してくれって言うんだもん」となる。
ここまで来て、ナギも納得した。
キールの能力は貴重すぎて、天文学的だ。キールは学校で、何よりもまず、利用しにくる人間を警戒することを憶えたに違いない。
……もっと他にも、憶えていい事がたくさんあるだろうに、キールはまずそれを憶えざるをえなかったのだ。
利用価値が大きくて、他者に心など許せない。それがナギの子供に生まれながらに絡み付いた宿痾(しゅくあ)だった。
他者に許容されるよろこび。自分の存在を他人に許される喜びが、キールに訪れるのはいつだろう。
いらないよ、ナギとイールがいればいいもん。
ナギはそんな声が聞こえたような気がして、頭に手をあてた。
あの子に言ったなら、まず確実に返ってくるだろう答えだった。
イールは、双子の兄とは違ってまったくもって普通だった。もしも彼の兄がキールでなく、これほどまでにキールに似ていなければ、ごく普通に平凡に人生を過ごしたに違いない。
「イール」
一緒に本を読んでいた同じ顔の子供が二人。その片割れの子供が、ぴょこんと立ち上がった。
ナギがよく人から不思議がられるのは、外見がまったく同じ双子のイールとキールをどうして確率十割で見分けることができるのか、という件だ。
このときも、ナギは騙されなかった。
「お前じゃないよ、キール。
イール、おいで」
キールの頭に軽く拳骨を置いて、ナギはイールと一緒に台所へ向かう。
今日の食事当番はイールなのだ。そのかわりキールは後片付けと掃除当番だった。
イールはごくごく、普通の子供だった。
術も普通ていど、特殊な力も持っていない。何かが問題だとしたら、キールがイールを溺愛している事かもしれない。
乏しい「愛情」の持ち合わせを、たった二人にすべて注ぎ込もうとしているかのように、キールはナギとイールを大切にして愛していた。
ナギは父親であり、大人であるという立場から、「思いやり」とか「なつく」とかいう形容をされるかたちだったが、自分と同格かそれ以下のイールに関しては、ひたっすらに甘かった。可愛がった。 溺愛した。
甘やかしすぎたら、いい人格が形成されない、と言いもしたが、キールはにっこり笑って大丈夫、とのたまった。
そして、それはどうやら正しかったらしい。キールは甘かったが、節度を持っていたようで、イールはぴっかぴかのよい子に育ったのだから。
ナギは台所で、野菜が入った篭を渡す。
「イール、皮剥いてくれ」
「うん」
火の元、取り扱い注意。
ナギは自分のいないところで、子供たちに火を使わせる気はなかった。
そしてナギは子供だけ働かせて、自分は世帯主だからとくつろげるような人間ではなかったので、必然的に、二人で料理をすることになるのだった。
食卓に向かい合わせに座って、野菜を剥く。
しゅるしゅるしゅるしゅるしゅる。
根野菜の皮を剥いて、一ヶ所に積み上げていく。
とその時、イールが話し掛けてきた。
「ナギ……」
「なんだい?」
「ぼくは、大人になったらこの家を出ていくんだよね?」
「まあ、一人立ちして初めて大人と言うしな。私の扶養家族を、いつまでもやっているつもりはないだろう?」
「やっぱり……、キールと離れなきゃいけないの?」
「離れるって言葉の意味にもよるな。お前たちは一生兄弟だ。その絆はどうしたって切れやしない。かといって、今みたいに一緒に暮らすっていうのも、ちょっと無理があるな。そういう意味じゃ、離れる」
「どーしても、ダメ?」
……ナギは困った。
イールは顔を眼でいっぱいにして、ナギを見ている。
「……お前は、どうしたいんだ? 大人になっても、キールに養ってもらいたいのか?」
「そ……」
「それとも家計は別々で、ただキールと一緒にいたいのか?」
「うん! そう!」
ナギはほろ苦く笑った。
「……それは、無理だと思うよ、わたしは。お前だって、いつかは伴侶をめとる。そうすれば兄弟と同居なんてできない。それに……私は、あんまりお前にキールと一緒にいてほしくないよ。あの子はお前に、ものすごく! 甘い。ついでに、あの子ができない事の方が少ない。お前は、自然とキールの力をあてにして、頼ることになってしまう」
「…………うん」
イールはちいさく、頷く。
ナギは、いま、イールから意見を聞いた。だから、ナギはキールの側からも意見を聞かなければ、公平とはいえない。
人の話には、必ずその人間の主観が入る。だから一方の意見しか聞き取らずに決めつけることほど楽で、誤解が生じるものはない。
意図してであれ、意図せずにであれ、人の話というものは、歪む。だから、特に当事者の話は、割り引いて考えるべきなのだ。
キールの意見も聞かなければならないだろうが、ナギはキールがどう答えるかに関しては、絶対的なほどの自信を持っていた。
キールから出てくる答えはわかっている。「イールがそうしたいんなら、俺はべつにいーよ」だ。
普通の兄弟が、同居して自立するのはまあ普通のことだろう。しかし、一方が一方を溺愛している場合は、ちょっとどころでなくまずいのではないか。ナギはそう考えている。
ましてや、その溺愛する人間が、金も力も持っているとあれば、イールの自立心やら何やらにナギが危惧を抱いたとしても、仕方が無いだろう。
ナギはふと、キールのことを考えた。
年相応のイールからは年相応の相談をよく受けているが、キールは、ナギに頼ったことが一度もない。
それどころか、ナギやイールと喧嘩したことすら、一度もないのだ。
まるでその分の回数までも使おうとしているかの様にキールが喧嘩しているのは……、とそこまで考えて、ナギは思考を停止させた。
ナギは、できるだけいい父親に、理想的な父親になろうと、常に自分に架している。
そしてナギの考える「理想の父親像」には、「子供の選んだ相手に反対しない」という条項も含まれていたが、もし……もしもキールがシンを選んだら、ナギは反対せずにいられる自信がなかった。
シンというのは、キールの喧嘩仲間で、同い年の子供で、……そしてそれを差し引いても絶世の美貌という形容を大人のナギにさせて、誰からも異論が出ないほどの美貌の持ち主だった。
その子に悪意は持っていない。
むしろ、好意を持っている。
しかし、それでも―――
不幸になるのは、目に見えている。
ナギはため息をつく。
あんまりに兄に似た外見以外は、まったく兄と共通する要素を持たない子供を促して、ナギは料理に取り掛かった。
2001 12/5 up