進藤ヒカルの陰謀
誰かを好きになるというのは、本当に素敵で不思議な感情だと思う。
出会うまではその存在すら知らなかった。もともと自分の人生にいなかった。顔も名前も、本当にその人がこの世にいるのすら知らない。そんな相手を思って涙を流したり夜眠れないほど恋焦がれたりする。好きだと言われたら、もうそれだけでその日一日ずっと幸せ。
―――そんな、小説や物語のようなことを、本当にしてしまう。
いつの頃からだっただろう? 自分に集まる異性の瞳を自覚するようになったのは。
あきらが振り返って正視すると、彼らはきまってばつの悪そうな顔で慌てて目をそらした。
その仕草に醜さを感じて、自分の体がその対象になっているのかと思うと、嫌悪感で産毛が逆立った。だからあきらは一時期身体の線を隠すような服ばかり好んで身に付けていた。
胸が膨らむのも、体つきが丸みを帯びるのも、両方嫌で仕方がなかった。―――でもそれも、今は嫌いじゃない。進藤は窒息しそうなほどの愛の言葉で、あきらの心に突き刺さったトゲをぼろぼろに腐食させて跡形もなく壊してしまった。
彼に抱きしめられるたび、受け止める弾力があってよかったとおもう。彼の手にしなやかに馴染む肌でよかったと思う。彼の腕のなかにすっぽり入る、彼よりひとまわり小さな身体でよかったとおもった。
棋界の問題児である彼を、閉鎖しきった囲碁界に風を通す風雲児と見る者もいれば単なる礼儀知らずの若造と見る者もいる。
そんな人々から遠まわしに「なぜ進藤を?」と言われるたび、あきらは最高に美しく微笑んでみせる。
「僕は男を見る眼はありますから」
翻せば「あんたは進藤以下」。
あきらは喧嘩の売り方も買い方も知っている。あくまで礼儀正しく、ただし瞳は挑戦的に。
巧言令色、慇懃無礼はあきらのモットーだ。
棋界きってのスターを父にもち、自らもストレートでプロ入り、女子の間で圧倒的な強さを誇り、男子まで含めた若手ナンバーワン。実家は金持ちで、容姿は飛び切りの美人。北斗杯参加国の中で唯一女子で出場権を勝ち取った美貌の才媛。
―――これだけ集まれば、やっかみが起こらないほうが珍しい。
あきらにとって、嫉妬されるのも嫌がらせを受けるのも、両方とても身近なことだった。身近すぎて、痛覚が鈍くなってしまったぐらいだった。
それでも―――……棋院の入り口でオレンジジュースをかけられたときはさすがに困った。あきらはその日、白のオーガンジーをロングドレス風に仕立てたものを着ていたので、尚更だった。
一部始終を見ていた棋院の職員が彼女にタオルを差し出してくれたが、それぐらいじゃどうしようもない。椅子にすわってタオルでぬぐいながら、どうしようかと考えあぐねていた。
そんなときに来てくれたのが進藤ヒカルだった。
「あれ……あきら?」
ヒカルは事情を聞くと、ぽんと頭を撫でてくれた。
「ショックだったよな……大丈夫か?」
年端もいかない子どものように頭をなでられて、もうそんな年じゃないのに、と思ったのはほんの一瞬で。
あきらは自分が傷ついていることに気がついて、膝に置いた拳を握り締めた。
…傷ついている。たかだかあんな、低俗な嫌がらせで……。
―――他人に嫌われていることをはっきり知らされるのは、つらい。
「あ、あきらオレンジジュースがついてる」
顔をあげた瞬間、額についたオレンジ色の水滴を舐め取られた。
ぎょっとしたように身をひいた棋院の職員とは別の意味で、あきらはしばらく額に手をおいて、唖然としていた。
イライラも、嫌な気分も、こんなにも自分は嫌われているのかというショックと落ち込みも、人目をはばからないキスで消えていく。
そのあっけなさは魔法のようで、茫然とした。
やがて、あきらは顔をあげ微笑む。
「ありがとう」
どんな嫌がらせを受けても、進藤ヒカルの言葉ひとつで心は嘘のように軽くなった。どんなことがあっても、彼がいれば、あきらは笑顔でいられた。
あきらにとってヒカルはそういう存在だった。
―――だがそれにも限度というものがある。
その日あきらは冷静な彼女らしくもなく大声をあげた。
「―――は!?」
仰天するあきらの目の前でヒカルはにっこり笑っている。
「お願いします」
「いや、その、だって、えっと」
「あきら、お願い!」
「や、やだよなんでそんな……」
ヒカルは両手をあわせて拝んだ。
「一生のお願い!」
「嫌だ!」
ヒカルも叫べばあきらも叫ぶ。
北斗杯前日。ホテルの壁は防音機能の限界を試された。
§ § §
五分ほど「お願い」「嫌だ」をくりかえしたすえ、ヒカルは順番に説得をすすめていった。
「塔矢。オレと塔矢って恋人だよな?」
「そうだよ。でも……」
でも、のあとを言わせずヒカルは畳み掛ける。
「普通の恋人はそれぐらいやってるもんなんだけど」
ぐっと言葉につまった一瞬の間を見逃さず。
「オレ―――これまで何度も塔矢のいわゆる『生まれたままの姿』を見てるよな?」
「そ、そうだけど……」
こんども逆接の接続詞の続きを言わせない。
あきらの裸の肩に手をおいてヒカルは言った。
「こういうことあんまり言いたくないんだけど―――オレたちこれまでたくさんえっちしてるよな」
あきらの顔が朱色に紅潮した。
なにか言いかけたあきらの機先を制して、
「身体に力が入らない塔矢をお風呂に運んで洗ったことも何度もあったよな」
「あ、あれは君がしつこいから……っ!」
男より女のほうがはるかにセックスにタフだがいくらなんでも限度というものがある。
ヒカルは自分の言った言葉に自分で顔を赤らめている少女をじっくり見やり、にこりと笑った。
「つまりオレは塔矢の裸を何度も見てるんだけど、異論ある?」
「……ない、けど……」
「全裸とコスプレだったら、大抵の女の人は全裸の方が恥ずかしいと思うんだけど……。コスプレする女性はたくさんいても、全裸で街を歩く人はまずいないし」
「そ、うだけど」
「んでオレは塔矢の恋人、だよな?」
さきほどの確認をもう一度持ち出して、怪訝な顔で頷くあきらにヒカルはもう一段階、論理の階段をくみ上げる。
「恋人以外とそういうことをするのは悪いこと、だよな?」
進藤が別の女の子と? ……想像しただけでぞっとした。
「……したらやだ」
「恋人以外に頼むのは悪いことだったら、オレがあきらに頼むのはきわめて道理にかなったものなんじゃないの?」
う、とあきらは絶句した。
常日頃は論理的展開だとかそういう事柄からは無縁のくせに、なんなのだコレハ……。
あきらがヒカルの要求を断るのはなんらかの明確な理由あってのことではない。ただ、とにかく彼女はそういう育ちをしていないのだ。はっきり口に出せる理由はないが、とにかく駄目だと感じる―――そういうものは厄介だがこうして論理をくみ上げられ面と向かって尋ねられると感情的なものだけに理由がいえない。
「そ、その……」
「あきらが抵抗あるのはわかるよ」
ヒカルはうんうんと頷いてみせる。―――こういっちゃなんだが、ヒカルはあきらのそういう性格ひっくるめて大好きなのだ。
あきらはいまだにヒカルの前で着替えるのを恥ずかしがる。異性の前で抵抗なく全裸になるような女の子はそれはそれでヒカルは好きだが、本気にはなれないだろう。あきらが「慎み」だの「恥じらい」だの、今のすれた女の子が鼻で笑うような要素を山ほど持っているからこそ、ヒカルは彼女が大好きなのだ。
ヒカルの心境を誰かが読んだらそっぽを向いてこういうだろう。
勝手にやってろ。
「だから、こうしよう。―――明日の北斗杯で、オレが勝ったらってことで」
「……進藤」
日本チームは明日二戦することになっている。
ヒカルは素早くあきらの唇をついばんで、間近からその瞳を覗き込む。
「二戦のうち一戦だけでもオレが負けたらもう二度といわない。……だから、塔矢も勝ったときは覚悟決めて?」
数分後、あきらの部屋から出てきたヒカルは社に声をかけられた。
「なんや? 夜這いにいったはいいけど女に拒否されて叩き出された―――ゆう顔してるな」
見上げた社の顔に面白がる笑いが張り付いているのを見て、ヒカルはため息をついた。
夜の一時すぎ。
ホテルの廊下の照明は落とされ、非常灯の赤い光が赤茶色の絨毯を照らしていた。
「いや……夜這いの方は拒否されなかったんだけど……」
社の顔が引きつった。
「な、なんか自分今さらっと物凄いこと言わんかったか?」
「オレが塔矢と付き合ってるの、知ってるだろ?」
「いや、結婚するからいいゆう問題でも……」
社は言いかけて言葉に迷ったようすで、がしゃがしゃと頭をかく。
「……まあええ。それで? 夜這いは成功してスッキリしたんなら何そんなしけた顔しとんのや」
「なー社ー。恋人いる?」
「おるで。明日も応援にくるんや、お前らばっかにあてられてムシャクシャしたさかい、明日は紹介するで。逃げんなよ」
「恋人に言葉のはずみで約束してしまったけれども、考えて見れば結構難しい約束だったってことある?」
囲碁の棋戦はどんな強豪の名人であっても、100戦して100勝することはない。
「趙治勲さんでも地元の韓国勢には不利だったんだぜ〜」
韓国で囲碁が興隆したのは、極論すれば彼のおかげだ。
日本というアジア随一の富国、お高く澄ました鼻持ちならない国で、日本出身の棋士をばったばったと打ち倒し、日本の囲碁界の頂点についた韓国出身棋士。
……これが、韓国で熱狂的人気をもって迎えられ、結果として囲碁もまた興隆したのだ。
社も納得したように一歩退いた。
「ああ、ああ。なるほどな。女にした約束は男の面子もあるしなあ……」
「そうなんだ」
そう、約束は約束なのだ。
あきらは約束は絶対に守る。つまり後はヒカルが勝ちさえすれば、夢はかなうのだ。
なんだ、いたってシンプル、簡単じゃないか。
が、できれば保険がほしい……。
ヒカルはひとつ頷き、拳を作った。
「男の夢がかかってるんだ。韓国だろうと中国だろうと、絶対負けられない」
社が首をしかめ、至極もっともな質問をした。
「おい進藤……。いったい何を賭けたんや?」
§ § §
塔矢あきらは、日本に複数ある棋院すべての女流棋士のみならず、全世界の女流棋士のなかでも、随一の容姿の持ち主だ。
烏の濡れ羽色の髪は肩の長さで切りそろえられ、動きにあわせて揺れる。立ち姿も凛として背筋にしなやかに一本芯が入っていた。品行方性、端正な面立ち。色白の肌は陶器のような張りと輝きをもち、ふっさりと目をふせる様も気品漂う。
北斗杯の会場にて、彼女は文句なしにもっとも注目を集めていた。ちなみに高永夏はとうに北斗杯を卒業している。
彼ら三人は、十五歳からの三年間、ともに北斗杯に出場していた。三人とも十八歳になる今回が、最後の北斗杯になる。
韓国や中国のメンバーは流動的だったことを考えると、彼ら三人がいかに若手で抜きん出ているかわかる。―――もっとも物事には常に二つの面がある。裏をかえせば、いかに日本の棋界の若年層の層が薄いかということでもあるが。
本日の二連戦を間近にひかえ、進藤ヒカルは気合が入っていた。傍目にもわかるぐらいにボウボウ燃えていた。後光までさしていた。
「絶対勝つ!」 という気迫むんむんの顔を見て、あきらはちょっと後悔した。……昨日はなんとなく言い負かされたというか空気にのまれて約束してしまったが、ヒカルの顔をみれば「やっぱりやめる」で通用しないことは明らかだ。
昨夜、ヒカルがホテルの部屋を訪ねてきたとき、入り口で「夜這いにきたよー」とあっけらかんとして言った彼を、あきらも笑って受け入れた。
あきらの肌も唇も、すべてヒカル専用だ。他人に触らせるつもりはないし、ヒカルにふれてもらえればとても嬉しい。……言ったことはないけれど。
体中にキスをうけ、じゃれあいながら身体に痕をつけあった。見えるところにつけようとする彼と、それを止めようとする自分の、たあいもない会話。されるがままただ横たわっていたのは昔の話だ。今は彼の肌に自分から腕をまわし、唇を寄せる。強く抱きしめられて感じる痛みすら、幸せを感じるスパイスだった。
そうして二人で一つのシーツに包まっているときに、進藤は「お願い」をしたのだ。
即座に却下したあきらにヒカルは食い下がり、「男の夢なんだ!」という力押しプラス論理でとうとうあきらに譲歩させた。
……本当に、進藤が二連勝したらやらなきゃいけないらしい。
あきらは胸中深くため息をついて、覚悟を決めた。
まあ、日本チームにしてみればどちらに転んでも御の字だ。
進藤が勝てばそれだけ日本が優勝する確率もあがるし、進藤が負けたらそれはそれであきらは約束を果たす必要がなくなる。
―――どちらを望めばいいのか、実際のところあきらにもよくわからなかった。
§ § §
嬉々として進藤が取り出したものを見て、あきらはため息をついた。
気合だけで勝負に勝てるなら苦労はしない。
ただし、時としてその「気合」、メンタル面が勝負に深くかかわってくることは、どんな棋士にも否定できない事実だ。
進藤が取り出したのは、エプロンだった。
腰から下はひだのある白い布だが腰から上はハート型のクッションになっていて、ハートの周囲にフリルがついている。
ヒカルはうきうきらんらん笑顔で差し出し、言った。
「つけて♪」
語尾にハートマークが見えた気がした……。
しかもフリルのついたハートが。
ヒカルは瞳を輝かせて感極まった声をあげた。
「ああ……やっと塔矢の裸エプロンが見れる……っ!」
「……そんなのが……キミの夢なのか……?」
「うん。つーか全人類の男の夢さ!」
「…………あ、そう」
あきらは観念して一際大きなため息をつくと、そのエプロンを白い指先ですくいあげた。
「……着替えて、くるよ……」
ヒカルの準備は万端だった。
二人のオフが重なる日を見計らって、ホテルをとった。それも、部屋にキッチンがついているかなり高い部屋を。
「だーって俺んちは母さんいるし、塔矢の家もお母さんいるし。かといって料理は必須アイテムだよな!」という、朗らかというよりどこか突き抜けた明るさのヒカルの言葉に、あきらは涙をのんだのだった。
前ならいい。前なら。
それならまだ耐えられる。
けれど料理をするとなると、どうしても進藤に背中を見せなければならない……
ヒカルと付き合い始めてから、あきらの料理の腕はかなり上がった。今日も言われてちゃんと食材を買い込んである。―――しかし……。
食事じゃなく料理している姿を目的でする調理は初めてだった。
ヒカルが用意したのは背中で白い布が交差するタイプのスタンダードなエプロンで、つまりほとんど後ろはがら空きで……あきらは涙が出てきた。
ほんとに世の中の恋人たちというのはこんなことをやっているのだろうか……?
服を肌からすべりおとしてたたみ、そしていやいやながらエプロンをかぶって後ろで締める。
……おちつかない。
身体に布のあるべき箇所に空気しかない。
更にもっと言うと、気が進まない。
ため息をさらに五つほど生産して、あきらは覚悟を決めて出ていった。
ヒカルはあきらを見るなり歓声をあげた。
「かわいい!」
……あ、そうですか。
「美人!」
……はいはい。
「色っぽい!」
……こんな格好してればね。
剥き出しの腕やら肩やら首すじやら太腿やらに進藤の視線が集中するのを感じて、体温が上がるのがわかる。
白かった肌が紅色に染まり、その上を視線が這う。
いつの間にか無言になった進藤のまなざしが、いたたまれなかった。自然と顔をそむけ、身体を縮める。
視姦……されている。
視線がもぐりこんでくるようだった。今自分は進藤の脳内でどんな卑猥なポーズをしているのだろう。想像するだけで身体がかっと熱くなった。
眼差しで―――犯される。
頬に手の感触を感じて、あきらは顔をあげた。
「あきら。顔あげて」
さらり。進藤の手の感触とともに頬に自分の髪があたる。ヒカルがあきらと呼ぶのは、久しぶりだった。
「亀みたいに首縮めてるのは塔矢らしくないよ。堂々と胸張ってないと。今日は何にもしないから、ご飯つくって」
「……ほんとに、何にも、しない?」
念押しすると、ヒカルは爽やかな笑顔で確約した。
「しないしない。料理しているあきらに後ろから抱きついたりエプロンの脇から手を差し入れて胸揉んだりうなじにキスしたりいきなり後ろから入れたりしない」
聞いてるだけで体が火照ってきて、あきらは赤らんだ顔でヒカルを睨んだ。
「あ、その目反則。理性が危ない」
言われて顔をそむけた。
途切れがちの声で言う。
「……できれば…料理してるあいだ見ないでほしいんだけど……」
「それは、駄目」
小気味よく言い放ったヒカルにあきらは観念して、部屋の隅のスーパーの袋を取り上げた。
歩くのですら恥ずかしい。剥き出しの脚に、視線が集中するのがわかる。
どこかぎくしゃくした動きで、あきらは袋を持ってキッチンへ向かった。
ホテルの部屋に、キッチンがついていることはまずない。あるとしたら長期滞在の宿泊客のための部屋か、スイートルームだ。
ホテルの最上階にあり、ひろびろとしているこの部屋は、たぶん後者。一泊ン何万かン十万だろう。
頬の火照りが鎮まらない。あきらはため息をついた。
―――北斗杯の大会中、あきらは社の恋人に紹介された。
セミロングの髪を耳にかけるようにしてなでつけた彼女は白のシャツに紐で下げるタイプの青のワンピースを見につけ、胸元にエメラルドのプチペンダントが光っていた。
進藤との約束が脳裏にあったのは事実だが、どうしてそういう流れになったのかは憶えていない。気がつくとそんな話になっていた。
「裸エプロンですか? 男の子ってそういうの好きですよねー。うち、社の前に付き合ってた男にもそれ言われました。え? やってあげましたよ。えらく喜んでくれて、好きな人が喜んでくれるの見るのって嬉しくないですか?」
……彼女の言葉は一理ある。
あきらだってヒカルが喜んでくれるのは嬉しい。それを見ると、無条件で嬉しくなる。だからこんな格好をしたのだ。
一勝一敗。あきらとの約束を果たせずに落ち込んでいたヒカルを励ますために。
ヒカルは一気に元気になった。それは予想通りなのだが……。
……ただ……予想以上に、恥ずかしい。
あきらがホテルのキッチンを扱うのはこれがはじめてだったが、予想外に揃っていた。
まな板もホテルの刻印がある白いプラスチックのものがきちんとあり、包丁も出刃、刺身、柳、万能包丁と四種そろっている。鍋も大鍋と小鍋が二種類あるし、フライパンもあるしざるもある。
そのどれもにホテルの刻印がはいり、まるで一度も使ったことのないような輝きで(ひょっとしたら本当にそうかもしれない)ぴかぴか光っていた。
あきらは豚ばら肉をパックからとりだし、これが最後ときめたため息をついた。
背中に突き刺さる視線を無視しようと努力しながら肉をきざみ、皿の一枚を取り出して下味をつける。野菜の皮をむき、刻み、フライパンに油をいれて熱し、刻んだ肉を落とした。
威勢のいい音が弾け、一気にいい匂いが広がる。
「……何作ってるの?」
「チンジャオロース」
あきらはできるだけ自分の今の姿を思い出すまいと努力していた。……無駄な努力なのだが。
背中は交差する布をのぞけばほとんど剥き出しで、特に下半身は動くたびに風が通り抜ける。背中は首すじから下すべて剥き出しで、背中ごしなのにヒカルの視線が痛いぐらいにわかる。
さすがに炊飯器まではないだろう―――と思ったので(いや実際はあったのだが)買っておいた白いご飯を添えて、テーブルの上に並べると、あきらはほっとした。
テーブルにつけば、背中をみせずに済む……。
そう思ったが、椅子に座ったときのぺっとりした感触にあきらは身震いした。
臀部の素肌がニスを塗られ滑らかな木製の椅子に張りつく。
「し、進藤……。もう、何か着ちゃだめかな」
「え? 今日一日の約束じゃん。温度設定高めにしといたから寒くもないだろ?」
「恥ずかしいんだよ!」
握りこぶしで訴えたが、ヒカルはにやりと悪役然の笑みを浮かべて言った。
「やだ」
「…………進藤……」
「だって塔矢、そんなに恥ずかしがってたら絶対二度目は嫌だっていうだろ? だったら今回は妥協しない。七時までよろしく。……それともあとでもう一回やってくれる?」
あきらは言葉に窮した。
「だから、駄目。……あきら、全身ピンク色に染まって、すっごい可愛い」
ヒカルは確信犯の顔で、ゆったり笑った。
「手を出さないよう理性をたもってるオレも結構苦しいんだから」
あきらは目を閉じた。
……落ち着かない。
理屈で言えば進藤の言うとおりだ。
全裸より今の方が布は多いし、さんざん彼に抱かれてきたのだから、恥ずかしがるほうがおかしいかもしれない。
でも―――いたたまれないのだ。
料理しているあいだ、ふとした瞬間目に入った進藤の瞳はあきらへの欲情で黒く濡れていた。自分へと向けられる、溶けた鉄のようなどろどろの欲望は生々しすぎて……。
美味しいはずの食事は、ちっとも味がわからなかった。
二人して食事を終えると、今度は後片付けが待っていた。
ホテルの備品なので念入りにたわしでこすり、スポンジで洗う。広々としたシンクは洗うにも水につけておくにも便利で、十分ほどで元通りになった。
料理はした。
食事もした。片付けも。
次は一体何をしようと進藤を振り返ると、彼はにこりと笑った。
「塔矢、こっち来て」
首をかしげつつ、言われるままにそちらへ向かうと、ヒカルは至近距離からあきらを観察した。それも、あきらの周囲をまわって。
目線で、肌が焼け焦げる気がした。
「し、進藤……。そんなに見ないでほしい」
「脳内のフィルムに焼きつけておかないと。次塔矢がしてくれるのはいつかわからないし」
「……それで思い出すたび喜ぶのか……?」
「そうそう!」
あきらは少し想像して―――やるんじゃなかったと後悔した。
あきらの裸エプロンを思い出し夜毎妄想にふける進藤というのは………………あまり見たくない構図だ。
あきらは胸元に手をあてた。
……心臓の音がいつもよりずっと早い。体が熱い。太ももをこすりあわせても、熱のなぐさめにもならないほど。
付き合い始めてから、いったいいくつ、吐息でささやきあう夜を過ごしただろう。何度ヒカルの熱を注ぎ込まれただろう。
冷静にすら見えるヒカルの態度が憎らしかった。
「……進藤。楽しんでるだろ」
「えっ」
と意外そうにヒカルは目を見張り、
「楽しんでないと思ってた?」
「……思ってない……」
馬鹿馬鹿しい抗議だとわかっている。
それでも言わずにいれないのは、空白が怖いからだ。口を閉ざせば―――ホラ。
身の置き場のない沈黙が、訪れる。
ヒカルはにこにこしながらあきらを見ていた。
あきらは棒のように突っ立っていた。
そんな沈黙が一分あまりもつづき、あきらはとうとう口を開いた。
「……椅子に座っていいかな」
「どーぞー」
椅子に座った。
「……何すればいいかな」
「自由にしてて」
―――この格好でどうやって自由にしろと?
「楽にしてくれてればいいから」
―――だからこの格好でどこをどう楽にしろというのだ。
「……進藤」
「なーに?」
「……その目、やめてくれないか?」
「どの目?」
「やらしいスケベジジイみたいな目!」
「塔矢……」
ちっちと指を振り。
「男がすけべでなかったら、人類滅びますって」
進藤ヒカルは堂々とすけべだった。
その事を自覚していてしかもいささかも悪びれていないだけにタチが悪い。
あきらは仕方なく椅子に座ったままじっとしていた。
……目をとじても、ヒカルの視線を感じる。肌はすっかり毛羽立っていた。毛穴の一つ一つからヒカルの視線がもぐりこんでくる。頬の火照りはしずまる気配も見せない。
指一本ふれぬまま、進藤に抱かれているような錯覚に、あきらは自分のからだを抱きしめた。
抱きしめた裸の肩にも腕にも視線が、染み入っていく。
あきらは目をきつくつむった。
―――食べられる。
ヒカルは猟師だ。あきらは獲物。
自分が獲物であり、進藤に食べられるための仔兎にすぎないことを、思い知る。
夜の七時までは、とてもとても長くて―――そして、短かった。
「塔矢」
声をかけられたあきらがはっとして顔をあげると、ヒカルがやさしい笑顔で肩にジャケットをかけた。
「今日はありがとう。着替えていいよ」
声に、時計をみればちょうど七時だ。
ほっとしたような、残念なような、どちらともわからぬ気持ちで、あきらは立ち上がった。
着替えが置いてある部屋に向かった背中に、声がかけられる。
「着替えたら送っていくよ。もう夜遅いし」
―――愕然として、あきらは振り返った。
「泊まって……いくんじゃないのか?」
「宿泊料金もったいないからオレは泊まるけど。あきらは家まで送るよ。オレの我が儘のんでくれるかわりに手は出さないって言っただろ」
う、とあきらは絶句した。
「約束は守ります。だーかーら。送っていきます」
身体の奥に灯された燠火が、じわじわとあきらを焦がしつづけている。―――羞恥と興奮が同一のものだと言ったのは誰だっただろう? 熱は、自然におさまる範囲を、とうに越えている。
あきらは進藤の胸に手をおいて、彼を見上げた。
軽く、息を呑む気配。
その一言を言うのは恥ずかしかった。富士山並みの心理的抵抗をのりこえて、あきらは言った。
「抱いて……くれないかな」
「え、なに? 聞こえなかった。もう一回」
その表情を見ればわかる。ヒカルはあきらの状態をわかっていた。そして今の状況が楽しくてたまらないのだ。
あきらはにんまり笑う進藤の目を睨みつける。
「……君はいじわるだ」
「うん。ときどきね。でもいつもはやさしいだろ?」
「抱いてほしい」
「うん」
ヒカルは笑ってあきらを抱きしめた。
「オレも、ずっと抱きたいって思ってた」
§ § §
発端は、ヒカルのちょっとした望みだった。
「あきらの裸エプロンが見たい!」というのもその一つだが、ちょっとちがう。本当の目的はもう他にあった。
―――あきらの方から求められたい。
ヒカルは自分がかなり恵まれている方だという自覚がある。
両親は健在で、美人で可愛い相思相愛の彼女はいるし、仕事は順調で才能を認められている。収入だっていい。
あきらが自分を好いていることはよーくわかるのだ。気高く澄ました氷の花のような彼女が、自分に対するときだけは、優しく砕けて身近な野の花になる。―――でも決まってデートに誘うのはヒカルなのだ。
常日頃から彼女に求められている男にはわからないだろうが、いっぺんぐらい彼女の方から誘われたい。求めてほしいという気持ちは切実だった。
そんなときに現れたのが緒方である。
面白がって事態をひっかきまわす性癖の緒方にこんなプライベートな話をするほどヒカルはうかつではないが、彼はとにかくその道の「熟練者」であり、棋界において彼の女癖の悪さは有名だった。棋界の女タラシといったら緒方精次である。それでいて一つも面倒ごとにしないのはさすがというべきか。
そういう彼から雑談の合間にネタを拾い上げ、女性を「その気」にさせるには思い切り恥ずかしがらせればいいという考えを吹き込まれたヒカルは裸エプロンということを思いついた。
これは、いい。
思いついたときヒカル自身拳をつくって「ポン」とやってしまったほどだ。
裸エプロン自体大好きだし、あきらは絶対に嫌がって恥ずかしがるだろう。
しかし約束した事項は結構大変で、だから、ヒカルは社の彼女にも根回ししておいた。
社の前で「男の夢」ウンヌン言えば、人並みの好奇心のある社は突っ込んでくるだろう。そこでヒカルはざっと約束の概要を話し、彼女を紹介してほしいと頼んだ。
もしもヒカルが敗れたときの保険として、あきらに「裸エプロン」の肯定的な話をしてほしいと。
社によく似て快活でくだけた女の子は、ヒカルの裸エプロンにかける情熱を聞くと笑いながら了解してくれた。―――ちなみに買収代金と紹介費用は次の社とのデート費用全額ヒカルもちということで両者満足のうちに妥結した。
大した根性というべきか。
……まったくもって、用意周到な男であった。
この作品を書いたのはへらべった星人のスウさまから「裸エプロンするあきら」が見たい! というリクエストをいただいたのがきっかけです。
裸エプロン!
いやーいいですよね、裸エプロン!
絶対あきらやあかりは似合うと思うのですよ……ふふふ。ヒカルの目線の前に全身ピンクに染まる彼女たちが目に浮かぶ……。
んでヨコシマな私は書きました。
書きましたともさ。一歩間違えてこれは18禁じゃないかっつーシロモノを。
あー楽しかった!(結局それかい……)
それにしてもこのヒカルはほんと口が達者ですね……。赤ずきんのときも同じ感想いっぱいきましたけど。
うーん、私はこの種の、「憎めない口が達者なすけべ」が好きみたいです(笑)
はとり様が書いてくださったイメージイラストはコチラ!
本編の「水の壊れる瞬間に」へ行く
2003 8/2 up
ヒカルの碁のページに戻る

|